見出し画像

山狗姦獄記 其の弐之後「三本松」/「銀亀」

#成人向け #小説 #官能 #エロ #グロ #スプラッター
男は容赦無く殺し、女は犯して喰う。
恐るべき殺人鬼「山狗」と呼ばれる男の怪奇譚。
#拷姦黙死録山狗  (完全版)リンク付き目次
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=15335078
全年齢・R-18・R-18Gごとにパート分けされています。

#山狗姦獄記
(全年齢パート)

其の弐之後「三本松」

 二晩目も何事も無く過ぎた。
次の日も、やる事が無かった。

 外を彷徨くにも、村の表通りには、何があるという訳でもなかった。
買い物を少年に任せ、戌と男は家で飲んで食うだけであった。
 二人は座敷で戯れあい、古い瓦版を読んではゲラゲラと声を上げて笑っていた。

 犬吉は一人、板間で酒を飲んでいた。
(おまえらは、イヌの子だ)
昨日の男の言葉が頭から離れなかった。

 男は容赦無く殺し、女を犯し、その肉を喰う。
鬼とも呼ばれる人殺し「山狗」が、今は仲良く遊ぶ親子の熊の様にしていた。

 犬吉にしてみれば山狗は、自分が夫婦殺しの罪をかぶりかねなかっただけでなく。
好いていた竹を殺した仇でもあった。

 そんな男を、男親と疑うのも嫌だったが。
その男に、今まで忌み嫌っていたイヌが片親だ、と言われてしまった。
イヌという不可思議な存在に恐れを増していた矢先の男の言葉に、
犬吉の心は揺れた。
 どちらの考えも振るい捨てたかった。

 そんな思いのまま、男の呑気な姿を見ると、腹が立った。
犬吉は、つまみにしていた豆菓子を、一掴み投げつけてやろと思った。
しかし、明日の事を思い、その手を止めた。
せっかくの機会を、自分の鬱憤で台無しにする訳にはいかなかった。

「なぁ、何処かに出かけるか?」
犬吉は気晴らしに、二人に声をかけた。
男が気怠そうに答えた。
「ん?どういう風の吹き回しだ?
此処に俺達を閉じ込めたいんだろ?」
「どうしたも、何も。
こうしてても、暇で仕方ないだろ?」
狭い家に閉じ籠っているのに、犬吉の方が耐えられなかった。

 男が揶揄って、犬吉に尋ねた。
「何か当てでもあるのか?
芝居でも見に行くのか?」
「そんな物が、こんな田舎にある訳無いだろ。
そこらの居酒屋で呑むだけさ」
男の膝に座り、瓦版を読んでいた戌が、割って入った。
「家の前の山に登ろうぜ。
海を見たい!」
「それは駄目だ」
「何で?」
「山ん中で、俺を殺して逃げられたら、たまらん」

 男が鼻で笑って言った。
「そうか、その手があったな。
よし、山に登ろう」
男は、がははははと声を上げて笑った。
「ちぇっ!」と、戌は不満だった。
犬吉が戌を宥めた。
「明日の一件が済めば、好きなだけ海に行けよ。
頭まで塩水に浸かって来い」
そう言う間に、男がノソリと立ち上がった。
「出かけるぞ」
犬吉が慌てた。
「おい、おいっ。山には登らないぞ」
「山じゃない、隣町に行く」
「そりゃあ、明日でいい」
「今から行ってもよかろう。
隣町は、此処より栄っているだろ?」
「まぁ…そうだな」

 男は戌に支度を促した。
と言っても、二人共大して持ち物はなかった。
戌は、犬吉が見ているのを承知で、懐に短刀を入れると、そのまま一番に戸口に向かった。

 外に出るなり、見張りの少年が何処からか飛んで来た。
戌が少年に声をかけた。
「お、良い所に来た。
俺達は出かける。
この家の留守番なり戸締りを頼むぞ」
「ん?どうした?何処に行くんだ?
大吉兄ィ!」

 戸惑う少年が戸口から中を覗くと、目の前に大男が立ちはだかった。
怯む少年に、男の後ろから犬吉が声をかけた。
「段取りが変わった。
今日…今、出立する」
「ええ?」
犬吉は男の袖を引いた。
「俺等三人だけじゃ行けないからな!
後ろから、組の者が三人尾いて行く。
いいな!くれぐれも、喧嘩はしないでくれ」
「喧嘩するな、だと?
それがヤクザの言う事か?」
「俺はヤクザじゃないし。
何より、明日の事は台無しにしたくない」
犬吉の目配せで、少年は他の見張りを呼び集めに走った。

 戌と男は連れ立って歩き出した。
それを犬吉が叫んで引き止めた。
「どっちに行くつもりだ!
逆だ!逆っ!」
「んん?」
「そっちは中川だろ!逆だ!」
犬吉は、手を伸ばし逆方向を指差した。
男が聞き返した。
「中川の…木場の町じゃないのか?
栄っていると言うから、てっきり…」
「行くのは大川の方だ。
大川に連ながる運河沿いの町だ」

 犬吉は集まった厳つい男達に、後ろを固めて尾いて来い、と伝えた。
最後に少年に声をかけた。
「誰かを、先回しに町まで走らせろ。
大吉達は、今晩、そっちに泊まる、とな」

 犬吉の話が終わらぬうちに、戌と男は踵を変えて歩き出していた。

・・

 大川河口近く、海の港に集まった荷は、大川を少し上って運河に入った。
運河沿いには、船着場と倉がたくさん並び、大層賑わっていた。
そこから、大川の城下や中川の大橋に向けて、さらに運河は広がっていた。

 犬吉は気が気でなかった。
他に誰も、男の正体を知らないとはいえ。
人通りの多い日中に、人殺しと一緒に歩きたくなかった。
 それに加え、男の機嫌を損ねれば、何をしでかすか、分からない恐怖があった。
それでも、…それだからこそ、犬吉は前を行く男に忠告した。
「今晩は酒を飲むのは程々にしてくれよ。
女遊びもやめてくれ。
まずは、何事も明日の夜が過ぎてからにしてくれ」

 男が何も言わず、犬吉に振り向いた。
犬吉が続けた。
「その後は、好きにしろ。
なんなら、町の一つや二つ、焼いちまったって構わねぇ…胡桃島みてぇにな」
犬吉は、そこまで言って、また口が滑ったと後悔した。
男はフン!と笑っただけで、歩き続けた。

「遠回りさせていない?」

 漢と並んで先頭を行く戌が、振り返って犬吉に言った。
犬吉は辻々で、前を歩く二人に右だ左だと指示していた。
男も乗ってきた。
「走らせた使いが、先に着くようにしたいんだろうよ」

 犬吉は不満そうに答えた。
「遠回りなのは確かだ。
だが、それは、おまえが海を見たいと言うからだ。
ほら、あの先だ…」

 三人の行く先に、松の大木が三本あった。
その先は少し高くなっていて、見晴らしが良かった。
大川の広い河口と、その向こうの海の港、海と川を行き来するたくさんの色々な船が一望出来た。

 戌は歓声をあげて、高台の端まで走っていった。
 男も、ぐるっと高台からの風景を見回した。
「町は…行く当ては、此処から近いのか?」
男の問いに、犬吉が眼下の一角を指差して、答えた。
「んー。そうだ。あれだ。
火の見櫓があるだろ?
あそこの近くが、今日の宿だ」
「そうか、なら、陽が沈むまでゆっくり出来るな」
「え?そんなにいるのか?」
陽は傾いていたが、夕陽となれば、まだ暫く間があった。
それでも、何故だか男は戌に、海に沈む夕陽を見せてやりたかった。

 高台には、野点の茶屋が幾つか並んでいた。
草花が飾られた見晴らしの良い場所に、敷物が幾つも敷かれていた。
そこと店の間を女中が行き来し、老若男女が茶を飲んでいた。
野点と言っても名ばかりで、皆奔放に甘茶や菓子を楽しんでいた。

 三人も、敷物の上に腰下ろし、のんびりと潮風に吹かれて、時が過ぎるのを待った。
 戌はじっとしていられずに、茶や菓子を口に入れては、高台の端とを行き来して海を眺めていた。

 見張りの三人は、高台の入り口近くに目立たぬ様にしていた。
 犬吉も、周りの人々の動きも気を配った。
戌を口実にして、時間稼ぎに寄り道したものの。
こんな所では、誰が来るか分からなかった。
些細な喧嘩が大事になれば、何もかも水の泡だった。
早く、組の顔で融通が利く場所に行きたかった。

 やがて、はしゃぎ疲れた戌は男の胡座の上で寝てしまった。
日除けの大きな傘の下、男は戌を抱いたまま甘酒を啜っていた。
 男の余りに穏やかな顔色に、傍の犬吉の気も緩んだ。
茶屋の女中が菓子を持って来たのに気づかず、声をかけられて、犬吉は声を上げて驚いてしまった。
男が笑った。
「おまえ、俺達を見張っているんだろ?
油断していると、こうだぞ」
男は指で、団子を食い終えた串をパキンと折った。
フン!と鼻を鳴らし、犬吉はまた辺りを見回した。
その目が、茶屋の一角に並べられた縁起物に止まった。

 七福神の彫り物、派手な招き猫、真っ赤な顔の天狗の面、瓢箪と駒…何でも有りだった。
犬吉は、その一つを指した。
「覚えているか?…三人の事」

 犬吉が指していたのは、松竹梅の描かれた掛け軸だった。
男は、それと分かると、小さく頷いた。
犬吉は続けた。
「俺の事なんか覚えてなくても、あんたとイヌは、あの三人の女と暫くの間三國峠の家で暮らしていたんだろ?
どんな顔の女だったか、覚えているか?」

 男はこの二日、戌と共に古い瓦版を読んでいた。
そのお蔭で、幾つもの記憶の断片が浮かび上がっていた。

 頷く男に、犬吉はさらに尋ねた。
「松…は?」
「ああ…良い女だった」

 男は少し間を開けて続けた。
「あの女は俺の…」
「松は、俺のおっ母に、よく似てた」
男の言葉を、犬吉の言葉が遮ってしまった。
それと気付かず、犬吉は続けた。
「確かに良い女だった。
だからって、目が眩んだんじゃないぜ。
本当に似てたんだ…驚いたよ」

・・

 男は、松の正体を知っていた。
松、竹、梅は、男とイヌが、山賊の根城から奪い取った女達であった。
 しかし、長く暮らした果てに、驚くべき事を知った。
三人の女達は、山賊の根城に囚われていたのに同情したイヌが、その夜その場で殺していたのだった。

 その事に三人が感謝していたのか。
 イヌの特異な力の所為なのか。

 男とイヌは、その時から三人に化かされていた。
三人は、亡者でありながら、男に抱かれ、子を宿すまでになった。
 それは、密かに秘めていたイヌの想いの結実でもあった。

・・

 男は溜息をついた。
毎夜抱いていた女達は亡者であり。
朝になれば、向かいの茶屋で、客に茶や餅を出していた。

 そんな松の姿を思い返すと、男の脳裏には、さらに古い記憶が蘇った。
陽の光に赤味を帯びる髪をした女の姿。
それは、男の女房ヌイの姿だった。

 今にして思えば、人それぞれに松は違う姿で見えていたかもしれない、と男は考えていた。
しかし、松がそれぞれの人が望む姿に見えていたのかは、今となっては確かめようも無い話だった。
 男が思いを巡らせていると、犬吉が思わぬ事を口にした。
「あの家で…たくさんの血を見た。
竹も…松も梅も、その姿や亡骸はなかったが…あれは、きっと…」
犬吉は、昔の惨劇の景色を思い出し項垂れた。
「変なもんだ…あの時の事を思い返すと、俺もおかしな気持ちになる」
「ん?」
犬吉は慌てて頭を振り、話を切り上げた。
「いやいや、この話は後でいい。
すまねぇ。
何時か…二人でサシで飲む日があったら、その時に聞いてやってくれ…」
男もそれに応じた。
「そうか、だったら俺も、その時には、松達の顛末を話してやるよ」
 犬吉は、じっと男の顔を見た。
幼い日の犬吉は、竹を好いていた。
男は言わば、竹の仇であった。
しかし、何故か男への憎しみが滾る事がなかった。
力で敵わないというとは別に、何か別の感情が、それを打ち消していた。

 男が続けた。
「今はまだ、筋立てて話せる程じゃないが。
色々と思い出した。
ただな…」
「ただ?」
「おまえ、絶対に信じないぞ」
 男は犬吉に悪戯っぽく笑うと、戌を揺り起こした。
「ほら、戌。起きろ」

・・

 陽が低くなり、雲の隙間から光の帯が幾つも海に向かって伸びていった。
西の空は、次第に赤味を増していった。
目に見える物が、緋色の色調に包まれた。
風に流れる雲と沈む陽が、次々と景色を変えていった。
それを受けて、海がキラキラと輝いていた。

「あの光の帯に乗れたら…空に、…雲の上に行けそうだな」
戌の目も輝いていた。

 高台の端に戌と並んで夕陽を見ていた男が、不意に戌を引き寄せた。
俯きいて戌を抱く男に、戌は驚いて顔を上げた。
その戌の頬に、大粒の涙が落ちた。
「どうしたんだ?」
「ん?ああ…すまねぇ。砂だ。
風に飛ばされた砂が、目に入っちまった」
男は腕で涙を拭い、目をパチパチと瞬かせた。
「大丈夫かよ…おい」
「ああ、もう大丈夫だ」

 小さな戌が、大きな男を相手に心配していた。
戌が言った。
「そろそろ、行くか?」
「もう、いいのか?」
「腹が減った」
「散々、餅や団子を食ったろ」
「それは、別腹だ」
戌は男の手を引き、犬吉の方へと歩き出した。
その背中を見ながら、男はぽつりと呟いた。
「あの娘の名を…きく事も無かったな…」

(私の名は露です)

 男は背後の声に驚き、戌の手を離してしまった。
声のした方に振り向くと、少し向こうに、やはり野点で茶を飲む客達がいた。
大きな傘の周りに四、五人の女が屯ろしていた。
派手な柄の着物と煌びやかな簪、その風態から遊女か女郎の様だった。
その席の端に、遊び人風の年寄りがいた。
どうやら、女を連れて遊びに出ていた様だった。
 その女達の中で一人、小柄な娘が男と一瞬目を合わせた。
しかし、赤い着物の人形を抱えた姿は、すぐに別の女の陰に遮られてしまった。

 その一行も引き上げ時だった。
次々と駕籠かきが訪れ、女達を乗せていった。

 戌も、その連中を見送っていた。
「何だ?あいつら?」
犬吉が答えた。
「源平さ。あの男は、町でも有名な遊び人だ。
女郎達に外の景色を見せてやって、気を惹くんだろうよ」

「何処の店だ?」
急に男に尋ねられ、犬吉は戸惑った。
「さぁなぁ…女郎屋はたくさんあるし。
あいつは、あちこち渡り歩くから…」
「調べておけ」
そう言うと、男は戌を連れて高台を後にした。

・・

 犬吉の案内で着いた旅籠には、使いの者が待っていた。
使いの者と話した犬吉は驚いた。
「え?今晩?このままか?」

 戌が横から口を出した。
「どうした?」
「先方が今晩会えると言ってる…と言うか、今晩にでも会いたいそうだ。
どうする?」
尋ねる犬吉に、男が答えた。
「構わんさ。酒と飯があればな…」

 今度は使いの者に先導されて、一行は騒がしく賑やかな大通りを進んだ。
暫く歩いて、角を曲がると、長い壁の続く道となった。
白壁や石壁が作りや趣を変えながら続いていた。
それらが、新しく手を加えられて一続きにされている事に、男は気がついた。
男は犬吉に声をかけた。
「この屋敷、随分とでかいな」
暫く歩いても壁は続き、その内側には土蔵が幾つも並んでいた。
 先程の表の賑やかな大通りと同じ位を歩いて、漸く門が見えてきた。
犬吉が答えた。
「そうだよ。だから、相手は大した御方だと言ったろ」
「誰なの?」
戌が尋ねても、犬吉は答えをはぐらかした。
「俺の口からは、どう言ったらいいものか…」

・・

 広大な屋敷の門は新しく、左右に続く壁も新しい物だった。

 戌が呟いた。
「この屋敷は、幾つかの敷地を繋いだものなのかな?」
男が笑いながら答えた。
「そうらしいな。
そんな事をするは、余程の成り上がりで業突く張りな野郎だな」

 門を潜り、良く手入れされた庭を進むと、大きな屋敷があった。
 男と戌は、屋敷に迎えられ、丁重に中に通された。
その屋敷は、新しい物ではなかったが、裕福で重厚な造りであった。
しかし、武家でも商家でもなかった。
ましてや、庄屋でもなかった。
時折、厳つい男が廊下の角で目を光らせていた。
男が戌に囁いた。
「やれやれ。此処はヤクザの巣窟だぞ。
気を抜くな」
「うん」

 男と戌と犬吉は、三人だけで小座敷に待たされた。
戌と犬吉は、屋敷の作りに臆した様に畏まっていたが。
男はどっしりと腰を下ろし、茶を啜っていた。
 退屈した戌が、犬吉を突ついた。
「飯と酒は?」
犬吉は、とても緊張していた。
「おお…おとなしく待ってろ」

 やがて、三人を迎えに男が現れた。
きりりとした男前で、体も大きく、腕っ節も強そうな逞しい男だった。
かなり格上の者らしく、犬吉は畳に額を付け挨拶した。

 迎えの男が切り出した。
「拙者は仁右衛門と申す。
大吉、この方が御客人に間違いないな?」
「はい」
仁右衛門は、悠然と胡座をかいたままの男に向き直った。
「よくぞ、来てくれた。
兼ねてから、恩人として話を伺っていた。
私からも御礼をしたい」
まるで、武士を気取った様に、仁右衛門は頭を下げた。

「誰?」と、小声で囁く戌に、男が答えた。
「フン!知らん顔だ」

 仁右衛門が男を促した。
「早速だが、御客人こちらへ」
仁右衛門が立ち上がり、男も立った。
続いて戌が立つと、犬吉が戌の袖を引いた。
「おまえは、此処で俺と待つんだよ!」
 男は振り向き、フンと鼻を鳴らすと、戌を小脇に抱えて座敷を出ていった。

 仁右衛門に通された奥座敷は、一段と豪華な造りであった。
それでも華美ではなく、落ち着いていた。
そこに、老人が一人待っていた。
二つの立派な膳が向かい合いに並び、サシで飲むつもりの様だった。
戌を抱えた男だけが進み入り、大きく広い奥座敷に、三人だけとなった。

 老人が口を開いた。
見た目よりも、力の入った大きな声をしていた。
「おまえは、あの時のままに見えるな。
俺は随分を歳をとっちまった」

 男は用意されていた一人分の膳の前に戌を下ろし、自分は横に胡座をかいた。
老人はニッと笑った。
男も同じ様に笑った。
「あんただったか。
犬吉の言い分から、何処ぞの親分さんに会うんだとは思ったが。
わざわざ、俺を恩人と言う奴に心当たりが無かった」

 大きな膳に並べられた料理を見て、戌が喉をゴクリと鳴らした。
男は「食え」と囁き、老人も目配せでそれを認めた。
戌は箸を手に合掌し、御馳走を食べ始めた。

 老人は戌に目を移し、男に尋ねた。
「そいつは誰だ?
あの口の達者な小僧のようだが。
まさか、奴まで子供の形のままではいまい」
「気にするな。こいつは…」
「俺の体の一部だ、とか、ぬかしていたな」
「いや。この戌はな、俺の女房だ」
「ん?」
「えっ?」
戌は頬張ったまま、目を丸くした。
男が続けた。
「もっと、正しく言えば。
俺の女房の生まれ変わりだ」
老人は笑った。
「いつも変わった事を言う男だな」

 戌は、呆然と口を開けていたが、口の中の物を飲み込み、男に畳み掛けた。
「なんだ?そりゃ!
どういう意味だよ?
昨日は、おまえはイヌの子だとか言ってたし。
どういう事だ?」
「俺だって、俺なりに、昨日から色々考えていたのさ。
それで、思い当たったんだよ」
「だから、どうして、そうなるんだ?」

 男は汁物の椀を手に取ると、一気に飲み干した。
そして、そこに酒を注いだ。
「話すと長くなるから、また今度な。
それより、飯を食っちまえ。
食ったら、帰るぞ」
戌は口を尖らせて、剥れた。
老人が笑いながら、言った。
「おまえら、年寄りの前で痴話喧嘩か?
何の当て付けだ」

 戌が男に尋ねた。
「この爺さんは誰なんだ?」
「ん?猪口って大親分さ。
イヌといた頃、何度か顔を合わせた」
男は酒を飲みながら、奥座敷を見渡した。
「まぁ、ここまでの大親分とは思っていなかったが」

 親分は、気を良くした。
「そうだ、おまえと最後に会った頃は、ここまでではなかったさ」
「最後…。最後は、何時だったかな?」
「覚えてないのか?
海辺の村が大波に攫われた時だ。
俺が立て直しに駆けつけた晩。
おまえは、泥々の姿になって現れたろ」

 男の脳裏に、中川の大橋から落ちた事、大雨と大波に流された事、何よりイヌと別れ別れになった不安が蘇った。
「ああ…あの時か」

 親分が続けた。
「あの一帯は、大昔は中川の河口だったのさ。
中川の大堤が出来る前の話だ。
だから、他より低地でな…」
親分は、そんな海辺の村の立て直しの苦労話を始めた。
男は、酒を飲みながら、それを聞き流していた。

 やがて、男が飽きを起こし、親分の話を遮ろうとした。
その時、廊下から仁右衛門の声がかかった。
親分がそれに応えた。
「お。支度が出来たようだな。
おまえに会いたかったのは…勿論、俺もだが。
何より、おまえに会いたかった奴が来た」
「ん?」

 男が、襖に目をやると、
仁右衛門に導かれ、女が入ってきた。
すぐに深々とお辞儀し、顔を上げなかった。

 立派な着物に華のある髪型、いかにも裕福な家の奥方であった。
「どうした?顔を上げろ」
親分に促されても、奥方は顔を上げなかった。
肩を細かく震わせて、声を押し殺し泣いていた。
奥方は、顔を上げられずにいた。

 親分が口を切った。
「大吉…いや、犬吉でよかろう。
あいつが知らせを持って来た時には、こいつは城下の屋敷にいてな。
急いでこちらに引き返して来た。
俺は、余裕を持って、明晩と段取りしたのに。
おまえ達ときたら、せっかちな奴等だ」
親分はそう言いながらも、嬉しそうだった。

 漸く、意を決した奥方が顔を上げた。
泣きはらした目をして、震える唇を両手で隠し、男の顔を見た。

 戌は、奥方に目を凝らした。
少々歳はいっていたが、美しい顔立ちの女だった。

 男がズイと立ち上がり、怒気の籠った声で親分に言った。
「おまえっ!売るな!妾にするな!と、念押ししただろっ!」
「女房にするな、とは、言ってなかったぞ!」
親分の返答も、男に負けずに力がこもっていた。

「何っ?」
男は、奥方に目をやった。
奥方は、また再び頭を下げた。
何も言わなかったが、全身から男に詫びる気持ちが溢れていた。

 男が続けた。
「夫婦なのか?」
「後妻だがな…フン!
それだけ怒るって事は、ちゃんと覚えていたのか」

 戌が男を箸で突ついた。
「誰?」
男は、鼻を鳴らすと、ドスンと腰を下ろした。
「昔…大波に流された時に、助けた女だ。
名は…セツといったな」

 セツは頭を下げたまま、頷いた。
男が言った。
「もう、顔を上げてくれ…頼む」
親分がセツを傍に呼び寄せた。
「うむ、こっちに来い。
経緯は俺が話す」

 セツが親分の横に座るのを待って、親分は口を開いた。
「あの大波の後、村の立て直しを手伝ってもらった。
何、女中にでも世話をしてくれと言われたがな、流された一帯をよく知る生き残りは少なかった。
何かと重宝すると思ったが…期待以上の働きをしてくれた。
村の立て直しの後も、男勝りに俺の片腕となって商売を支えてくれた。
その内に、セツを俺の女房とすれば、より顔が効いて、仕事がしやすくなるのでは、と思ったのさ。
勿論、疚しい気持ちが無かった訳じゃないが。
この女、おまえに操を立てて、俺には指一本触れさせねぇ。
おっと、これは手下共には内緒だぞ」
親分は声を上げて笑った。
セツが酒を注ぎ、親分は話を続けた。
「俺は、それでも構わんから、夫婦になってくれと頼んだのさ。
前の女房は随分前に亡くした。
俺も歳をとって、少々寂しかったしな…」

 男は黙って聞いていた。
酒を煽ると、セツに尋ねた。
「おまえ…達者に…幸せに暮らせたか?」
「はい」
短く答えたセツの言葉に嘘はなかった。
そう感じた男は、「うむ」と頷いた。

・・

 その夜、離れ屋敷の一つに、男と戌と犬吉は通された。
満腹の戌は、眠そうに目を擦っていた。

 寝所の布団に突っ伏すなり、戌は寝てしまった。
男は、障子や襖を僅かに開け、外の物音が聞こえるようにした。
それから、壁を背に寄りかかると、隣の間の犬吉に声をかけた。
「おいっ、起きているか?」
犬吉はすっかり寝巻きに着替え、既に寝床に収まっていた。
「んん?起きているぞ」
「おまえが会わせたかったのは、セツなのか?何故だ?」
「んぁ?昔話の続きをしろって?
大川の城下に戻ったまでは話したろ…それでも、仕事は無かった。
ここまで下って、港で荷捌きをしていたのさ。
親分の仕事の中でも、運河沿いの仕事は、あの人が面倒を見ているんだ。
それにあの人はな、下っ端の下っ端の者まで見てくれる。
俺が、読み書きと勘定が出来ると知って、取り立てくれたんだ。
俺も頑張ったさ。
幾つかの仕事が認められて、あの海辺の村の目付けに選ばれた。
その頃だった…大吉って縁起の良い名前の由来をきかれたのさ。
俺は、…あの人に嘘をつくのは悪いと思ったから、本当の身の上を話したんだ。
三国峠で山狗に会った話を…な。
そしたら、今度は親分に呼び出された。
俺は、何かしくじったものと思って、逃げ出すつもりだったが。
嘘をついた訳じゃないしな。
覚悟を決めて、親分と会った。
その時、今日の様な機会があれば、と。
あの人に、あんたの話を聞かされた」
「今日の事?」
「今生で、もう一度、あんたに会いたかったそうだ。
例え、恐ろしい人殺しでもな。
その為には、あんたの顔を知っている者が必要だろ?
俺を信用して、その事を託してくれた。
そのついで、と言うか…どうして、あんたの事をあの人が知っているか、となれば。
親分とあの人の馴れ初めにも、話が及ぶ。
そして、親分も山狗の顔を知っていながら、知らぬふりをしている事もな。
俺は、あの二人の秘密を知っちまった…」
「フン」
「あんたが、あの人の命の恩人で。
あの人を親分に引き合わせた。
もし、それがなけりゃ。
俺は今でも、港の片隅で荷物を背負っていた筈だ…。
どうだ?
これで、俺の長い昔話は終わりだ。
俺も義理を果たせた。
後は、あんたの好きにしてくれ」

 犬吉は「寝る」と一言言うと、そのまま静かになった。

 男は、横になって眠る事なく、朝まで戌を見守っていた。

・・

 朝早く、忍び足の足音を聞きつけ、男は身構えた。

「俺だ。入るぞ」
寝巻きに上掛けを羽織った親分がスッと入ってきた。

「どうした?」
「年寄りは朝が早い。
厠のついでに、寝込みを襲おうと思ってな」
親分は、腰を下ろし胡座をかいた。
横目に、寝所の端で眠る戌を見た。
寝相が悪いのを追いかけて、布団が掛けてあった。

「この小僧について、おかしな事を言ってたな。
何だ?おまえの子供ではあるまい?」
「ああ。違う。
俺を拾って、助けてくれた恩人だ」
「フン!ますます、分からんな」
親分は笑った。
男は、黙って隣の間に犬吉がいるのを指した。
親分が答えた。
「構わんよ。
むしろな…、俺はあいつに、おまえの事を教わったんだ」
「ほぉ」
「あいつは、あいつなりに、おまえの事を調べていた。
何処だったか…仲間もいるそうだ」
「ふむ」
男は、素っ気ない返事しかしなかった。

 親分はあらたまって、男を見据えた。
「今日の所は、一つ物を言いに来た」
「何だ?」
「おまえ、柏木って賭場を焼いたろ?」
そう言われても、男は心当たりが無かった。
親分が続けた。
「覚えてないって顔だな。
博打打ちを何人か殺し、賭場付きの遊女を喰い殺した…。
女将はなんとか逃げ出したが、賭場のあった屋敷を焼いたもんで、様々な書き付けや証文が焼けちまった」
男は、その事のあらましを聞いて、イヌと鈴を置いて、一人で踏み込んだ件だと思い当たった。
「さて、そんな悪行の覚えは無いがな」
「そうか、それでも心に留めておけ。
あの一件で、北の本街道筋のヤクザ共が大荒れに荒れたんだ。
賭場ってのは、表に出せない金を悪人同士がやりとりする場所でもあるんだ。
特に、あの賭場は裏に庄屋が絡んでいた。
それだけ、動いていた金がでかい」
「人が死んだか?」
「組が潰れたよ、二つな。
ちょうど、街道筋の山が噴火した頃だ。
あの辺りはガタガタになっちまった」
「その話と、俺に何の関係がある?」
「今、北の街道筋の立て直しをしている所だ。
勿論、表も裏もだ。
俺の最後の仕事になるだろう…だから、そっとしておいてくれ」
「北には行くな?…と」
「そうだ」
親分は一つ溜息をつき続けた。
「皆んな、歳はとりたくねぇ、死にたくねぇ、と言うもんだが。
そんなもんは、弱虫意気地無しの言う事だ。
人は誰だって死ぬ。
ただな、何かを成し遂げるのに時が足りるかどうか?って事だ」
男は黙っていた。
親分は続けた。
「昨夜、おまえを案内した仁右衛門も出来た男だ。
あいつとセツがいりゃあ、俺がいなくなっても、大川は上から下まで安泰になる。
一度、形が仕上がれば、暫くは大丈夫だ」
「ヤクザが、世の為、人の為に、と。
人殺しに、おとなしくしててくれ、と頼んでいるのか?」
男は静かに笑った。
親分も静かに笑った。
「ふむ。全く、おかしな話だが、その通りだ」

 男は少し考えた。
そして、グイと体を前のめりに倒した。
「それを聞いてやるから、幾らか融通してくれ」
親分は驚いた。
「おまえ…変わったな。
勿論、最初っから、幾らか出すつもりだったが。
おまえ、そう言うと、いつも断るだろ?」
「いつもならな。
自分で一仕事して稼ぐんだが…そうして欲しくないんだろ?
それに、少し急ぎの用があるんでな。
仕事する間も惜しい」
「まぁ、よかろう。幾らだ?
また、細かい銀にするのか?」
男は二本指を立てた。
「ん?」
「二百両、小判でいい」
「ああ、それ位、すぐ出せる」
「それと…」
男は、目を隣の間に移した。
「暫く、あの男を借りたい。
いいか?」
「ああ…構わん。
むしろ、願ったり適ったりだ」

「おい!おいっ!どういう事だ?」

 離れ屋敷の座敷で、男と戌が朝飯を食っていると、本屋敷に呼ばれていた犬吉が怒鳴り込んで来た。
男は平然と答えた。
「遅かったな…おまえの、朝飯は俺が食っておいてやったぞ」
三つの膳は全て空になっていた。
それを足で退けて、犬吉は男の前に腰を下ろした。
「一体、何時の間に親分と金の話なんかしたんだ?
昨夜は、そんな素振りは見せてなかったろ」
「何だ?おまえ、本当に隣で寝ていたのか?」
「え?」
「朝早く、あいつが来て、話をしたのさ」
戌が割って入った。
「何の話?」
「金さ」
男は、犬吉に手招きして「よこせ」と促した。
犬吉は鼻を鳴らし、重さに撓んだ懐に手を入れた。
取り出したのは、五十両包みの小判が四つ、二百両あった。
男は一瞥し、続けた。
「全部出せ」
犬吉は、口を尖らせ、躊躇いつつ、さらに包みを二つ、もう百両を並べた。
「これは、俺への褒美だとさ」
「全部だ」
犬吉は観念して、さらに財布を投げ出した。
ズシャリと小銭の詰まった音がした。
その財布は特徴的な縞柄をしていた。
「これも、褒美さ。
あんたは知らないだうが、この財布は…」
「組の身内の証さ。
おまえ、出世したんだな」
「知ってたのか…」
「中は銀だろ?」
「そうだよ。あんたの面倒を見るのに、使えと言われた」
「俺の面倒を見るのは、こいつの仕事だ」
男はそう言うと、財布を丸ごと戌に投げてよこした。

「あ…おい!」
「どうせ、俺がいなけりゃ、手に入らなかった金だろ?」
「何だ?全部よこせって言うのか?」
男は百両を、犬吉に差し返した。
「そこまでは言わん。
俺のお目付け役として、俺に尾いて行けと言われたんだろ?
面倒見ろとも言われたんだ。
この金で、親分に雇われたと思って…励んでくれ」

「ちっ!」
犬吉は、百両を自分の手元に引き寄せた。

「早速だが、一仕事してくれ。
ほら、昨日、野点に来ていた女達の事だ。
店の事は勿論、女…特に」
と言いかけて、一度男の口が止まった。
「いいや、兎に角、店の女全員、女郎も何もかも調べてきてくれ」

 戌が尋ねた。
「何?女を買いに行くのか?」
「いずれな。
ひとまず、おまえの家に帰って、待っているから…」
男の言葉に、犬吉は慌てた。
「あの家に帰る事はないだろ?
此処にいればいい」
男が返した。
「ヤクザの巣窟の真ん中で、呑気に昼寝していろって?」
犬吉は怯まなかった。
「何より…あの人は、もっとあんたと話がしたい筈だ。
ちようどいいじゃないか、俺があれこれ調べる間、此処にいてくれ」

 男は戌を見た。
「おまえ、此処の飯、性に合うか?」
「美味いよ」
「フン!だったら、暫く、此処にいても良いか」

其の弐之後「三本松」ー終ー

其の弐之跋「銀亀」

 一軒家の町家の戸口で、犬吉は引き戸をガタガタと揺すり、声を上げた。

「開けろよ!
中から心張り棒かけて、出かける馬鹿はいないんだ!
開けろって!大吉だよ!
親分の使いだ」

 返事がないものかと耳を澄ますと、家の中から微かに物音がした。
やはり、居留守を使っているとみて、犬吉は引き戸を蹴り始めた。
やがて、心張り棒が外れ落ちた。
中に踏み込むと、女中らしき娘が怯えていた。
犬吉は、女中を落ち着かせるように、ゆっくり尋ねた。
「銀亀はいるか?
物騒な話じゃねぇ、ただの使いっ走りで来たんだ」

 丸顔で田舎娘然とした女中は、黙って奥の間を指差した。
奥から、しゃがれた男の怒鳴り声がした。
「その女をくれてやるから、勘弁してくれ!
俺は…おお俺は、何も知らないっ!
勘弁してくれっ!」

「もうっ!」
犬吉は草鞋のまま、ドカドカと畳に上がった。

 奥の間の縁側に、外に逃げ出そうとする年嵩の男がいた。
犬吉は、その背中を蹴飛ばして転ばせた。
「痛っててて!何すんだ!クソ野郎めっ!」
「話があるだけだって言ってんだろ!
ただな、急いでいるんだよ!」

 銀亀は、縁側に散らばった財布と金を掻き集めた。
その目の前に、犬吉はドスンと腰を下ろした。
「何だ、おまえは?
仲間から、金を借りまくったそうだな。
夜逃げでもするのか?」
座敷には、急いだ旅支度の品々が散らばっていた。
銀亀は息を切りながら、返した。
「なっ何の用だ?」
「幾つかききたい事があるだけだ。
その後は、何処でも好きな所へ行けよ」

 そう聞くと、銀亀は犬吉に詰め寄って尋ねた。
「親分の使いだって?
俺を本屋敷に連れに来たんじゃないのか?」
「違う!あんたを頼りにして、二、三尋ねたい事があるんだ」
「本当か?」
犬吉は大きく頷き、何もしない、とばかりに両手を挙げた。

 金を抱えたままの銀亀が、犬吉が用件を口に出す前に、畳み掛けた。
「おまえ、本屋敷に客人が来たって話を聞いているか?
力士みたいに、でかい男だ。
親分と懇意の客で…セツさんも知っている顔だ」

 犬吉は、答えを惚けるか迷ったが、素直に答える事にした。
「ああ、昨夜から泊まっているよ。
よく知っているな」
「けけ今朝、本屋敷に勤める古い仲間から聞いたんだ。
昔、セツさんを連れて来た男が、戻って来たとな」
「だから、何だって言うんだ?
それが、金を掻き集めて夜逃げする理由か?」
「新入りのおまえは、知らないから、そんな呑気な事が言えるんだよ!
あいつは、人殺しだ!」
「そんな奴、屋敷の中にも何人もいるだろ」
「そんじょ、そこらの人殺しじゃない!
奴はな…」
そこで、銀亀は口を噤んだ。
犬吉は鼻で笑った。
「人殺しに、大した違いなんてあるもんか。
あんた、人買いだろ?
世の真っ当な連中からすりゃあ、人殺しと同じにくくられて、地獄送りにされる商売じゃないか」
そう言われて銀亀は、顔を真っ赤にして怒った。
「馬鹿野郎っ!同じなもんか!
俺が、女を見立てて、売り買いすりゃ。
生きていけるようになる連中が、たくさんいるんだ!
文字通り、女を喰い殺す鬼と一緒にするなっ!」

 捲し立てる銀亀を、犬吉が睨み返した。
犬吉は顔を寄せて、声を潜めた。
「なんだ?そんなに極悪人なのか?
あんた…昨夜の客人が誰か、よく知っているのかい?
…誰なんだ?」
銀亀は、黙って、何度も首を振って、知らぬ振りをした。
犬吉は「そうかい」と言って、腰を上げた。
「屋敷に戻ったら、客人に、銀亀って男が、あんたが誰か知っている…と伝えておくよ。
じゃあな」
銀亀は慌てた。
犬吉の袖を引いて、引き止めた。
「待て!待て!やめろっ!馬鹿っ!
分かった。分かったから。
少しだけ話してやるから、そんな事言うな!
これは、客人にも親分にも…いいや、誰にも…俺から聞いたなんて話すなよ!」
「よしっ」
犬吉は草鞋を脱ぎ胡座をかいて、話を聞く事にした。
銀亀は、物陰に隠れる女中に声をかけた。
「おい、これから、内輪の話だ。
おまえ、ちょっとの間、向かいの家で待ってて…いやいや。
酒だ!酒を買って来い!」
女中は頷き、外へ駆け出していった。

 犬吉は横目に女中を見送ると、口を切った。
「そんなに聞かれたくない話か?」
「ああ…ゾッとする話さ。
おまえは、セツさんに見込まれて可愛がれているが。
セツさんが、何時から組の仕事をしているかは知らんだろ。
親分の元にセツさんを連れてきたのは、俺さ…」

・・

 猪口親分とセツは、屋敷の門を潜り、闇の中に消えて行く男を見送った。
 親分はセツを屋敷に帰すと、式台の陰の地べたに正座していた銀亀に近寄った。
銀亀は親分に詫びを入れる為に、そこにずっと待っていた。
「聞いた通りだ。
あの女は、俺の預かり物で、俺の助けをしてくれる。
他の者にもよく伝えておけ」
「へいっ」と銀亀は、土下座して額を擦り付けた。
「猪口の親分っ!
この度の事、御勘弁願います。
親分の御知り合いとは知らず。
とんだ無礼を働いちまいました。
何卒御勘弁下さい!」
親分は、平伏す銀亀の背中を見下ろしたまま言った。
「おまえは、女の色や器量を見る目はあるが。
男の度量を見る目は無ぇな。
今回の件、命があったのは千に一つ、万に一つの儲け物だ」
親分が屋敷に向き直っても、銀亀は顔を上げられなかった。
「親分。あの御仁が、一体何処の何方か、お教え願いますか」
親分は、式台を上がりかけ、立ち止まった。
そのまま背を向けて、答えた。
「あいつか?
おまえなんかが、あいつの名前を知っちゃあ、いけねぇ」

 銀亀は下を向いたまま、全身が震えた。

・・

 銀亀は若い頃のしくじりを、掻い摘んで犬吉に語った。
高潮に集落を流された者達が、炊き出しの場に集まっていた。
女衒である銀亀はその群がる人の中で、すぐにセツに目が止まった。
「泥塗れでも、セツさんの器量は光って見えたよ。
だがな、セツさんの夫と見込んだ奴に声をかけたのが、運の尽きだった。
喧嘩の末に、易々と手下の二人を殺された。
もし、親分とあの男が懇意でなければ、あの夜に俺も殺されてた」
銀亀は思い出しただけで、背筋が凍った。
身震いしながら、銀亀は続けた。
「あの男は、俺をふん縛ると、親分のいた庄屋屋敷に案内させた。
喧嘩覚悟の殴り込みさ。
奴は、最初から五人でも十人でも殺すつもりだったんだ。
所が、親分があの男と顔を合わせ、屋敷に入ってからだ。
何があったかは知らんが。
親分は、セツさんを預かる事となった。
奴は、一人で屋敷を出て行った…」
銀亀は額の油汗を拭い、続けた。
「それからのセツさんの働きは、おまえも知っての通りだ。
あの人の御蔭で、組は随分と大きくなった…」

 犬吉が、聞いた話を思い返し、指折り数えながら、尋ねた。
「なんだ…二人殺しただけか?」
銀亀が首を振った。
「その時は…な。
あの男が誰なのか。
親分に、聞くな、と言われりゃ、そうするさ。
俺は奴の事を忘れる事にした。
しかしな、柏木の一件で思い当たった」
「柏木?」
「大川の上、北の街道近く、田舎の賭場だ。
そこに押し込みがあって、男は斬り殺され、女が喰い殺された」
「ふむ」
「その賭場が焼ける前だ。
地元のヤクザと話す男がいた。
そいつは、女の手配が出来ると、言って賭場に入りこもうとしていた。
大川の下から来た貞吉、と言ったそうだ。
親分の手下でありながら、縄張りを外れて仕事する奴がいれば、俺の耳にも入る筈だ。
勿論、俺の仲間にも手下にも、そんな奴の心当たりは無い。
その男は嘘をついていた。
それだけじゃない…」

 固唾を飲み込む銀亀の前で、犬吉は欠伸を飲み込んだ。
銀亀は舌打ちしながら、続けた。
「その昔、親分の弟が、中川の人買いと喧嘩になった話は聞いているか?
親分は、人買いの根城に踏み込み、皆殺しにした」
「なんだ…親分も、血の気が多いな」
「だがな、実は、人買い共を殺したのも、根城を焼いたのも…山狗って人殺しの仕業だったって噂がある」
「ヤマイヌ?」
「知らねぇのか?
男は容赦無く殺し、女を喰う鬼だ。
俺は、手下二人があっと言う間に殺されるのを、目の前で見た。
そうして…思い当たったんだ。
中川も件も、柏木の件も、山狗の仕事だと。
そして、それは…」
「昨夜の客人か?」
「あの高潮の夜…。
あいつは、俺に庄屋屋敷まで案内させた。
もし、あの場に親分がいなけりゃ、喧嘩になって火を着けられていた。
一体、何人死んだ事か…。
そんな奴が、何故わざわざ、今になって、また現れたんだ…?
もし、俺が客人の正体を知っていると、知られたら…」
「フン!」
犬吉は軽くあしらった。
「噂ばかりで、実の無ぇ話だ。
確かなのは、あの客人が、二人殺した人殺しで、セツさんの命の恩人って事だけだろ?
驚く話じゃねぇ」
「でもな、おまえっ!」
迫る銀亀を、犬吉は制した。
そして、傍に散らばる旅支度の品々から手拭いを拾い上げ、銀亀の前に広げた。
「金出せ!」
「何っ?」
「此処に、金を全部出せ!」

 犬吉はそう言いながら自分の懐を探り、一枚の小判を取り出し、手拭いの上に落とした。
銀亀は目を丸くした。
「俺からの選別だ。
ほらっ!おまえのその金も出せ!」
 銀亀は、犬吉の気迫に負けて、抱えていた金や財布を手拭いの上に乗せた。

 その途端、犬吉はザッと、手拭いを丸めて金を一纏めにした。
「あっ!おいっ!」
「噂話の鬼に怖気付いて、義理を忘れる奴は、とっとと逃げ出せ!
だがな…っ!」
犬吉は、金を取り戻そうと腰を上げた銀亀を、再び蹴り転がした。

「逃げ出す前に、一仕事してくれ、そうしたら、これは返す」
「何っ?」
「顔が利くあんたには、簡単な話だ。
昨日、三本松の茶屋に遊びに来ていた女郎達がいた。
それが、何処の店か調べてくれ。
それから、その店に働く女全員の名や歳とか色々だ。
女郎だけでなく下っ端や年寄りまで全員だぞ」
「なんで、そんな事を…」
「客人の要望だよ。
俺は、その使い走りで来たんだ」
「ひぃっ!」
銀亀は座ったまま腰を抜かし、後ろに倒れた。
犬吉は、金を包んだ手拭いを叩いた。
「これは、客人に預けておく。
明日にでも返事を聞きに…」
「待て!馬鹿っ!待て!」
銀亀は金を取り返そうとしたが、今度は腰が抜けて立つ事も出来なかった。
「フン!客人に手間を取らせる訳にはいかんからな。
明日、また俺が来るが。
それまでに、分からなかったら、 次に来るのは…」
「分かった!分かった!」
「明日の昼までだぞ」
「分かった!三本松に行った女郎だな?」
「そうだ。
…心配するな、それさえちゃんとやってくれれば、何も心配は無い。
客人の目当ては、全く別さ。
おまえの事なんか、目に入っちゃいねぇよ。
夜逃げの必要も無いんだ」
「なら…目当ては、その店の女か?」

 犬吉は、静かに銀亀を見下ろした。
「そうだったとして、その事を店の連中に知られたら…。
怒るだろうな…その、鬼みてぇな人殺しは」

 銀亀は「任せろ、任せろ」と、何度も頷いた。

・・

「しまった…しくじったかな?」

 昼飯を食い終えた男は、離れの縁側でのんびり陽の光を浴びながら、ぽつりと零した。

「んぅぅ?何をぉぉ?」
その後ろで、満腹のイヌはゴロゴロしていた。
男は欠伸しながら言った。
「何もする事が無い」
「いいじゃねぇか…向こうが、いてくれ、って言うんだ。
ただ、のんびりしていりゃあ、いいのさ」
「フン!」

 男は腕を伸ばし、戌の足を掴むとズルズルと引き寄せた。
「わつ、なんだよ?」
「散歩に行くぞ」
「待て!金はどうすんだ?
俺が番を…」
「金なんざ、奴に言えば何とかなる。
おまえは、替えがきかないからな。
持って行く」

 二人は連れ立って、屋敷の広い庭に向かった。

「なぁ!親分が来たぜ」

 その声に、男は木の上の戌を見上げた。
庭を歩き回るうちに見つけた池のほとりに、大きな木があった。
戌はスルスルと木に登り、辺りを見回していた。

 男は、戌の指差す方を向いた。
低木の列が続き、人影は見つけられなかった。

「小僧!落ちるなよ!」

男は、木陰からの声を頼りに、漸く親分の姿を見つけた。
猪口親分もまた、一人で庭を散策していた。
「どうした?こんな所まで」
「散歩していたら、迷った…俺達のいた屋敷は、どっちだ?」
 親分は戌を見上げ、離れ屋敷の方を指差した。
戌は、指された方に目を凝らした。
親分が尋ねた。
「どうだ?見えたか?」
「いいや、見えないけど。
向きは分かった!」

 親分は、男に目を移した。
「ふむ。使えるのか?
あの小僧は?」
「今、仕込んでいる所だ」
男は戌に手を振り、そこで待て、と伝えた。

 男と親分は並んで池のほとりから、煌めく水面を見た。
小さな魚がパシャリと飛び跳ねた。
男は少し声を潜め、親分に言った。
「こんな事言うもんじゃないかもしれんが…」
男は躊躇った口振りで、親分に切り出した。
「セツが操を立てた相手は…多分、俺じゃないぞ」
「そうだな…」
親分は驚くでもく、水面を見ていた。

「気がついていたのか?」
「わざわざ、問い質す事でもなかったし…。
おまえは、知らんだろう。
あの村の近く、一里塚の脇に地蔵がある。
暇を作っては、あいつはお参りに行っている。
…そういう事さ」

 男は、何も答えず、小石を一つ池に投げた。
波紋が広がるのを見ながら、親分が続けた。
「だがな、おまえの名を俺への脅しに使った訳じゃない。
半分は、おまえの為に立てた操だ。
俺は、そんな奴だから惚れたのさ」

 親分はそう言うと、男を池のほとりに残して去っていった。

 親分に教えられた向きを頼りにして、二人は元いた離れ屋敷に帰り着いた。
ちょうど、犬吉が戻り、使いの者から荷物を受け取っている所だった。
荒縄に括られた柳行李を戸口に置きながら、犬吉が声を張り上げた。
「何処にいたんだよ!
心配したぞ。
此処にいてくれ、と言ったろ!」
男が返した。
「庭を歩いていただけだ。
あまり、うるさく言うなら、出て行くぞ」
「待てよ!昨日の女の事は、どうすんだよ?」
「自分で調べる」
「キリが無いぞ、女郎屋は山程…勝手に開けるな!」

 犬吉が話す間に、戌は勝手に荷を解き始めた。
届けられた荷物は、犬吉の家にあった柳行李だった。
中には、無造作に古い瓦版等の紙束が詰められていた。

 戌が剥れて、言い返した。
「せっかく、俺が並べた物を、ただ、放り込んだのか?」
「おまえらが、急に出掛けると言い出すからだ!
あのまま、放って置けないだろ!
わざわざ、持ってこさせたんだぞ!」

 犬吉は男に向き直った。
「この屋敷、親分からもらい受けた。
俺が自由に使っていいそうだ。
その荷物の置き場所にするし。
あんた達も…」
「調べがつけば、すぐに出て行く」

 犬吉は溜息をついた。
想像していた通りの答えに、落胆する事はなかった。
むしろ、安堵した。
「まぁ、熊に首縄つけて飼う馬鹿はいないか」

 戌に頼まれ、男は柳行李を持ち上げると、ドスドスと座敷に上がって行った。
それを見送る犬吉に、戌が言った。
「親分の屋敷は、本当に広いな。
でも、なんか、ちぐはぐな感じがする。
おかげで、帰り道に迷った」
「ああ、古い商家を二つ三つ合わせた敷地だからな。
この家だって結構大きいだろ?
こんなのが、まだたくさんあるんだ」

 犬吉は少し後退りして、屋敷を見上げた。
古い屋敷とはいえ、しっかりと造られていた。
新しい住処を手に入れて、犬吉は満足そうに微笑んだ。

・・

 明くる日、犬吉は再び銀亀の家を訪れた。
戸を開けると、あの女中がメソメソと泣いていた。

「どうした?銀亀は?」
「逃げました」
「何ィ?」
女中は泣きながら、託されていた書き付けを差し出した。
「これと引き換えに、私の事はあなたに任す、と」
犬吉は、書き付けに目を通した。
細かく店や女の事が書かれていた。

「金を取り上げりゃあ、逃げ足を封じると思ったが。
まぁ、仕事はしてくれたな」
犬吉が引き上げようとするのを、女中が追い縋った。
「あ、あの…私は!」

 そう言われて、犬吉も困った。
「おまえ…名は?」
「ミツと言います」
「ミツは、この町の出か?」
ミツは首を振った。
犬吉が続けた。
「じゃあ、何処からか買われてきたのか?」
ミツは悲しそうに頷いた。
「フン!買った女を手元に置いていたのか?
おまえ、あいつの妾か?」
ミツは激しく首を振った。
「私、この町に来て、十日と経っていません。
帰る家もありません。
どうしたら、よいものか…」

 犬吉は、戸惑った。
「うーん、そうだなぁ」
田舎者然とした着物と髪、町に来たばかりと言うのも、犬吉は納得した。
犬吉は、グイと顔をミツに寄せた。
「泣くのをやめろ。
顔をよく見せろ」
「えっ?」

 ミツの顔を、前から右から左から見ながら、「そうか」と、犬吉は手を打った。
「おまえを高く売るのに、町娘として馴染ませようとしてたんだな。
良い顔してるよ、おまえ」
 そう言われて、ミツは顔を赤くした。
犬吉が続けた。
「よしっ、この家から持って行く物はあるか?」
「あ。あの…少しだけ」
「取って来い、俺の家に行くぞ」
「え?」
「俺に任せる、と言ったんだろ?
任されてやるよ。
尾いてこい」
「ええ?」
「じゃあ、此処に残るか?」
「行きます!尾いていきます」

「誰だ?その女?」
戌は犬吉の連れてきたミツを、上から下まで、見た。
 戌は、また紙の束を座敷に並べ直していたが。
その座敷に、男の姿は無かった。

 ミツは布包みを二つ抱えたまま、戌に挨拶した。
「ミツと言います、
よろしくお願いします」
「この家の住み込みになる。
此処は俺の家になるからな、女中がいてもよかろう」
犬吉は、辺りを見回し、尋ねた。
「おい!あいつは、どうした?」
戌は寝所の間を指した。
「あっちで飲んでいるよ」
「そうか、じゃあ、これを持っていってくれ。
調べてくれと言われた、店の事だ」
「あんたが持っていけよ」
「俺は忙しいの!
ミツ、こっちだ…」

 犬吉は銀亀の書き付けを戌に託すと、ミツを連れて、家の奥に向かった。

「あの人…は?下男か何か?
他に働く人は、まだいないって…」
「ああ、あれでも客人だ。
もう一人、でかい男がいる。
それはおいおい話す。
まずは…此処がおまえの女中部屋だ」

 炊事場の隣の小さな一間に、二人は腰を下ろした。
ミツは、戸惑いながらも、手を着いて頭を下げた。
「大吉様、よろしくお願いします」
「俺の名は、実は犬吉だ」
「え?」
ミツは、驚いて顔を上げた。
犬吉は悪戯っぽく笑った。
「内緒だぞ。まぁ、普段は大吉と呼んでくれれば、間違いは無いから。
それとな、これだ」

 犬吉は、懐から銀亀から取り上げた金、手拭いで包んだままの金を取り出した。
「知っての通り、ここは猪口親分の本屋敷の中だ。
親分から逃げ出した銀亀は、この屋敷には近づけない。
それ所か、この町には二度と寄り付かないだろう。
少しは、気が楽になったか?」
「…はい」
「おまえ、帰る家が無いと言ったな」
「大川の北で、山が噴火した時に…」
「家と家族を無くしたのか?」
「はい…」
ミツは悲しそうに俯き、続けた。
「私は奉公先にいて、難を逃れましたが。
その商家も、噴火以来、商売が傾いて…」
「それで、城下で働き口を世話してくれる、と言われたものの。
実は売られていたんだな?」

 ミツは涙ぐんで頷いた。
犬吉は大きく息をついた。
「大川の上は、まだ、あの災厄に振り回されているのか…」

 犬吉の脳裏に、あの日見た、蝙蝠の姿をした黒雲が浮かんだ。
(あの黒い雲は何処に行ったのか?
何時の日か、また現れる事があるのか?)
不意に閃いた不安が、犬吉の背中に悪寒を走らせ、身が震えた。

「俺もな…大川の上にいたんだ。
あの噴火の時」
「え?」
「あれから、随分とゴタゴタして、いろんな事が変わっちまったからな。
俺も逃げ出してきたのさ。
幸い、良い巡り合わせがあって、今はこんな形をしているが。
俺達、似た者同士さ」

 犬吉は金の包みをミツに寄せた。
「この金、おまえに預けるよ」
「ええっ?」
「フン!あのクソ野郎の金だ。
まぁ、タチの悪い奴から借り集めたから、あいつの金だって事は内緒にするんだぞ。
少しは自分の小遣いにしてもいいが、無駄遣いするなよ。
この家、もらったばかりでな。
何かと、金と手間がかかる。
これで賄ってくれるか?」
「あ…はい」

 犬吉は小さく笑った。
「女中と言っておきながら、女房にするみたいな頼み事だな。
そうだ…読み書き出来るか?勘定は?」
「出来ます…算盤も少し」
「頼もしいな!」
犬吉は満面に笑った。

・・

「犬吉が何か持ってきたぜ」
戌は寝所で飲む男に、書き付けを示した。

「どれ…」
男は、女達の名が書かれた書付に目を通した。

「これで、全部か?」
「さぁ?犬吉にきけよ」
「そうだな」

「わぁっ!何だよ、急に!」
女中部屋となった事を知らずに、犬吉を探していた男は、いきなり襖を開いた。
目の前に、犬吉がこちらを向いて、慌てふためいていた。
その後ろに、半裸の若い女がいた。
「名前はこれで全部か?
店で使う名だけじゃなく、本当の名は…」
「そんなもの、分かる訳ないだろ!
それに、それを調べた奴は夜逃げしちまったよ!
今、分かるのはそれだけだ。
茶屋に来ていたのは、その七草って置屋で、間違いは無い!
俺も駕籠かきの連中に尋ねて確かめて来た」
「そっちの女は、何だ?」
「あ、これは女中だ。
今日から、住み込みになる。
今ちょっと、さっき買った着物を合わせてみてた…だけだ」

 男は犬吉の頭越しに、背中を丸めてしゃがみ込むミツを見て、言った。
「その女、ちょっと貸せ」
「はぁっ?」
「今晩一晩でいい」
「何するんだ?」
「置屋に売るんだ」

「ええっ!」
犬吉とミツは、大声をあげて驚いた。

其の弐之跋「銀亀」ー終ー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?