山狗姦獄記 其の弐之前「夜光虫」/「黒雲の霹靂」
#成人向け #小説 #官能 #エロ #グロ #スプラッター
男は容赦無く殺し、女は犯して喰う。
恐るべき殺人鬼「山狗」と呼ばれる男の怪奇譚。
・ #拷姦黙死録山狗 (完全版)リンク付き目次
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15335078
全年齢・R-18・R-18Gごとにパート分けされています。
#山狗姦獄記
(全年齢パート)
其の弐之序「夜光虫」
陽が暮れた頃、戌と男は胡桃島を後にした。
・
暗い川を船で下ると、中川の河口まで一刻とかからなかった。
左手に木場が広がり、その奥に大きな町があった。
その賑やかな灯りを背にして、二人は対岸に上がった。
・
初めての海風が、戌の鼻をくすぐった。
戌は風と波音を頼りに、真っ暗な海を指差した。
「あっちが海か?」
「うむ、海は初めてか?」
「ああ」
波の音を微かに聞きながら、二人は高く盛られた海沿いの道を西へ歩いた。
本街道とはいえ、夜の道に人影も灯りも無かった。
海側の砂防の松林は、背丈がいびつだった。
所々に古い木があったが、大半は新しい若木であった。
海が気になる戌を、男が肩車してやった。
高くなった戌の視線に、黒く広がる海と、揺れる白波が見えた。
「なぁ。どうして、海は青いんだ?」
「んぅ?…夜の海も青いのか?
明るい昼間なら、青空の様に…」
「ほら。あそこ、青く光ってるだろ」
そう言われて、男も目を凝らした。
男も松の木々の間に、見慣れない青い光を見た。
「あの光か?何だろうな?
俺も知らない…」
戌を下ろし、二人は足元を確かめながら、砂浜へと向かった。
打ち寄せる波や波打ち際が、青い光の帯となって輝いていた。
間近に見る光は、水の中から湧き上がっていた。
「海って不思議だな」
「ああ」
二人は暫く、砂浜を歩いていたが、やがて戌は、波打ち際を歩き出した。
戌が歩く毎に、足元に光が湧き上がった。
「気を付けろよ、波に足を獲られると…」
「うぎゃ!」
そう言う間に、戌は波に飲まれてずぶ濡れになっていた。
「なんだ!この水は?辛っ!」
男は声をあげて笑いながら、戌を引き上げてやった。
・
男は、松林の端で火を起こした。
裸の戌は、男の着物に包まれて、海を見ていた。
傍の裸の男は、星を見上げていた。
自分の事は定かに思い出せなくても、空の星のあれこれは覚えていた。
・・
「丸い?…この地べたがか?」
「そうさ、海も地面も…丸い大きな球…地球って物の上にあるんだ」
男が思いもよらぬ事を言い出して、イヌは顔を顰めた。
両替商の屋敷を後にして数日後、イヌと男は大川を船で下り、海に行き着いた。
大川の少しに西には、海を行き来する帆掛け船の出入りする大きな港があった。
それを遠目に見る砂浜で、イヌは頭を抱えていた。
「丸い…?お盆の様にか?」
「違う。玉の様に丸いから、地球と言うんだ。
ほら、沖の…あの海の先の船を見ていろ。
沈むように、遠去かって行くぞ」
男が指差す船の進み方は、ゆっくりだった。
男は足元の砂に、棒っ切れでザッと一筋、弧を書いた。
その弧の端に、人形を書いた。
「此処に立つおまえは、此処までしか見る事は出来ない」
男は、イヌの視線を弧に接して書いてみせた。
「地面が丸いからだ。
おまえに見る事の出来るギリギリが、あの水平線だ」
男は棒っ切れで海の彼方、水平線を指した。
イヌは水平線に目を凝らした。
「でも、あそこは…横にまっすぐじゃねぇか!」
イヌは手を左右に広げてバタバタさせた。
男は、先の弧の下に円を書き。
弧の上に、別に横一直線を書いた。
そして、円の天辺を棒っ切れで指した。
「丸の此処だけ、大きくしてみれば。
弧になるだろ?
その弧の天辺を、また大きくみれば…」
「まっすぐになるのか?
…いや、まっすぐに見えちまうのか」
そう話す間に、沖に進む船は小さくなり、白い帆だけになっていた。
「どんだけ、…でけぇんだ?
その…」
「地球」
「地球ってのは?」
「さてなぁ」
男は濡れた砂を掬い、両手でギュッと丸く固めた。
「これが地球とすると、俺達のいるのが此処。
そのちょっと隣が清の国だそうだ」
「清の国って遠いんだろ?」
「ああ、海を船で何日も何日も旅をする。
もっと、向こうまで行くと…」
「うむ」
「伴天連の国だ。阿蘭陀とか…」
男は手の上の玉の反対側を指差した。
イヌは目を丸くした。
「本当なのか?」
「さてなぁ。俺も全てを見た訳じゃないが。
蘭学の本には、そう書いてあった」
イヌは、男の手から玉を受け取った。
それを眺めながら、地球について思いを巡らせた。
「なぁ、…反対側にも人が住んでるとしたら。
この地球から、落ちてしまわないのか?」
男は鼻を鳴らして、言った。
「その玉から、手を離せ」
「え?」
イヌは手を離し、落ちた玉はイヌの足元で潰れて崩れた。
「物は何でも、地面に落ちるんだ。
鳥も羽ばたくのをやめれば、落ちてくる。
雲もやがては雨になって、落ちてくる。
逆に、おまえがフワフワ浮かずに地べたを歩けるのは。
地球に引っぱられているからさ」
「つまり…」
「反対側の人間も、おまえが地球から落ちやしないかと心配している。
でも…それは無用の心配だ。
どっちも、地球の真ん中に向かって引っぱられているのさ」
イヌは、まだ納得していなかった。
男は続けた。
「目に見えない力は、信じ難いものだが。
そう考えていくと、物のあれこれに道理が通るのさ。
全てを見通せなくても、大まかな事は分かるようになる」
イヌは自分の手で砂を掬い、玉を作った。
それを持ったまま、暫く砂浜を歩き、何かを考えていた。
男は、そんなィヌの後を追って歩いた。
イヌが呟いた。
「何時か、地球を丸ごと見てみたいな…」
・・
「地球は本当に丸かったぞ。
青く輝いて、とても美しい」
イヌの声で、男は目覚めた。
何時の間にか、焚き火の横で眠っていた。
すでに、陽が昇り始め、海は青く輝いていた。
しかし、男の近くに戌の姿は無かった。
男は飛び起きた。
「イヌ!イヌっ、何処だ?」
「おはよう」
松の木の向こうから戌の声がした。
枯れ枝を拾い集めて、帰ってくる所だった。
「どうしたんだよ?
あー、ほらほら、着物に火が着くぞ」
裸の男に掛けられていた着物の端が、ずり落ちて、焚き火で焦げそうになっていた。
戌は、既に乾いた自分の野良着を着ていた。
「海って、青いんだな。
陽が昇る時も、綺麗だったぞ」
「おまえ寝てないのか?」
「ちょっとづつ寝ていたよ。
あんたの鼾の合間に」
戌が笑った。
「鼾だと?」
「嘘だよ。夜明け前の寒さで目が覚めただけさ」
男は大きく息をついた。
「こんな所で、寝こんじまうとはな。
俺とした事が…」
「疲れているんだろ。
とりあえず、飯を食おう。
それに、そのボロ着も、変えようぜ」
男は笑った。
「そうだな」
・
海沿いの本街道に戻ると、道の暫く先に丸っこい小山が見えた。
男はそれを指差した。
「飯を食ったら、あの山に登ってみるか?
きっと、遠くまで海が見えるぞ」
「いいね」
程無くして二人は、一里塚のある岐路に着いた。
塚の周りには、幾つかの道標と、小さな地蔵、そして、石造りの仏塔があった。
塚も地蔵も仏塔も、全てがまだ新しく立派な物だった。
道標の一つを戌が見ていた。
「あの山は…桜台か。
こっちの道には、村があるってよ」
「おまえ、字が読めるのか?」
「寺育ちだからな」
「そうか。じゃあ、これは?」
男は、地蔵の横の仏塔に掘られた文字を指差した。
「んー?高…何とかで、死んだ人を弔う…何とかだな」
男は、松林の方を振り返った。
「高潮…そうか、この一帯は大波に攫われたのか…」
戌は地蔵の周りも見て回った。
「こっちの地蔵は、源助地蔵だってよ。
名前がついてるぜ」
男は、村のあるらしい方に向き直った。
「村に行けば、飯が食えるかな?」
二人は、田畑の中の小道を、村に向かって進んだ。
其の弐之序「夜光虫」ー終ー
・
其の弐之前「黒雲の霹靂」
その集落は、まだ新しい家ばかりだった。
それでも、通りには四、五軒の茶屋が並び、旗竿が塩混じりの風に靡いていた。
・
軒先の床几に跨り、飯を食う二人の若い男がいた。
片方は坊主頭とはいえ、とても出家している身とは思えなかった。
むしろ、威勢が良く、喧嘩っ早い性分の顔をしていた。
もう一方は、髪を粋に結った、長身の洒落者であった。
どちらも、真っ当な仕事で暮らしている者でない事は明らかだった。
・
坊主は、目の先に大きな男を見た。
髭面はだらしなく、髪も乱れ、着物も汚れていた。
その傍の小僧も、切りっぱなしの短髪で、野良着姿、華奢な体格だった。
二人連れが、坊主の目の前に近づくと、「飯が不味くなる」とばかりに、坊主は舌打ちした。
それに構う事無く、戌は二人の飯を軽く横目に見ると、店の奥に目を移した。
店の主人に声をかけようとする戌が、坊主の向かいにいた若者の目に止まった。
若者も見窄らしい子供に、鼻を鳴らしたが。
目の端に入った大男の顔を、思わず二度見してしまった。
「なぁ、こいつらと同じ物を二人前…いや、三人前頼む」
「…山狗?」
戌の声に重なった、若者の言葉に男は鋭く反応した。
男は重い視線で、若者の顔を見た。
男と目の合った若者の息は止まり、心臓の鼓動さえ止まりかけた。
坊主がその異変を察した。
「おい!おいっ!なんのつもりだ!
食い物を集るつもりなら、他所に行きな!」
坊主は、いきなり店の角までふっ飛ばされ、気絶してしまった。
床机の上の酒と飯も辺りに飛び散った。
男は若者から視線を外さないまま、一瞬にして振り払った腕を、ゆっくりと下ろした。
戌が何事かと、振り向いた時には、若者は腰を抜かし、床机からずり落ちていた。
「待て!待ってくれ…」
若者は両手を上げ、降参した。
「俺の口がすべった事は謝る。
ただ…俺に少し話をさせてくれ。
後生だ。頼む」
男は返事をしなかった。
若者は、それを了解と受け取った。
「懐に手を入れるが、財布を出すだけだ…いいな」
若者は店の主人に声をかけ、床机の上に金を一掴み置いた。
店の者は皆、奥から覗くばかりであった。
若者は声を大きくした。
「旦那。これは、俺とこの人達の飯代。
それに、迷惑をかける詫びだ。
すまねぇが、のびてるあいつを組の誰かに預けてくれ。
それと、組の者に重々伝えてくれ。
この喧嘩、全て大吉が預かると。
くれぐれも、大騒ぎして事を面倒にするな、と言っておいてくれ」
大吉はゆっくりと立ち上がると、男と戌に他所に行こうと促した。
男がそれに従う素振りを見せたので、戌は慌てて店先に並べられた串焼きの魚に手を伸ばした。
「金はあいつが払ったんだ。
二本もらっていくぜ」
店の主人は強張ったまま頷いた。
囲炉裏の中に丸く差し並べられた串焼き二尾を手にして、戌は男と大吉の後を追った。
・
大吉が先導し二人が続いた。
人気の無い小川の岸で、大吉は足を止め、辺りを見回した。
魚を食い終えた二人は、串を投げ捨てた。
「もっと醤油のかかった物を持ってこいよ」
「あんたが、勝手に尾いていくから、急いだんだよ」
大吉は二人を、まじまじと見て、呟いた。
「どういう事だ?」
男が答えた。
「それは、こっちの言う事だ。
おまえは、俺の事を知っているのか?」
「多分な…」
「多分?」
戌が顔を顰めた。
大吉は戌を見て、言った。
「おまえは…イヌだろ?
違う…か?」
大吉もまだ迷っていた。
「あんたら、まるで歳をとっていないみたいだ…。
むしろ、イヌは…小さくなったな」
男は戌を引き寄せた。
「おまえ、戌を知っているのか?」
「多分…、そんな形をしていても、そいつは女だろ?」
戌は男の顔を見上げた。
「こいつの言ってるイヌって。
あんたの知ってる方のイヌじゃないのか?」
「そうらしいな」
男は大吉に向き合い、尋ねた。
「おまえは、俺とイヌの事を知っているのか?
何故だ?」
大吉は、手振りでゆっくり話す、と伝えた。
「あんたが、誰なのか…恐ろしい通り名で知られた男だと知っている。
何故か、と言われれば、昔話を一つしなきゃならんが。
その前に一つ約束してくれ」
「何だ?」
「ある人に会って欲しい。
俺の為じゃない。
その人にとって、あんたは恩人なんだ。
俺はどうしても、その人に義理を立てなきゃならねぇ。
その後は、あんたの好きにしてくれ。
俺を口封じに殺すのもいいし。
金が欲しけりゃ、幾らでもその人が融通してくれる筈だ」
戌が口を挟んだ。
「なんだ?命懸けの頼み事か?」
「そうだ」
男は戌に「どうする?」と、目で問いかけた。
戌が大吉に答えた。
「会うだけなら、構わないが。
その前に、あんたの昔話を聞かせてくれ。
それとな…」
「それと?」
「あんた、一人者かい?家はあるか?」
「んぁ?」
・・
男と戌が目指していた小山、桜台の裏手、海とは反対側に大吉の住処があった。
二間の平屋は小振りで、湯治の宿を思わせた。
なにより、家の離れには、風呂が設えてあった。
湯上りの男は、縁側に腰掛け、手探りで髭を剃っていた。
浴衣は体に合わず、腰巻きにするのが精一杯だった。
その後ろ、座敷に大吉は胡座をかき、この先の事を思案していた。
大吉が聞き直した。
「え?何だって?」
「おまえん家の風呂は、温泉か?と、きいたんだ?」
「そうだ。ほら。前の山、桜台の中腹から湯が湧くんだ。
それを、此処まで引き込んでいる」
「あんな小さな山に、湯が湧くのか?」
大吉は右手を上げ、遠くを指した。
「あの桜台ってのは、小さい山だが。
大川の向こう、地獄谷の山と地面の下でつながってるそうだ」
「んん?」
「山師だか湯師だかが、そう言ってた。
あっちの湯と同じ湯が、桜台から湧いているんだとよ」
「ほぉぉ」
男が振り向き、大吉と向き合った。
大吉は男に酒を勧めた。
「あんた、昔の事をよくは覚えてないようだが…。
あの桜台の表で、一つ仕事をしている…筈だ」
「筈?」
「手口が同じなんだよ。
他にいないだろ?
あんた、みたいのは…」
「さて、何の事かな…」
男は答えをはぐらかせて、酒を煽った。
「 湯治の宿で女を一人喰い殺したのさ」
男は黙っていた。
大吉は続けた。
「これは、昔話の脇筋だ。
その後、湯治場は忌み嫌われて廃れた。
さらに、この一帯は大波に流されてな。
村の立て直しが計られた。
ついでに、此処も…新しく湯治の宿を立てた。
所が悪い噂は、何時までも拭えないものさ。
客足は、さっぱりだ。
そこで、俺が留守番代わりに住んでる」
男は鼻を鳴らし、横を向いた。
「戌っ!どうした?大丈夫か?」
男は、後に続いて風呂に入った戌が気になっていた。
「何ともなってねぇよ…。
いいや、さっぱりしたな」
体に合わない浴衣を羽織った戌が、手拭いで頭を拭きながら座敷に入ってきた。
「何の話だい?イヌの事か?」
戌は二人に尋ねながら、徳利を引き寄せた。
それを男が制し、代わりに湯呑みを渡した。
男が戌に酒を注いだ。
大吉は男と戌の様子を見て、山狗の話を続ける事はやめた。
大吉は、ポンと膝を打ち、言った。
「さて、さっぱりしたら、次は形だな。
後で誰か寄こすから、畏った格好をしろとは言わんが。
少しは、ましな格好をしてくれよ。
会わせたい人ってのは、大した御方だからな」
戌が大吉に尋ねた。
「誰なんだ?」
「今は、まだな…、まずは段取りをつけに俺が顔を出してくる。
その間、二、三日かかっても、この家で待っててくれ」
「飯は?」
「飯と酒も手配するよ。
村の者には、組の客人だと言っておく。
何でも融通してくれる…が…程々にしてくれよ」
男が笑った。
「なんだ?ヤクザが口利きするってのに、程々とは?
時化た話だな」
「今はまだ、俺の懐の話だからだ。
会う人に会ってくれれば、話は変わる」
「フン!」
男は戌に、どうするか?と目で尋ねた。
戌は酒を啜りながら答えた。
「此処は居心地が良い。
飯と酒と風呂まである。
居てくれと言われて、断る理由は無いだろ?」
「そうだな…」
・
大事な話だけに、代理を立てる訳にはいかない、と大吉は自ら隣町に向かった。
代わりに、戌と同じ年頃の少年が小間使いとして、家にやってきた。
組の者の下っ端だったが、勝気な目つきをしていた。
しかし、組の客人と聞かされていて、二人の言う事は素直に従った。
戌は少年に、必要なあれこれを注文した。
「それと、着物を頼む。
古着でいいし、野良着でいい。
ただ、あいつはデカいからな、そのつもりで」
「だったら、古着屋をよこすよ。
自分達で選べ」
土間で話す二人を見て、男は何かに思い当たった。
「なぁ、そいつの事は猿と呼…豚か…」
「んぁ?」
少年を使いに出し、戌が座敷に戻った。
「なんだって?」
「何時だったか、豚を飼ってる小僧がいたんだ。
イヌが…よく話していた。
いや、豚を食いに行ったのか?
名は何といったかな?」
「ブタって何だ?」
「ん?猪みたいな獣さ。
肉を鍋にするんだ」
「肉を食うのか?
女みたいに?」
戌の言葉に、男は柄にもなく目を丸くした。
戌は落ち着いたまま続けた。
「さっきの大吉の話が聞こえちまったのさ。
それで、思い当たった…。
あんた、山狗なんだろ?」
男は口を開いたまま、答えなかった。
戌が続けた。
「瓦版や巷の噂の種だぜ。
大袈裟な話で、まるで妖怪変化の事だと思ってたが。
あんたの強さを知ってて…あの話を聞けば…成る程と思うさ」
男は溜息をついた。
「俺が、その…人殺しと知って、怖くないのか?」
戌は男の目の前まで進んだ。
そして、まっすぐに男の顔を見下ろした。
「目の前で、あっと言う間に四人殺した、そんなあんたに惚れたんだぜ?
怖い所か、誇らしいよ。
それに…」
「それに?」
「あの時、あんたは俺を守ろうとしたんだろ?
イヌって人と間違えて…。
あの時の眼は、強くて優しかったよ」
戌は、男の首に腕を回し抱きついた。
男の方が、少し戸惑っていた。
それでも、戌を優しく抱きしめた。
「あ!」
戌が不意に声をあげた。
「どうした?」
「あいつ、あんたを山狗と知ってたら。
誰を呼びに行ったんだ?
まさか、仇討ちか…役人を」
男は鼻で笑った。
「フン!おまえ、そんな事も疑わずに、飯の心配をしていたのか?」
「え?あんたは?」
「最初っから、そんなものだと思っていたさ。
ただな、昔話とやらが気になってな。
奴に話を合わせていただけだ」
「じゃあ、今すぐ逃げるか?」
「いいや。今、頼んだ着物と飯は待とうじゃないか。
大吉が戻るとして、早くて今夜、どうせなら寝込みを襲うつもりだろう。
それまでは、ゆっくり過ごして、備える。
飯と酒は、あの小僧も一緒に食わせる。
怪しい素振りをちょっとでも見せれば、こうだ!」
男は手で首を捻る動作をして、ニッと笑った。
戌も笑って答えた。
「あんた、やっぱり頼りになるぜ」
男は自分の古い着物の下から猿の短刀を取り出し、戌に持たせた。
「これは、おまえが使え」
「あんたは?」
「素手で踏み込む事はしないだろ。
俺は奴等から奪いとる」
戌は刃を抜いた。
「使った事は…人を刺した事はあるか?」
「いいや」
戌は首を振った。
男は戌の手から、再び短刀を手に取ると、幾つか握り方を教えた。
「鍔の無い刃物は、人を刺す時に手を滑らせて怪我をしないように気をつけろよ。
相手に、叩き落とされないようにもな。
それと、焼けを起こして、投げたりするなよ。
投げても、刺さりはしない」
「うん」
頷く戌の顔を横目に、男は自分の腕を見た。
以前、大怪我をしたイヌの為に、自ら腕を切り開いた事を思い出した。
腕の傷は、跡形も無く消えていた。
それを見て、男は自らの体に流れる鬼の血の事も思い出した。
かつて、大黒山で鬼を倒し、その血を浴びた男には、傷を癒す霊力が宿っていた。
「おまえは…」と言いかけて、男は口を噤んだ。
鬼の血の事を戌に話し、もし戌がそれを望むならば、分け与えたいと思った。
しかし、その術が分からなかった。
(すまねぇ!あんたの仔を喰っちまった!)
板間に頭を擦りつけ土下座するイヌの姿が、男の脳裏に浮かんだ。
男の顔色が沈鬱になるのを見て、戌が声をかけた。
「何だ?イヌの事を思い出したのか?
まさか、イヌって人は…」
「んぅ?フン!俺の目の前で死んだのか?とでも言いたそうだな。
違うよ…奴はな、違うんだ」
「違う?」
戌には分からなかった。
「俺には、上手く話す事が出来ないが。
奴は死んではいないんだ…」
戌には、ますます分からず、ただ首を傾げた。
「それなら…」
「ん?」
「死んでいないなら、俺もいつか、そのイヌに会えるか?」
「さぁ、分からんな。
あいつは…、言ってる事もやってる事も、俺の考えが及ばない事ばかりだ。
あいつが、その気になれば、おまえの前に、向こうから現れるかもしれん」
「向こうから?」
「そんな奴さ…」
男は、話を打ち切る為に立ち上がった。
「どれ。家探しでもしてみるか。
何か役に立つ物があるかもしれん」
家探しと言っても、男一人の仮住まいらしく、家の中にはほとんど何もなかった。
板間の続きに納戸があった。
その中には、柳行李が一つあるだけで、伽藍としていた。
男は、念の為と言って、引き戸を外して、納戸に人が隠れる事が出来ないようにした。
・・
結局、寝込みを襲う者は来なかった。
朝早くに再び少年が訪れた。
戌は、少年に率直に尋ねた。
「おまえは、俺達の見張りか?」
「そうだ」
「夜は、どうしていた?」
「昼も夜も表と裏に三人、入れ替わりに、ずっと見張っているぞ」
「そんなにいたのか?
よっぽど、此処にいて欲しいんだな」
「皆は、岩兄ィの仇を取りたがっている。
でも、大吉兄ィが、絶対に手を出すなと言うから、我慢しているんだ」
戌は「そうか」と返事すると、少年を飯と酒を買わせに行かせた。
二人の話を、男は座敷で聞いていた。
戌が男に振り向いた。
「聞いたか?三人だって」
「なめられているな」
男は鼻で笑った。
戌は、納戸の柳行李を指差した。
「なぁ、これ。そっちに運んでくれよ」
・・
次の日の昼、大吉が戻ってきた。
見張りを残したものの、気が気でなく、急いで帰ってきた。
その疲れた大吉が、家に入るなり、大声をあげた。
「何だよ、おまえら!
散らかしやがって!」
座敷一杯に、柳行李の中にあった紙の束が広がっていた。
男は居場所無く、板間で酒を飲んでいた。
その板間には、何本も酒屋の通い徳利が並んでいた。
座敷で紙を広げていたのは、戌だった。
「散らかしちゃいねぇや。
並べ直してんだ」
「んぁ?」
大吉は顔を顰め、座敷に向かった。
男が大吉を呼び止めた。
「おい。それで?」
「んぅ?」
「誰かに会えと言ったろ。
どうなったんだ?
連れてきたのか?」
「ああ。段取りをつけてきた。
明後日、隣町まで足を運んでくれ」
「此処に来るんじゃないのか?」
「馬鹿言うな!こっちから、行くんだよ!」
大吉は戌に向き直った。
「それを並べ直すだと?
全部読んだのか?」
「ああ…ざっとだけど」
大吉は溜息をついた。
「じゃあ、この男が誰なのか…分かっているな」
「多分な」
戌は、わざと大吉の言い方を真似て答えた。
戌が続けた。
「そいつとの付き合いは、まだ浅くてね。
ここに書かれた話が本当に、そいつの事なのか…俺には分からない」
男が大吉の背中に尋ねた。
「俺の事を知ってるってのは、まさか、この紙屑の噂話の事じゃあないよな?」
大吉が二人を交互に見ながら、答えた。
「この紙屑だけで、どうやって、あんたの顔を知る事が出来るんだよ?
まぁ、おまえも読んだんなら、遠慮もいらないな、話が早い。
俺の昔話をしてやるよ。
俺はガキの頃に、こいつに会ったんだ」
男は黙って聞いていた。
大吉は座敷と板間の間に腰を下ろし、酒を引き寄せた。
「此処から大川沿いに北に暫く行った先。
城下町のもっと北だ。
三国峠って道がある。
そこに茶屋があった」
戌は、ぐるりと自分の周りの紙束を見回した。
古い瓦版や草双紙、書き付けを束ねた物の中から、一つを取り上げた。
「これか?三国峠の茶屋で夫婦が殺された。
それと…巡礼の三人が喰い殺された…」
「ああ、それだ。
だが、それだけじゃない。
他に女が三人死んでる筈だ」
大吉の答えに、酒を呑む男の手が止まった。
大吉は続けた。
「この男とィヌが暮らしていた家には、松、竹、梅って三人の若い女が一緒にいたんだ。
なぁ、あの三人はどうしたんだ?
あんたらの家の中は血だらけで、三人の着物も血塗れだった…。
でも、女三人の死体は見つからなかった。
何かがあった、その秘密を向かいの茶屋の夫婦は知っちまった。
そして、口封じに殺された…」
男は何も答えなかった。
大吉は続けた。
「フン!細かい話は、わざわざ覚えちゃいない、って顔だな。
だが、俺は忘れないぜ。
危うく、夫婦殺しの下手人にされる所だったんだ」
男は訝しい顔した。
大吉が続けた。
「あの家で、豚を飼っていた事は覚えているか?
イヌが里から買ってきたろ?
ヘッ、今考えたら…ありゃ、どういうつもりだったんだ?
豚を太らせるのに、何を食わすつもりだったんだ?」
「そうか…おまえは、あの豚の小僧か…」
「思い出したか?
そうだ、俺は豚のの世話をしに、あの家に通っていた。
一度だけだが。
俺は、あんたと顔を合わせて話をした」
「フン!よく覚えていたな」
「正直、覚えていたのは、イヌの方さ。
何日も、話をしていたからな」
大吉は戌に目をやった。
「でも、どうなんだ?
そこにいるあいつは、俺の知っているイヌじゃないんだろ?」
戌は頷いた。
犬吉も頷いた。
「でも…イヌに…よく似てるよな。
あんたら二人連れを見た途端。
昨日見たように、ガキの頃を思い出したよ」
大吉は、座敷に並べられた紙の束を見渡した。
「並べ直した、と言ってたな?」
戌が答えた。
「こっちは、殺しがあって、すぐに書かれた物だ。
こっちは、そういう物を引き写した物。
こっちになると、大分後になって書かれて…もはや、妖怪話だ」
大吉は感心した。
そして、さらに端っこに積まれた一群を指して尋ねた。
「そっちの隅のは、何だ?」
「俺が聞きたいね。
何で一緒に入ってるのか?
殺しの話ではなかったぞ」
フンと大吉は鼻を鳴らした。
「その中に、大福帳があるだろ?」
「ん?ああ、あったな。
大福帳というか、薬の行商の日記だったぞ」
戌は大福帳を取り上げた。
大吉は、中を見ろと促した。
「ずっと、後ろの方だ。
遠谷村に行った事が書いてある。
そこまで、読んだか?」
「いいや…ざっと見たが…あ、此処か?」
大福帳の一葉の端が折り曲げられて、目印とされていた。
「読んでみろよ」
大吉は、そう言うと、男に振り向いた。
「あんたは、覚えているか?
おそらく、イヌと最後に行った場所だ」
「んん?」
男が大吉を睨んだ。
しかし、大吉は怯まなかった。
「覚えてなさそうだな。
その日記を書いたのは、申之助って薬売りだ。
前は、口入屋の丁稚で、あんたとイヌに雇われていた…。
そいつとは、不思議な縁があってな。
この紙屑は、そいつが集めてた物。
いや、もっと正しく言うと…申之助の店の主人が集めていたんだ。
主人は、珍妙な物を集める好き者でな。
山狗にも興味があった。
申之助が、あんたに雇われていたと知って、その紙屑みたいに自分の手元に置いていたのさ。
その薬屋の主人が、流行り病で死んじまった。
その死に際、店の事より大事に言い残したのが、その紙屑を申之助に譲る話だったそうだ」
男は腕を組み、顎を撫でて考え込んだ。
細切れの記憶をつなげ、筋立てようとした。
大吉が続けた。
「そいつ…申之助の方が、俺よりよっぽど、あんたと付き合いがあったそうだぜ。
そして、あいつはイヌに惚れていた」
その言葉に、男の記憶の幾つかが蘇った。
大吉は、さらに続けた。
「追分の町で、あんた達は女を殺し、誰かを殺し、町を逃げ出した。
あんた達の顔を知っている申之助は殺さずにな…。
なんでだ?
イヌも、奴に惚れていたのか?
その後…、申之助は薬売りとなって、イヌを探し続けた。
所が…」
「豚か…」
大福帳に目を通していた戌が呟いた。
戌が大福帳を読み上げた。
「丁稚の頃に取り引きのあった、遠谷村に出向いた時に、思わぬ話を聞いた。
その村の恩人として伝わる、算学の先生なる人物は、イヌの事かもしれない」
それを受けて、大吉が続けた。
「イヌは、その村を二度訪れた。
五年の間を置いてな。
皆が驚いたのは、まだ若いその先生が、五年後にも同じ姿で再び現れた事だ」
戌が顔を上げた。
「そんな仙人みたいな奴なのか?
イヌって人は?」
「ああ、そこには書いてないが。
申之助は直に、イヌに会った村人に話を聞いている。
背格好も姿も、イヌそのものだったそうだ。
そして…二度目に現れた時は、力士の様に大きな山師を連れていた…とな」
戌が男の方に目をやった。
戌は、どちらにきくでもなく尋ねた。
「その遠谷村って、何処にあるんだ?」
「今は…無い」
「え?」
大吉の答えに、戌は驚き、男は顔を顰めた。
大吉は手を伸ばし、大福帳を受け取ると、パラパラと捲った。
今度は、それを男に渡した。
「ほら、此処だ。
遠谷村のあった谷筋で大きな山崩れがあった。
村の半分は死に、村は別の場所に移った。
その時、豚で蓄えた金が役に立った。
村が移った後、さらに大きな山崩れが起きて。
元の村の辺り一面、水の下に沈んだ」
男は大福帳に目を落としていた。
大吉は当時を思い返した。
「二度目の山崩れを起こしたのは、噴火だった。
俺もあの時は、追分の峠で蜘蛛をしていたが。
北の山が突然噴火したんだ。
光が見え、音が聞こえた。
その後だ。
大川に連なる川の一つが土砂で埋まってな。
村のあった谷を含め、近くの谷は湖になっちまったそうだ」
男が口を切った。
「村の窮状を知って、薬売りは商売に出かけたのか…フンッ」
男はバサリと大福帳を閉じた。
男は続けた。
「思い出したよ。
俺もその噴火…を見た。
その場にいたんだ」
「何?」
二人は男の顔を見た。
男は大きな息を吐いた。
「山奥の尼寺で大火事があったと噂に聞いてな。
イヌの事は忘れようとしていたが、どうしても気になって。
イヌと別れた遠谷に向かった。
あそこには、千条院に至る修験道の入り口があるんだ。
地図を頼りに、そこを目指すうちに…嵐になった」
・・
男は、まだ落ちた吊り橋にも至らない山中で、大雨と強風に晒されていた。
イヌにもらった地図を懐に入れ、岩陰に身を寄せた。
山の天気は変わりやすいとはいえ、この異変は男にとっても初めてであった。
急に、冷え込み、夜の様に真っ暗になった。
風の重さが、今までと違った。
強いだけでなく、重い風が頭の上から伸し掛かるようであり。
それに大粒の雨が混じっていた。
まるで、男をその場に止めようとする雨風であった。
何年か振りに訪れた遠谷の集落は、半分が既に土砂に流されていた。
イヌと過ごした空き家は荒れ放題で、集落には人も豚もいなかった。
そのまま、橋の落ちていた入り口を目指すと、天候が急に変わった。
轟々と吹く風は、男に何か話しかけているように思えた。
男は、それを弱気になった気の所為だと、首を振り顔を叩き気を引き締めた。
山の上の暗雲に、何度も稲光が走った。
普通の嵐と違うのは、その稲妻に混じって、時折、赤い炎が雲の垣間に見える事だった。
男は空を見上げ呟いた。
「まさか、あの雲の中で龍が踊っているんじゃあるまいな…」
・
追分の南の峠で、蜘蛛助達は遠い北の山並に目を凝らしていた。
山並の上に見慣れない雲が立ち込めていた。
商売柄、蜘蛛助達は皆、天気の変化に敏感だった。
古株の一人が首を捻った。
「ありゃあ、ただの雨雲と違うな」
隣の男も同じ思いだった。
「おかしいよな?
此処から見ても、真っ黒な雲なんて…それに、あの形…まるで蝙蝠みたいだ」
大の男二人が、雲の形が何だと言うのを、傍の大吉は子供地味ていると笑いそうになった。
しかし、確かに黒い雲は飛膜を大きく広げた蝙蝠を思わせた。
去年の事、酷い大雨でこの峠も難儀した。
その時には、北の山間で、村が一つ流されて潰れた事も伝え聞いていた。
蜘蛛助の誰もが、黒雲が大嵐の前触れか、と恐れていた。
「おわっ!」
黒雲の真ん中から、大きな赤い光が山に落ちた。
その場に居合わせた蜘蛛助達は、一斉に声をあげた。
峠で仕事をしていれば、雷の落ちるのは何度も見ていた。
しかし、その光は雷とは全く違っていた。
皆が唖然としていると、足元が揺れ、続いて凄まじい地響きが聞こえてきた。
地震は大きくなり、度が過ぎた轟音が辺りを包み、逆に何も聞こえなくなった。
逃げ出す者、腰を抜かす者、蜘蛛助も旅人も荷役の馬も皆、慌てふためいた。
それを、見下ろすように、北の山からは巨大な土煙のキノコ雲が立ち上がった。
誰かが叫んだ。
「山が火を噴いたぁ!」
まさに、火山の噴火を思わせる光景だった。
散り散りに逃げ出す人々の中で、大吉は一人、雲の行く末を見届けていた。
土煙のキノコ雲を払い退けて、黒い雲の蝙蝠は羽ばたき、さらに空高く舞い上がっていった。
やがて、青く霞んで、その姿は見えなくなった。
・
男が気がつくと、川の浅瀬に突っ伏していた。
少しばかり水を飲み、噎せて正気付いた。
男は重い体を引き起こし、岸に這い上がり、仰向けに転がった。
空は青く晴れていた。
稲妻に打たれた後、川に流され、何処まで来たのか…まるで見当がつかなかった。
男の意識が、また遠くなっていった。
男の耳に、微かにイヌが囁いた。
「あんたの目指す先は、大黒山だ。
大黒山に行け…」
・・
「千条院!…千条院は、そこにあるのか?
遠谷って所に!」
戌が驚いて、大きな声をあげた。
男が諭すように言った。
「無い。あそこは入り口の入り口だ。
その、ずっと奥まで行っても、門があるだけだ…。
あの門の向こうってのは、多分…」
大吉も、戌に尋ねた。
「なんで、おまえが千条院を知っているんだ?」
「俺は、尼寺育ちだ。
その寺は焼けちまって、おっ母とも別れ別れに…。
もし、寺に何かあって困った事になったら、千条院に行けといつも言われていた」
その言葉に、大吉の顔が変わった。
「…おまえ、俺と似ているな。
俺も尼寺育ちで、暫く、別の寺で小僧をしていた。
その頃、千条院の事を知った」
戌は、二人の方に這い寄って来た。
それを大吉を制した。
「落ち着け、焦る気持ちは分かるが。
今は遠谷に行っても…何も無い」
「見たのかよ?」
「俺は見てはいないが…申之助は、見に行った。
遠谷と呼ばれる里の、ずっと手前から、湖になっていたそうだ」
・・
古い…今は無い遠谷村からの帰り道、申之助は大吉を探して、わざわざ追分の南に下った
「おお!久しぶりだな」
先に申之助を見つけたのは、大吉だった。
すっかり蜘蛛として逞しくなった大吉は、初めて会った頃と大分変わっていた。
申之助が薬売りの行商となって、追分の峠を行き来する度に、二人は顔を合わせ、酒を飲む仲になっていた。
「やぁ。忙しそうだな」
「ああ、こないだの噴火以来、大騒ぎだ。
役人も来るし、立て直し目当てに、あちこちから柄の悪い者も来る」
二人は、馬が通るのを避けて、道の端に行った。
そこで、申之助は声を潜めた。
「遠谷の村に行ってきた」
申之助の神妙な口調は、イヌの話をする時の癖だった。
「こないだ行ったばかりだろ?」
「そうだ、新しい村にな。
今日は、古い方だ」
「とっくに、流されちまったんだろ?」
「ああ、凄いものだった。
隣村との境で、既に水に沈んでいた。
その先は見た事無い位、大きな湖になっていた」
「フン!あの噴火は凄かったからな。
肝が冷えたぜ」
「いや、あれは噴火じゃないそうだ」
「ん?」
「世の中には、変わった物好きがいるものさ。
火を噴く山が好きな奴もな。
火山を渡り歩く修験者とか…そんな奴等に聞いたんだ。
あの一帯では、噴火すれば出てくる溶岩や硫黄が見つからないそうだ」
「イオウ?何?何だ、そりゃ?」
「湖は大きく、広過ぎて、まだ渡り切った者はいないが。
とにかく、噴火とは別の作用だそうだ」
「ふぅぅん。しかし、おまえも物好きだね。
そんな所に、何しにいったんだ」
大吉の問いに答える為に、申之助は肩から下ろした荷から、日記を取り出した。
「新しい方の遠谷村に行った時だ。
不思議な話を聞いた…」
大吉は広げられた日記に目を通した。
「イヌか…?」
「二度目に現れたのは、ちょうど追分の宿場から二人が姿を消した年だ」
大吉は訝しく険しい顔になった。
「どういう事だ?
じゃあ、イヌは…もっと昔、何年も前に、一人で遠谷にいたのか?」
申之助も半分は疑いながら、頷いた。
「そういう事になる。
あんたは、イヌを恐ろしい奴だと言って、忌み嫌うが…。
これが本当なら…」
大吉は首を振り、日記を返した。
そして、申之助を宥め諭した。
「これがその通りなら。
奴は、俺が思う以上に恐ろし奴だ。
もう、探すなんて事は諦めろ…いや、きっぱりやめておけ!
例えおまえが惚れた相手でも、ありゃぁ…人ですらないのかもしれん。
無理に追い続ければ、おまえ…今度こそ死ぬぞ」
そう言われて、申之助は返す言葉も無く、ただ溜息をついた。
日記を仕舞い、その場にへたり込む様に腰を下ろした。
「そうだな…」
消沈する申之助の前で、気を払う様にパンッと大吉が両手を打ち鳴らした。
「なぁ、追分の町に帰るんだろ?
今日は俺も尾いて行くぜ」
「え?」
「良い機会だ。
この頃、此処いらも他所者が増えた騒がしくなってな。
俺は、近々此処を離れようと思ってた。
その矢先、おまえに会えた…良かったぜ。
俺の門出だ。一杯付き合え!」
申之助は気を取り直し、頷いた。
大吉は申之助の腕を取り、引き上げた。
「おまえも、今日限りで、進む向きを変えろ。
縁談の話があると言ってたじゃないか。
奴の事は金輪際忘れちまえ…」
二人は並んで追分の宿へと歩き始めた。
青天の霹靂。
雲一つ無い青空に、遠雷の雷鳴が轟いた。
・・
男が大吉の昔話に割って入った。
「申之助って奴も、遠谷は水に沈んだと言ったのか?」
「そうだ、それに行者だ。
緋色の衣の女行者」
大吉の答えに、二人は目を丸くした。
「水に沈んだのは、村だけだろ?
千条院はどうなったんだよ!」
「その行者ってのは、三人組か?」
戌と男の立て続けの問いを、振り払うように大吉は手を振り回した。
「待て!待て!順を追って話すから、待て!」
大吉は湯飲みに残った酒を飲み干し、喉を湿らせた。
「まず、あの噴火だ。
あの所為で、追分の北の街道は騒がしくなった。
地震が続き、田畑が荒れ、逃げ出す者もたくさんいた。
勿論、そんな騒ぎとなれば、それを商売にする者も出てくる。
あちこちから、立て直しを口実に色んな奴が来る。
人買いも、ウロウロする。
蜘蛛みたいな連中も増える。
俺は嫌気が差してな、追分を離れた。
大川沿いに下って、また城下に戻った。
他に行く当てもなかったし…」
・・
大吉は宿にも泊まらず、川沿いに寝起きしていた。
身一つで追分を出た大吉にも、当てが無い訳ではなかった。
かつて働いていた農家を訪ね、仕事の口がないものか尋ねるつもりだった。
・
その日目覚めると、辺りは霧に包まれていた。
大吉は構わずに川沿いの土手を歩いた。
道は一本っきりで迷う筈などなかった。
それでも、迷った。
何処まで歩いても、霧は晴れなかった。
何時まで歩いても、変わり映えしない風景の所為で、ずっとその場にいるように思えた。
漸く、道端に目印となる物を見つけた。
地蔵の祠らしい物に向かって、大吉は歩を早めた。
やがて、その横に立つ人影も見えた。
・・
「緋色の業者なら、俺も知ってる」
今度は戌が、大吉の話に割って入った。
大吉が返した。
「会った事は?」
「寺にいた頃に、何度か見かけた」
「そうなんだ。でも、寺の外では滅多にお目にかかれない。
いつも、不意に現れる。
俺はあの人達を見つけると、必ずおっ母への手紙を託していた。
十を過ぎた俺は、もう尼寺に入れないからな。
いつも、懐に手紙を入れていた…」
・・
だが、その日はその支度をしていなかった。
地蔵堂の横に立つ緋色の行者を見た時、大吉は後悔した。
緋色の行者は、背が高く、長い髪の女だった。
大吉は彼女と何度か会っていた。
一人だったり、三人連れだったりした。
「良かった!あんた、無事だったんだね。
千条院のある山が火を噴いたから…もしや、と心配してたんだ」
女行者き頷いた。
そして、小さな声で答えた。
大吉は驚いた。
「え?じゃあ、もう千条院は無くなったのか?
あの光が落ちた時に?」
女行者は、また静かに頷いた。
大吉は、そうだ、と思い直した。
母宛ての手紙をその場で書き残そうにも、何も持ってなかった。
「なぁ、あんた。
何か筆とかあるかい…手紙を…ほら、いつもの様に手紙を預けたいんだ」
慌てた大吉は、緋色の行者に言付ける事にした。
「ああ…そうだ、簡単に一言伝えてくれ。
おっ母に、…累に。
犬吉は大川の城下に戻る、と」
・・
「犬吉…?」
男が聞き直した。
大吉は昔話に集中していて、つい、本当の名前を口にしていた。
「フン!そうだよ、俺の名は犬吉さ。
夫婦殺しで下手人扱いされたし。
何より。おまえらだ!
山狗にイヌだと!
自分の名前さえ、悍ましくなる。
なんだって、おっ母は、俺にこんな名前を付けたんだかな…。
戌年生まれでも、戌の日も生まれでないのに…おまえは」
「犬の子だと」
大吉の言葉を続けたのは、戌だった。
「んぁ?」
「俺もそう言われて、育ったんだ」
「何だ…そりゃ」
戌と犬吉は互いの顔を見た。
そして、二人は男の顔を見た。
男は二つの視線にたじろいだ。
「何だ…その顔は!」
二人共、同じ考えが浮かんでいたが、どちらも口に出せずにいた。
その並んだ戸惑う二つの顔を、男が見て、言った。
「おまえ達、…どことなく…似ているな」
戌と犬吉は、顔を見合わせた。
そう言われても、自分では自分の顔をよくは知らず、似ているのかどうか分からなかった。
「そういえば…」と、犬吉が口を開いた。
「三国峠での話だ。
竹って娘に言われたよ。
俺はイヌに似ている、って」
その言葉に、ますます、戌の顔は困惑の色を濃くした。
犬吉は濡れた犬の様に首を激しく振った。
何かの考えを、振り払いたかった。
「おまえら…その徳利をよこせ!」
犬吉は、それぞれの前にあった徳利や湯飲みや茶碗を掻き集めた。
それを、自分の前に並べだした。
湯飲みと茶碗を置き、戌を見た。
「これが、俺。こっちは、おまえだ」
犬吉が続けた。
「俺の母親の名は累と言う」
そして、徳利を湯飲みと並べた。
「おまえのおっ母の名は?」
戌は口籠った。
「え?」
もう一度、口にした名前は何か鳥の囀りの様な言葉だった。
「なんだって?」
犬吉は問い直した。
「それが、おっ母の名だ。
尼寺に来る前の名は知らない。
瑠璃という玉石の事だそうだ」
そう聞いて、犬吉はもう一本の徳利を戌の茶碗の横に置いた。
もう一つ、間を置いて茶碗を並べた。
「これは、イヌだ。
母親の違う、この三人が似てるとなると…」
戌は並べられた品々から、男に目を移した。
男は戌の気持ちを察した。
(よせっ。馬鹿な事を言うな)
男がそう口にしようとした瞬間だった。
イヌとされた茶碗が、音を立てて真っ二つに割れた。
「おまえは、いぬのこだ」
不意に女の声が、三人の耳に響いた。
「おっ母…」
「…イヌ?」
皆それぞれに、違う声が聞こえていた。
犬吉には、イヌと累の二つ声が聞こえていた。
男は割れた茶碗に見つめた。
答えは、そこにあった。
「おまえ達は、イヌの子だ」
男の言葉に、二人は唖然とした。
「だって、イヌは女だろ!
今は男親の話を…」
犬吉の反論も、男は聞かなかった。
「フンっ!イヌって奴は、そんな奴さ」
話が思わぬ方向に進み、戌は頭をガリガリと掻いた。
「千条院が消えちまったら!
俺はどうすりゃ、いいんだ?」
「女行者に会え」
戌に答えたのは、男だった。
「え?」
「あいつらは、寺から寺に現れるんだろ?
何処かの寺で、おまえのおっ母の事を聞いているかもしれん」
「…そうか…でも、どうやって?」
戌にきかれて、男は犬吉の方を見た。
犬吉は呆れて答えた。
「それが分かれば、苦労は無いよ。
おまえも、俺みたいに、いつでも手紙を持っておけ。
急に現れるからな…あの人達は」
戌は頷くしかなかった。
犬吉は、戌に同情して、続けた。
「えっと…おまえのおっ母は、ルリだっけ?
俺も覚えておくよ、戌は元気だって、伝えりゃいいんだろ?」
戌は何度も頷いた。
犬吉が呟いた。
「ルイにルリか…おっ母の名まで似てるな」
戌が返した。
「おっ母は、肉付きの良い、良い女だ」
そう言われて犬吉は戌を見て、何か考えていた。
戌が口を尖らせて言った。
「何だ?俺のおっ母に変な気、起こすなよ」
「フン!そんな訳あるか…!」
男は犬吉を催促した。
「それで?」
「んぁ?」
「犬吉さんの昔話は、それで終わりか?」
「ああ、そんな所だ。
ひとまず終わりだ。
申之助の日記を読んでいなけりゃ、こないだ、あんたらを見ても…本人とは思わなかったさ。
何年経っても姿が変わらない奴がいるなんてな…」
男は鼻を鳴らし、納得したようだった。
しかし、戌が尋ねた。
「その薬売りは、どうして、これをあんたに?
これの、ほとんどは、店の主人の大事な形見なんだろ?」
「ああ、奴も主人に倣って、幾つか集めていたようだが…。
あいつと最初に会った時は、丁稚たったのに、次に顔を合わせた時には薬売りになっていた。
その経緯を尋ねてみたら…あんたの話が出てきた。
…俺も蜘蛛に行き着いた身の上を話してやった。
フン!あいつと俺を結びつけたのも、あんたさ」
犬吉は、申之助に同情した深い溜息をついた。
「あいつは、イヌに惚れていた。
俺にとっては、心底恐ろしいと思える女だったがな…」
犬吉は酒を飲み、続けた。
「まぁ、その後色々あって、俺が此処に居着く事になったのを、あいつに知らせたのさ。
そしたら、それを送りつけてきた。
去年…いや、その前、二年程前の事だ」
戌は振り返り、座敷に広げた紙束を見渡した。
犬吉も座敷を眺めて、言った。
「あいつは、イヌを忘れる事にしたんだ…。
賭場を焼いた話以来、あんたの噂は無かったし。
きっと、二人共、遠い何処かに行っちまったと…探すのを諦めたのさ…」
犬吉の話を聞きながら、戌は選り分けた山の一つに向かった。
大福帳と同じく、申之助が書き付けた物を探した。
戌は、背中を向けたまま言った。
「おまえは、中の全部を見ていないのか?」
「ん?開けてはみたが。
古い紙屑ばかりだ。
まぁ、身を固めるにあたって、邪魔になったんだろうよ。
俺が捨てずにいたのは、明後日会ってもらう…」
犬吉の言葉を戌が遮った。
「手紙だ…その日記と同じ字の手紙があった筈だ…。
これっ!これは、おまえ宛ての手紙だよ」
「そんな物が混じっていたのか?」
犬吉は、渡された奇妙に白い手紙を広げた。
表書きには、確かに大吉宛てと書かれていた。
しかし、中に書かれた文字は、文字ではあったが、読めなかった。
「何だ、こりゃ?
さっぱり読めないぞ」
男が手を伸ばし、手紙を犬吉から受け取った。
一瞥するなり、手紙を裏返し、陽の光に翳した。
犬吉に差し戻し、そうして読め、と促した。
「?」
犬吉は手紙を頭の上に翳し、明かり採りの方に向けた。
「左右が逆さの文字か…。
な…何だって?嘘だろっ?」
「どうした?」
驚く犬吉に、戌がたまらずに這い寄った。
並んで、手紙を読んで、戌も驚いた。
「…いずれ山狗が大吉の家を訪れる。
この手紙と品々を、山狗に見せてやってくれ…」
読み上げる戌にも、信じられなかった。
最後に開いた文末には、申之助の字で「イヌからの言付けに従い、これらを大吉に託す」と書き加えられていた。
犬吉も驚いたまま、男に言った。
「イヌって奴は、あんたの…生きる先を見通しているのか?」
男は、平然と酒を飲んでいた。
「言ったろ。
イヌって奴は、そういう奴さ」
男は嬉しそうに笑い、酒を煽った。
其の弐之前「黒雲の霹靂」ー終ー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?