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ホモ・ミゼラビリス

 多様性と平等を謳う現代社会では、様々なバックグラウンドを持ち、悩みを抱えるものたちへの思考の配慮というものが課題になる。それはたびたび「同情」に近しい、どこか歯がゆい行為に収束してしまう。「同情」という言葉の中に、同情できる余裕がある人/同情される人、という社会地位的、資本主義的上下関係のようなものが内在しているのがなんとも気持ち悪い。そこでもうすでに平等が破綻しているではないかと思う。

よく「アフリカの子供たちは~」なんて子供のころ、貧しさの引き合いにフリー素材的なアフリカンチルドレンが出されていたが、それもやっぱりどこか気に食わなかった。「同情されるべき人々」はむしろ、「同情している」と思っている側の人間かもしれないというのに。


 『ナミビアの砂漠』を見た。(後、ネタバレを含みます)この映画の主人公カナを家庭環境のトラウマ、もしくは過去の出来事のトラウマによって生活に問題を抱える「アダルトチルドレン」として捉えて考えてみたいと思う。アダルトチルドレンの特徴は教育学者のジャネット・G・ウォイティッツによって以下の13個に分けられている。

アダルト・チルドレンは何が正常かを推測する。
アダルト・チルドレンは物事を最初から最後までやり遂げることが困難である。
アダルト・チルドレンは本当のことを言ったほうが楽なときでも嘘をつく。
アダルト・チルドレンは情け容赦なく自分に批判を下す。
アダルト・チルドレンは楽しむことがなかなかできない。
アダルト・チルドレンは真面目すぎる。
アダルト・チルドレンは人と親密な関係を築きにくい。
アダルト・チルドレンは自分がコントロールできない変化に過剰反応する。
アダルト・チルドレンは他人からの肯定や承認を常に求める。
アダルト・チルドレンは自分は他の人たちと違っていると感じる。
アダルト・チルドレンは責任をとりすぎるか、責任をとらなすぎるかどちらかである。
アダルト・チルドレンは過剰に忠実で、たとえ無価値な人間関係であってもそれにしがみつく。
アダルト・チルドレンは衝動的である。他の行動が可能であると考えずに一つの行動に突っ走る。そのため、混乱、コントロールの喪失、自己嫌悪を招きやすい。その上、不祥事の後始末に過大なエネルギーを使う。


引用元:アダルト・チルドレン|ジャネット・G・ウォイティッツ著

他にも自分がなにをやりたいのか、自分の感情が分からなくなる、自分の気持ちが分からなくなる、自己と行動の遊離などがある。河合優実演じるカナは、序盤から筋の通らない行動を繰り返し、(浮気、謎ギレ、嘘など)その行動原理は非常につかみにくい。物語後半で親にトラウマを抱えていることが判明するが、その人物像は批判しようと思えばいくらでもできる。しかし無批判な批判もできない。

 正直、明確なトラウマがあると自覚していない私でも、半分くらいアダルトチルドレンの特徴に当てはまる。それは若者の現代病とも関係しているのかもしれない。デジタルネイティブの我々は情報過多に晒され、ありとあらゆる合っているどうかもわからない価値観を押し付けられて、本当の自分を見失いやすい。

 21歳のカナは乾いた砂漠のような空虚な世界を一人生きている。私がアダルトチルドレンの特徴に少し当てはまるといっても彼女の世界の認識の仕方は明らかに私のとは大違いで、人に頼って、あるいは人を利用して生きることができる人垂らし的な彼女の才能も相まって、その生活は平凡に暮らす人間が体験し得ないだろう要素を多く持っている。それらは一般論では好ましくないと認識されることが多いのだが、彼女はそれに特に悪びれる様子はない。

 「日本は少子化で終わっていくので今後の目標は生存です。」

まるで未来への希望がないかのようなカナが宣言するこの言葉は、自分のやりたいもの、好きだと思えるものもわからず、自分というものをただただ空虚に見つめるアダルトチルドレンや現代の若者を誇大的に表しているように思う。私は終始、彼女はどうすれば救われるのかを考えてしまった。果たして彼女は「同情されるべき人」なのだろうか。

 まず同情/sympathyとはなにか。wikipediaでは

同情(どうじょう)、シンパシー(Sympathy)とは、他者の苦境に対し共感する感情の同一性を指す。」

とされている。まずここで言いたいのは他人の苦境や困難に思いを馳せ、感情を想像することは可能でも、同じ境遇にない限り、共感、あるいは絶対の理解なんてありえないだろうということである。実際にそういう人に会って話を聞いたり、映画や本などで学ぶこともできる。しかし本質的には「映画なんか観たって何にもならない」だろう。逆に理解できないことを認めず、理解した気になっているやつのほうがよっぽど憐れむべき人間なのではないかと思う。

ある痛みを知っている人間と知らない人間で世界の認識の仕方が違うことはあたりまえで、特に育った環境に関する痛みを知らない人間は生涯で身をもって知ることは難しい。だからまずはその事実を「知っている」ことを大切にするべきで、同情なんて「で、そんなお前は何者なんだ」という言葉が返ってくる鏡でしかない。

その「知っている」を頼りに少しずつ世界の捉え直しを行い、人に優しくなっていくしかない。

 確実に格差はある。金銭的な格差、親から受けた愛情の格差。家族と過ごした時間の格差。その格差に対して痛みを知らない人間はそんな人々と出会い、友達になったとき、どう向き合うべきか。例えばお金を貸す、またはあげる、養ってあげようなんてのは根本的解決にならない。他者である限り、その行為はそんな気はなくても限りなく同情に近い。この絶対的に他者であるという事実が、その人を助けたいと思うことと、友情が存在しているということの同居を拒む。

 ではそんな友人とどう向き合っていけば良いか。私には2つ考えがある。

 まず一つは損得を超えた家族的関係を築くことである。話をする、笑いあう、食事を共にする、喧嘩もする、というようなイメージだ。損しようが、得しようが関係なく普遍的にそばに居てあげることである。しかしこれは難しい。本当に難しいと思う。やはり他者であり血が繋がっていないという絶対の事実が互いの自我に現れることで溶け合うことを拒むからだ。

 次に未来への想像力を共に働かせることである。毎日を楽しく生きなくても良いと諦めること。そしてたとえ社会に希望が感じられなくても、生きることが辛かったとしても、未来への希望を持ち続ける、ただそれだけのことが必要だと思う。少しでも今よりいい未来が来ると希望を持って自分と向き合っていけたら、自分にも、そして周りの人々に対しても優しくなれるのかもしれない。


映画『Everything Everywhere All at Once』では絶望の社会を生きている、生きる意味などないと感じ、無気力になってしまう人を象徴するジョブ・トゥパキという敵が現れる。彼女の認識世界はまさに穴の開いたベーグル。空洞だ。この映画では主人公のエヴリンがマルチバースという多元宇宙の体験を通じて、ネガティブに沈みゆく感情を無理にポジティブに転換するのではなく、その絶望を受け入れた上で、今ある自分を受け入れるしかないとありのままの今を生きる選択肢を提示する。その制限のなかで明るい未来を探っていく。友達の明るい未来を探る手伝いをする。思うに『ナミビア』のカナにもこれが必要だったのではないか。


 私はアダルトチルドレンに似た特徴を持つ友人と関わることがあった。その時はたぶん気づけていなかった。申し訳なく思う。別々の生活圏で生きていたため、会うことは少なかったが、よく連絡を取り合い、その人の悩みや、ネガティブな感情をよく聞いていた。その人はそこで友達がいないというわけではなさそうだったが、心と体とその行動はよくフらついていて危うい印象だった。(あくまで想像でしかないのだが)しかし、いつからかその人からのネガティブな類の連絡は少なくなった。

自分はその人にとって、いつでも会える家族的存在にも、未来にも最初からなりえなかったのだろうが、その友人がその場所で未来への希望を、可能性を見つけたのであれば、心からうれしく思う。

 そして私がその人と関わり続けていたのは、
「同情」からくるものだったのではないかという、出会ったときからちょっと考えていたけど考えたくなかったことに『ナミビアの砂漠』を観てからちゃんと向き合うようになった。

 しかし、よくよく考えてみれば私はそんな人間ではなかった。小さいころから、何かの悪口や批判ばかりで、その批判で自分の定義をし、世界を捉えてきたような人間だ。陰湿で、負けず嫌いで、自分よりも他人はちょっと不幸であってほしいなんて思うことがある人間だ。そんな人間はそう簡単に同情なんてしない。だから私がその友人と関わり続けたのは同情なんかではなく、
その理由は、紛れもない友情や愛に近い何かにあったと私も今、気付いたのだった。


参考
・東京都同情塔
・ナミビアの砂漠
・アダルトチルドレンの教科書





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