見出し画像

「どう生きるか」2022年8月28日(日)四街道教会礼拝説教

2022年8月28日(日)四街道教会礼拝説教を公開します。

旧約聖書:ミカ書6章1〜8節
新約聖書:エフェソの信徒への手紙4章17〜32節
新約聖書:マルコによる福音書10章46〜52節

本文:

 何らかの理由で目が見えなくなってしまった人がイエスと出会い、目が見えるようになってイエスに従って生きる新たな人生をスタートさせました。ここに出てくるバルティマイという人は生まれつきの視覚障がい者ではなく中途失明者だったようです。というのも先ほど朗読された新共同訳聖書では「先生、目が見えるようになりたいのです」と書かれていましたが、新しい聖書では「先生、また見えるように」なりたいと書かれていました。この訳の違いが気になって英訳聖書ともう一つ別の私訳の聖書を確認しましたがどちらも「私が再び見えるようになることです(let me see again.)」と書かれていました。原文であるギリシア語聖書では「視力を回復する、再び見えるようになる」ことを意味する語が使われていますので、生まれつき見えなかったのが見えるようになったのではなく、何らかの原因で見えなくなっていたのが再び見えるようになったと訳すのがここでは自然なのでしょう。

 細かいなと思われるかもしれませんがここがこのお話の大事なポイントのように思います。というのもかつて私が働いていた教会に視覚障がい者のクリスチャンの方がおりまして、その方が「中途失明によって人生は大きく変わる」と力説されていたことを思い出すからです。現代の場合例えば糖尿病によって中途失明してしまう方が増えています。中途失明すると行動範囲が極端に減るだけでなく、一から点字を覚えるのも難しいですから新聞や雑誌が読めなくなり、スマホ、パソコンも今まで通り使えません。さらにこれまで築いてきた人間関係も大きく変化して孤独を感じることが少なくありません。中途失明によって起こる変化というものは決して小さくないのです。

 人生の途中で失明してしまい、いまや道端で物乞いをして生きているのがバルティマイです。失明前までどんな生活をしていたのかについて聖書は触れていません。でも目が見えていたころはおそらく道端で物乞いをする生活ではなかったでしょう。彼は人並みの生活を送っていましたが失明を転機に道端で物乞いをする生活へと変えられていったのだと想像します。

 私たちの人生においても何らかの病気や怪我、疫病などがきっかけとなってそれ以前とは全く異なる人生を強いられることがあります。そして自分の意思ではなしに強いられた人生の変化が受け入れ難いほどに強いストレスとなり、生きづらさを感じる人が少なくありません。先日東京大学の研究チームが、2020年3月から今年の6月にかけて新型コロナウイルス感染症が流行した影響により国内で増加した自死者は約8千人に上るとの試算を出しニュースになりました。疫病の流行により少なくない人たちの人生が変化し追い詰められてしまていることを思います。

 バルティマイが失明前までは人並みの生活を送っていたのだとしたら、失明して物乞いをして生きていかなければいけない現状に大きな不安やストレスを抱えていたことは想像に難くありません。彼は再び見えるようになって立ち上がり、歩み出したいと強く願っていました。だからその思いをかなえてくれるかもしれないイエスが近くに来たことを知って必死の思いで叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」多くの人に制止されようとお構いありません。ますます大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。」と叫び続けました。そしてついにその声がイエスに届きます。イエスのもとに連れてこられたバルティマイは「何をしてほしいのか」と尋ねられます。彼は答えます。「先生、再び見えるようになりたいのです。」イエスは言われます。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 イエスは「目を癒してあげよう。元の生活へと戻りなさい」とは言いません。「行きなさい」と言いました。どういうことでしょう。失明というマイナスの経験を無かったことにするのではなく、その経験を通して感じたこと気づいたことを大切にして新しい人生を歩み出しなさいと押し出したのではないでしょうか。「その経験を踏まえてあなたはこれから同じ境遇の人たちに共感し、寄り添うことができるはずだ。そういう新たな人生へと歩み出しなさい」そのような願いを込めてイエスはバルティマイに「行きなさい」と語りかけ、彼はイエスの言葉に応えてなお道を進まれるイエスの後に従うという新しい人生へと進み出したのです。

 中途失明してしまったバルティマイのように教会に集う私たちもいろいろな困難を経験します。イエスを信じイエスに従っているからといって困難を経験しないわけではなく時には先が見えなくなって立ち往生してしまうこともあり、その最中は「どうしてこんな経験をしなくてはいけないのか」と戸惑うこともあります。しかし私たちが救い主と信じるイエスは暗闇を生きるバルティマイと出会いました。イエスは自らを呼び求める声をちゃんと聞いてくださり、バルティマイをそばに来させて目を見えるようにして新しい人生へと押し出しました。私たちもバルティマイを見習い、諦めずに声を上げ続けたいと思います。たとえ周りに静止されたとしても、イエスが必ずその声を聞いてくださることを信じて叫び続けましょう。

 それが今日言いたいことの一つ、そしてもう一つ言いたいことはイエスに従って生きようとする私たちが人生が大きく変化し叫んでいる、うめいている人の声を無視しないこと、その叫びをやめさせようとしないことです。それはつまりイエスのようにしっかりと聞こうということです。苦しいと声を上げている人に対して「神は乗り越えられない試練は与えられない」などと偉そうに上から目線で語り、その人が叫ぶことをまるで不信仰であるかのように仕立て上げてその人が叫べないようにしてしまうのではなく、しっかりと叫びを聞くイエスのようになりましょう。

 バルティマイは視力が回復してイエスに従う新しい人生を生きました。彼が見えるようになった目で見たのは十字架の道ゆきをたどるイエスの姿です。イエスに従って生きるとはどう言うことなのか、彼はその目で確かに見ました。イエスに従ってどう生きるか。それは今日朗読されたミカ書やエフェソの信徒への手紙に記されていました。ここでは詳しくは触れませんが、私たちの叫びに応えてくださるイエスに対する感謝の思いからイエスに従う生き方、神の言葉に従って生きる新しい人生へと私たちを押し出してもらいましょう。

ここから先は

0字

キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?