イエスさまの周りでは・・・

2022年2月13日(日) 冬の合同礼拝における聖書メッセージです。

新約聖書:ヨハネによる福音書9章1〜3節

 今日の聖書には目の見えない人が出て来ます。皆さんは目の見えない人と会ったこと、またお話ししたことがありますか。四街道市には千葉県でここにしかない見えない人、見えにくい人のための学校があります。四街道駅から大通りを北にずーっと進むと右手にある千葉盲学校です。駅周辺でもよく白杖という目の見えない人、見えにくい人たちが使う杖を持って歩いている人たちをよく見かけます。四街道に引っ越して来た時、盲学校の最寄駅なのに駅前の歩道にたくさんの自転車が違法に停められていて驚きました。自転車を停めている人たちはきっと四街道市に盲学校があること、ブロックの上に自転車を置くと目の見えない人が自転車にぶつかってしまい危ないってことを知らないんですね。世の中には目の見えない人もそうですけど車椅子の人や外から見ても分からない病気や障がいのある人、赤ちゃんを乗せたベビーカーを押す人、妊娠中の人などいろんな人がいます。みんなが暮らしやすい街にしたいものですね。

 さて、ここで一つ問題です。イエスさまが生きていた時代は目の見えない人にとって暮らしやかったでしょうか。暮らしやすかったと思う人?暮らしやすくなかったと思う人?私は暮らしやすくなかったと思います。だってイエスさまの弟子の言葉を聞いてください。目の見えない人を見て「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」とイエスさまに尋ねています。イエスさまが生きていた時代、目が見えないのは罪を犯した、悪いことをした罰だと考えられていました。そんなふうに思われたら嫌だよね。みんなも風邪をひいた時、怪我をした時に大丈夫?と心配してもらえず先生や友達から「あなたが悪い!神さまからの罰だ!」って言われたら嫌な気持ちになると思います。それと同じようにイエスさまの生きていた時代は目の見えない人にとって暮らしにくかったのです。そしてもしかしたら暮らしにくさは今も変わっていないかもしれません。

 目の見えない人にとって暮らしにくい世の中で、イエスさまのおそばではどうだったでしょう。イエスさまの近くでも目の見えない人は生きづらかったでしょうか。イエスさまはこの人の目が見えないのはこの人が悪いのではないとはっきり言ってくださいました。たとえたった一人でも自分の味方でいてくれる人がいる。これってとても心強いことです。

 世の中は目の見えない人にとって暮らしにくい場所です。そんな世の中でここは暮らしやすい、ここなら安心して過ごせる。そんなふうに感じられる場所が私は教会かどうか関係なく目に見えないイエスさまがいらっしゃる場所だと思います。

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