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あなたは独りじゃない

新約聖書ルカによる福音書1章〜2章

 「おぎゃあ、おぎゃあ」クリスマスの夜に生まれた一人の特別な赤ちゃんを喜び祝うために私たちはクリスマスの夜を過ごします。しかしいま社会のあちらこちらから聞こえてくるのは赤ちゃんの可愛らしい泣き声ではなく悲鳴であり、言葉にならない呻きです。たくさんの人が疲れ果て、深く傷つき、悩み、生きる力を失っています。あるいは怒りで心を支配されてしまっています。

 人類が新型コロナウイルスに振り回され続けて2年が経過しようとしています。夏以降ようやくワクチンが確保され、接種を望む人全員が有効とされる2回の接種を終え、1日の新規感染者数も激減して長いトンネルを抜け出せるのかと思いました。マスクを取ってみんなで一緒に食卓を囲めるようになる、そんな日も近いと少なからず踊っていた心に一つの現実が突きつけられました。それはたとえ今すぐにコロナが収束したとしてもどうしようもならないくらい深刻な行き詰まりを感じている人たちが多いという現実です。このクリスマスシーズンに私たちはそのような現実を知らせるニュースに触れ、心が痛んでいます。

 このような現実の中で教会はどのようにしてクリスマスをお祝いするのでしょうか。いっそクリスマスを祝うのを自粛した方がいい?私はそうは思いません。いやむしろこのような現実だからこそ、そこから目を背けずにクリスマスが持つ豊かな意味と向き合い、そこにある喜びを噛み締め、祝いたいと強く思わされています。

  聖書に記されたみ言葉を聞きましょう。マリアは全くもって突然に自らの妊娠の知らせを天使から聞きます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」妊娠をして出産する。それは誰にとってもめでたいこと、うれしいことでは決してありません。それは子どもを望む人にとっては喜ばしい知らせでしょうが、それを望んでいない人にとっては大きな苦悩を生み出します。

 性被害に遭いそれだけでも心が壊れてしまうくらい大きな傷を生んだのに、さらに妊娠までわかってしまった女性たちがいます。結婚はしているものの離婚を考えるほど夫婦関係に行き詰まりを感じている女性が、夫から性行為を強要され妊娠させられてしまうという現実もあります。高校生や大学生などが思いがけないタイミングで妊娠することもあります。聖書が告げるマリアの戸惑いは、昔から今に至るまでそのような予期しない妊娠の事実を知り大きな苦悩を抱える女性たちの姿と重なります。

 しかしだからこそ、この出来事は普遍的な、大きな慰めと励ましの力を持っています。それは突然の妊娠を知り、動揺するマリアに対して天使がこう告げるからです。「あなたの神さまがあなたと共におられる」。あなたは決して一人ではない。孤独ではないというメッセージです。それはマリアにとってどのような意味を持つでしょう。マリアの妊娠を知った周りの人たちはお腹の中の子が婚約中のヨセフとの間の子ではないことを知ると軽蔑と侮蔑の眼差しでマリアを見続けます。自分たちの共同体から追放して村八分にします。そうやってマリアから尊厳や生きる力をそぎ取り、命を奪おうとします。これからマリアを待ち受ける過酷な人生においてマリアが信じる神さまは、マリアと共にいてくださると宣言される。そしてその言葉がまことであることを教えるためにマリアには親戚のエリザベトという心強い味方が与えられ、さらにはヨセフというパートナーが与えられるのです。

 今日朗読されたルカによる福音書の2章はそれらの出来事に続く物語です。臨月になっているマリアはパートナーであるヨセフと共に住民登録のための旅に出かけます。ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムという町まで、どのくらい距離があったのでしょう。スマホってとても便利です。現代のナザレからベツレヘムまでの道のりをすぐに教えてくれます。片道約157キロ、パレスチナを南北に縦断する道のりです。1週間くらいはかかったのではないでしょうか。何とかベツレヘムについたマリアでしたが、そこにいるうちに陣痛が来て出産することとなりました。

 「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。聖書は淡々と出来事を伝えます。宿屋には彼らの泊まる場所がない。では彼女はどこで初めての出産の時を迎えなければならなかったのでしょうか。はっきりとは書かれていませんが、そこは飼い葉桶のある場所でした。飼い葉というのは家畜の餌となる草やワラのことです。飼い葉桶がある所とは家畜小屋でしょう。マリアは決して清潔とは言えない、家畜の汗や糞などの匂いが香るその場所で初めての子どもを産まざるを得ませんでした。それは初めての出産を迎えたマリアにはとても過酷なことだったはずです。このマリアの出産を思い起こすときに私たちは、現代にも周りに自分の妊娠を話すことができず隠し続け、ついにはどこかのトイレで孤独に出産の時を迎えなければいけない女性、現代のマリアがいることを知らされています。マリアにはまだヨセフというパートナーがそばにおりましたが、私たちの社会にはマリア以上に厳しい状況、孤独な状況で出産を迎える女性たちがいます。

 家畜小屋で赤ちゃんを産まなければならないマリアはこの時どういう心境だったのでしょうか。出産はただでさえ命懸け、女性にとってすべての力を振り絞ってなされる行為です。私ごとですが出産を終えた妻が生まれてきた息子の顔を見て喜びの表情を見せるのではなく、とにかく疲れ切った表情をしていたのを今でも鮮明に覚えています。マリアは出産の疲れだけでなく、自分たちには泊まることのできる宿屋すら用意されなかったという大きな孤独、失意、悲しみを抱えています。「神さまは私と共にいてくださるとおっしゃったけれども、私はこんなところで赤ん坊を産まなければならなかった。神さまの約束は嘘っぱちじゃないか。これから先も私たちは誰も助けてくれない孤独な世界の中でこの子を育てていかなくてはいけないのか…」

 そのような思いになっていただろうマリアのもとに再び天使がある人たちを遣わします。その地方で野宿をしていた羊飼いたちです。天使は彼らに「今日ベツレヘムで、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことを告げ、神を賛美して離れ去って行きました。羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行こう。神さまが知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、急いで行ってマリアとその赤ちゃんを探し当てます。そしてマリアたちに「この赤ちゃんこそ私たちの救い主、主キリストなんですよ」と天使が話してくれたことを知らせました。羊飼いたちの言葉を聞いたマリアはどう思ったのでしょうか。「私の赤ちゃんが救い主?主キリストなの?あぁうれしいわ!」そんな風に手放しで喜んだと聖書は記しているでしょうか。答えは違います。聖書はこう記します。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」

 聖書って深いですね。どうしてこういう表現が出てくると思いますか。それはこの出来事からずっと後に、イエスの弟子たちがマリアの口から実際にそう聞いたからですよ。イエスさまが貧しい人、病気の人、悲しむ人に本当の癒しや慰め、喜びを伝える生き方をされて、やがてユダヤ人から憎まれて十字架につけられて殺されてしまう。しかし失意と混乱のうちにあった弟子たちの目の前に殺されてしまったイエスさまが復活して現れ、弟子たちを勇気づけキリスト教会というものの原型が形作られていった時代に、マリアが弟子たちにイエスさまの誕生の次第を話したんです。「あの時はこんなことがありました。奇跡のようなことがいろいろ起きたけれど、やっぱりあの当時は天使や羊飼いから聞いたことを手放しに喜ぶことはできず、思い巡らせていました。夫のヨセフもあれからすぐに死んでしまいました。それでも私が生きる力を失うことなくイエスを育てられたのはやはり、神さまが共にいてくださったからです。神さまの言葉はまことに真実でした。」

 教会では毎年クリスマスをお祝いします。私たちの救い主であるイエスさまがお生まれになったことを記念して。でもそれだけではありません。イエスさまを産むことになったマリアの心境に注目するならば、イエスさまの誕生を祝うクリスマスとは神が嘆きや悲しみ、声にならない呻きを発して行き詰まり、思い悩んでいる人たちと共にいてくださる、決して一人にはさせないという良き知らせを喜び祝うことでもあります。世間ではクリスマスって何の日って聞くと初代サンタクロースの誕生日なんていう珍回答が飛び出します。そこまではないにしても多くの人にとってクリスマスを祝うとはサンタからプレゼントをもらい、家族や恋人、仲の良い友人たちと一緒にご馳走を食べて過ごすことです。

 でもかつてもいまも誰からもプレゼントを貰えない人、家族や恋人、仲の良い友人もなく、交わりから断絶され孤独に生きている人たちがいます。そういう人たちはクリスマスを祝えないのでしょうか。そんなことはありません。むしろそのような人たちにあなたは一人ではないこと、共にいてくださるイエスさまがいることを伝え、それを一緒に喜び祝うのがキリスト教会のクリスマスです。

 キリスト教会とは何でしょうか。聖書は教会をイエス・キリストの体と表現します。イエスは交わりから断絶され孤独を感じている人、悲しむ人、嘆く人、言葉にならない呻き声をあげている人と共にいて必要な慰め、癒し、その人を首の皮一枚のところで何とか踏みとどまらせる力を与えてくださいます。キリスト教会はこの地上においてイエス・キリストの体として両手を広げてすべての人を招き入れ、抱きしめ、あなたは一人ではないということを伝え、その一人一人にイエスが必要な慰め、癒し、生きる力を与えてくださることを一緒に祈り求めながら生きてくれる共同体です。

 キリスト教は毎年、どんなに悲しいことがあっても、いや悲しい現実があるからこそ神さまが共にいてくださることのしるしであるイエスさまの誕生を覚えてクリスマスを祝います。だからキリスト教会で祝われるクリスマスはクリスチャンじゃなくても参加できます。聖書やキリスト教のことをよく分からなくてもまったく問題ありません。ご一緒にクリスマスをお祝いしましょう。いま悲しい思いをしている人は安心して涙を流しましょう。あなたは一人ではありません。イエスがいてくださり、そしてイエスの体である教会という共同体が一緒に生きてくれます。そうこそキリスト教会のクリスマスへ!大変な世の中で、生きていると辛いこと、悲しいことがたくさんありますよね。でも私たちは一人ではありません。ここに助け合い、慰め合い、支え合う仲間がいます。さあ共に生きましょう!

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