「もうすでに与えられています」

2024年5月26日(日)聖霊降臨節第2主日礼拝 三位一体主日


聖書:テモテへの手紙一6章11~16節

牧会祈祷:

 愛の神さま、いつも私たちがあなたの愛と恵みの中で生きられていることに感謝いたします。本日からこどもときょうかいのこどもとれいはいが開始されました。ありがとうございます。こどもを愛するイエスさまに倣いこどもたちを愛し、あなたの愛の中で神さまの子どもとして一緒に育っていけますようお願いいたします。
 三位一体の神さま、あなたは父と子と聖霊という異なる位格を持ち、それぞれが固有の働きを担われています。しかしそれぞれの位格はバラバラというわけではなく統一され、私たちに愛を注いでくださることに感謝いたします。私たちは社会の中でさまざまな仮面を持っています。友の前で見せる顔、家庭での顔、職場での顔など様々な仮面を持っていますが、残念ながら統一されていないことがあり目上の人には謙遜に振る舞っても目下の人には横柄に振る舞うことがあります。僕の足を洗ってくださるイエス・キリストの神さま、どうか私たちも師であり友であるイエスに倣い、誰に対しても仕えることができるようお助けください。三位一体の神を信じるものとして、私たちが持つ様々な仮面も愛によって統合されていきますように。
 癒やしと慰め主なる神さま、様々な事情で今日欠席の友を覚えて祈ります。特に来たいと願いながらも遠方のため、病気のため、介護のため、仕事のため、その他様々な事情で礼拝を欠席する一人ひとりにあなたが祝福をお与えください。また教会から遠ざかっているものにも寄り添ってくださいますように。
 十日町幼児園、山本愛泉保育園のために祈ります。それぞれの園の理事会が行われました。あなたが保育をお守りくださると共に、これからもあなたの委託を受けてこどもたちを育んでいけるよう経営面・財政面でもお支えくださいますように。
 言い尽くし得ません感謝と願いを、ここに集う一人一人の祈りに合わせて主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

説教音源は以下のGoogleドライブから聞くことができます。


説教:

 「神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。」「金銭の欲は、すべての悪の根です。」「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができない」。「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」

 皆さんおはようございます。今日はテモテへの手紙から神の言葉を聞こうとしています。この手紙はパウロというキリスト教を世界中に宣べ伝えた人から、その弟子であるテモテという人に宛てられた手紙という体裁が取られています。しかし内容が個人宛の手紙というより教会という共同体宛に書かれていることやパウロが書いたとされる手紙とは思想、文章表現などに差異があることから、多くの研究者は偽名の手紙だろうと考えています。この手紙はおそらくパウロの死後、教会共同体において発生したさまざまな問題に対処するためにパウロの名を借りて書かれたものです。

 それでは当時の教会にどのような問題があったのでしょうか。それは今日の聖書箇所の直前に記されていて、端的に言えば異なる教えを説き、パウロが伝えたイエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わず、議論や口論に病みつきになりねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じているというのです。想像するだけで嫌ですね、そんな教会。何のためにわざわざそんな教会に集まるのだろうと思ってしまいますが、金銭の欲がすべての悪の根であることが指摘されています。人がお金のあるところに集まってくるというのは古今東西問わず変わらない人間の悲しい性質なのでしょう。

 私たちの住む世界でも例えば相続の際に関係ない人まで首を突っ込んできて揉めに揉めた話や宝くじに当たる、有名になるとそれまで一度も会ったことのない親族がお金の無心をしにやってくるなどの話を耳にします。さらにはお金のトラブルで殺人事件にまで発展してしまうことまであります。神さまに造られた大切ないのちがお金なんかのために奪われてしまうなんてなんと悲しいでしょう。まさにテモテへの手紙が語るように「金銭の欲は、すべての悪の根です。」手紙の著者は私たちに対して神の人、神を愛する人、神を愛し隣人を自分のように愛そうとする人よと呼びかけ、あなたはこれらのことを避けなさいと勧めています。

 「神の人」という表現は旧約聖書に出てくる表現ですが、旧約聖書においては神さまから特別な役割を与えられた人、例えばモーセやサムエル、エリヤなど神さまの霊を受けた特別な人の呼び名でした。しかし復活の主イエスが天に昇られた後、イエスの弟子たちは聖霊降臨、ペンテコステの出来事を経験しました。それは一部の特別な人が神の霊を受ける出来事ではなく、みんなが聖霊を受けるというこれまでにない出来事でした。だからペンテコステを経て誕生した教会共同体に宛てられたこの手紙ではテモテに対して、また私たちに対して「神の人よ」と呼びかけられています。教会という共同体は神の霊を受けた特別な人、一部の人が「神の人」と呼ばれる組織ではなく聖霊を受けたすべての人が「神の人」と呼ばれ活躍する共同体が教会です。

 一部の人ではなくすべての人が活躍できる共同体だからこそ、私たち一人一人に金銭の欲は悪の根だからこれを避け、正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めて生きなさいと勧められています。それは金銭の欲に駆られ、どれだけの富を所有したとしても私たちは世を去るときには何も持っていくことができないからだと手紙は語ります。この手紙の表現は福音書に記されたイエスさまのいくつかの言葉を思い起こさせるものではないでしょうか。例えば山上の説教といってイエスさまが山の上からたくさんの人々に向かって語った言葉にこんなものがあります。お聞きください。

あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイによる福音書6章19節以下)

もう一箇所ルカによる福音書に出てくるイエスさまのたとえ話です。

群衆の1人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカによる福音書12章13節以下)

 引用したイエスの言葉はいずれもついお金や富に心惹かれ、悪の根を張ってしまう私たちにどれだけお金や富を得ても手に入れることのできない本当に価値あるものに心を向けさせようとしています。それはテモテへの手紙で語られている永遠の命と呼ばれるものです。永遠の命とは復活の命のことです。それは私たちを絶えず新しくする命であり、私たちはこの命によって何度でも起き上がり新たな者として復活することができます。この命を得るために、私たちは神から召され、信仰を表明したのだから、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさいと勧められています。

 信仰とは神さまから恵みによって与えられるものです。私たちは感謝を持って信仰をいただき、信仰生活を開始します。しかし信仰生活は平易なものではありません。「戦い」と表現されるほど時に厳しいものです。特に厳しい戦いは金銭欲との戦いです。「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥」り、「その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れ」ると言われています。自分の力でこの欲望に戦いを挑んでもまず勝ち目はありません。ではどうすればよいのか。自分の内の力ではなく外の力、すなわち神の力、神の霊が必要であり、それはすでに私たちに与えられているということに思いを向けたいと思います。では聖霊はいつ私たちに与えられたのでしょう。それは洗礼受けたときです。使徒言行録2章38節「ペトロは彼らに言った。悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」

 神の人よ、私たちが父と子と聖霊の御名によって洗礼を受け、弟子たちと同じ聖霊を受けたことを思い起こしましょう。私たちにすでに与えられている聖霊に助けていただきながら、私たちは信仰の戦いを戦い抜いてお金や富では決して手に入れることのできない永遠の命、復活の命を手に入れるのです。

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