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「『できれば』はいりません。安心して頼って。」

2022年7月31日の四街道教会における礼拝メッセージを公開します。

聖書箇所は以下の3箇所です。

旧約聖書:サムエル記上17章32〜50節
新約聖書:コリントの信徒への手紙二6章1〜10節
     マルコによる福音書9章14〜29節

本文:

 先週はキャンプ週間でした。北総分区の合同夏期キャンプが小見川青少年自然の家で行われ、子どもたちはカヌーや天体観測などを楽しみました。また残念ながらリモート開催となりましたが主に神学校やキリスト教主義の大学への進学を希望する高校生世代を対象にした東日本ユースキャンプも開催されました。何もせず自然発生的に神学校に入学する人が現れるのでは決してありません。神学校に入ってから牧師になるまで平均6年かかります。高校生の年代でその決断に至る背景には教会含め多くの人たちとの出会いや祈りがあるのです。東日本ユースキャンプは神学校の中でも同志社大学神学部への入学を考えている人向けのキャンプですが、この夏多くの神学校が同じように若者向けにキャンプを行なっています。それら一つ一つの働きを覚え、将来牧師として立てられ教会に遣わされていくことになる若者が生み出されるように祈りに覚えたいと思います。私自身もキャンプスタッフとして祈りと使命感を持って携わっていきたいと思っています。

 さて今日の福音書には汚れた霊に取りつかれて苦しんでいた子どもがイエスによって癒やされるという喜ばしい物語が記されていました。今で言うとてんかんのような症状ですが、医学の発達していない2000年前は突然体がひきつけを起こすてんかんのような病気は悪霊がその人に取りついて引き起こしているのだと考えられていました。苦しそうな子どもを見て父親は何とかして治ってほしいと願っています。なかなか治せる人がいませんでしたがついにイエスと出会い、子どもの中から悪霊が追い出してもらえたのです。実に喜ばしいことです。

 でもこの喜ばしい物語を読むと所々にイエスの刺々しい言葉が散りばめられているようです。例えば19節「なんと不信仰な時代なのか。………いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」あるいは23節「『もしできるなら』と言うのか。」と言っています。「何と不信仰な時代なのか。」とてもきつい言葉ですが、ひょっとしたら皆さんの中には今の破壊的カルトと深い癒着関係にあった政治の状況を見てイエスの言葉に同意する人もいるかもしれません。そうだそうだ、今の時代は神を知らず金儲けのために人間を支配する教団がある。また営利企業は経済活動を優先して環境破壊をおこなっている。もっと多くの人がイエス・キリストを通して真の神を信じるべきだ。

 でも恐ろしいことにイエスのこの言葉は教会の外の人たちに向けられた言葉ではありません。物語を読むとこのイエスの言葉は弟子たちが子どもを癒やすことができなかったことを受けて語られています。イエスは自分を信じて弟子となってついてきた人たちに向かって嘆いているのです。あなたたちは何と不信仰なのか。いつまで私はあなたたちに我慢しなければならないのかと。現代のキリスト教会が、そして私たちがてんかんをはじめ様々な病に苦しむ人やその家族が癒やされるよう信仰を持って寄り添い歩んでいるのか。今という時代の私たちの信仰が鋭く問われています。イエスが時代の不信仰を嘆く時、実は教会の外の人ではなく中の人の信仰が問われているのです。

 イエスは弟子たちの不信仰を嘆きまた憤りすら覚えつつも苦しむ子どもを放っておかずに自らのところに連れて来させます。今イエスの前にはてんかんに苦しむ子どもとその父親がいます。ここから一種のカウンセリングが開始されています。「いつからこうなったのか。」父親が答えます。「幼い頃からです。いろんなことがあって本当に大変で辛い思いを親子共々してきました。もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」イエスのカウンセリングは子どもだけでなくその家族も一緒に苦しみ辛い思いをしてきたことを明らかにしています。病気の当事者も苦しいけど家族も同じく辛いのです。

 最近四街道教会では嬉しいことに立て続けに新しい方々が礼拝に参加してくださっています。古くから礼拝に参加されている方は何度も聞いた話ですが、私の息子は今は症状がだいぶ落ち着いてきましたが骨折しやすい難病を抱えて生まれ、この教会に赴任して1、2年目くらいまでは1年の間に何度も骨折を繰り返して入院治療を行いました。何度も骨折して痛い思いをし、またギプスをはめて不自由な生活を送る子ども本人が辛く苦しいのはもちろんのこと、一緒に生活している家族もやはり同じように辛さを抱えました。ですから今日の物語で父親が「私たちを憐れんで助けてください」と願う気持ちが痛いほどによくわかります。ここで親子は一心同体の存在なのです。

 「もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください。」そう言われたイエスは「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」と答えました。皆さんはこのイエスの言葉についてどう思うでしょう。私は最初にこの箇所を読んだ時、ちょっと冷たいなと感じました。でもイエスはこの後子どもを癒やし、この親子を苦しみから救うのです。ですからここでイエスは「『できれば』なんて謙虚な姿勢で言わなくてもいいんだよ。もっと私を全面的に信頼してお願いしてごらん」と伝えたいのではないでしょうか。

 「できれば」「可能でしたら」「ご無理がなければ」。私たちはこういった言葉を相手への気遣いから日常的に用いています。決して悪い言葉ではありません。でも例えば帰りが遅くなったから駅まで家族に迎えにきてほしいと思う時に「もしご無理がなければ迎えにきていただけませんか」って家族には言わないですよね。「お願い、遅くなっちゃったから迎えにきて」って頼みます。それは家族の間に信頼関係があるからです。同じようにイエスさまは自分に対して辛さを打ち明けた父親に対して遠慮せず頼って欲しいと願っています。もう私たちは家族なんだからと。そう言われた父親はこのイエスに応えて叫びます。叫んだんです。「信じます。信仰のない私をお助けください!」信仰と訳されている語は信頼と訳すことも可能です。イエスはそうやって不信仰な時代、誰も信頼できない時代にあってイエスに対する絶対的な信頼である信仰を生み出されました。

 誰かに頼るのではなく自分の力でなんとかする自助が最優先だと国からも言われてしまう愛のない殺伐とした状況にあって、「できれば」なんて気を遣わず苦しい時は素直に「助けて」と言える血縁を超えた神さまの家族となることを目指したいと思います。不信仰な時代、信仰のない場所であっても主イエスはそのような信頼関係を築いている所から絶対者なる神への信頼である信仰を生み出される方だと信じるからです。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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