見出し画像

おじさん・ザ・エッセイスト 第19回 〜"多様性"を考える〜

"妖怪「今だけ男」"




こんにちは。
おじさんです。


日課のリングフィットで、少しばかりお腹が凹んできました。
窮屈だったスキニーが少し履きやすくなったりと、トレーニングの成果が徐々に現れ始めています。

本気で体づくりに取り組んでいる人からしたら他愛もない運動量かもしれませんが、継続した結果が形になって現れてくるとやっぱり嬉しいですね。


元日より始めたこのエッセイも9ヶ月目に入り、次でいよいよ20回です。

スキを押してくださる皆様、いつもありがとうございます。
たいへん励みになっております。

物書きとしての成長、その確かな手応えを得るにはまだまだ程遠いですが、少しでも良い読み物になるよう邁進していく所存です。


さて。
今日のテーマは「多様性」です。




近年、「多様性」という言葉をよく耳にします。

元はというと生態系の成り立ちに関する言葉だったのですが、いつの間にか人間にも当て嵌められる言葉になりました。
具体的には、「人が個別に持つ特性や価値観」という意味での使われ方をされています。

とりわけ"性の多様性"については大いに議論を呼んでおり、平成の半ば頃からLGBTQ+という言葉がネットやニュース等、様々な場面で取り上げられるようになりました。

・レズ(女性同性愛)
・ゲイ(男性同性愛)
・バイ(両性愛)
・トランスジェンダー(身体の性と精神の性の不一致)
・クエスチョニングもしくはクィア(性自認・性的指向が不定)
・プラス(その他、ありとあらゆる性)

これらの頭文字と、+(プラス)を付けて「LGBTQ+」と総称されています。

キーとなる言葉は、「社会的・文化的な性差」を意味する"ジェンダー"です。
新語と思われがちですが、その語句自体は1980年代頃から存在しているようです。

社会的・文化的な性差とは何か?
簡潔に説明すると、一般論でいう「男らしさ、女らしさ」のことです。
男は仕事、女は家事、といった性による役割分担のような固定観念全般を指します。
そして、そのような生まれ持った性別という枠組みに縛られないことを「ジェンダーフリー」といいます。
要するに男はこう、女はこう、というのはもう古いよ、という考え方ですね。

社会や文化の定義する男性像、女性像からの脱却。
10人に1人はLGBTQ+であると言われています。
こうした議論が加速していく中で、人類という種は今、過渡期を迎えていると言えるでしょう。


全ての人の個々の特性を尊重しようという姿勢は確かに素晴らしいものです。
しかしその一方で問題になっているのが、そんな社会にとってポジティブな働きかけの裏に、私利私欲を満たそうと企む悪人がいることです。

その最たる例が「偽装トランス」と呼ばれる自称トランスジェンダーです。
彼らは、身体男性でありながら性自認が女性であるとし、性犯罪を行うことを目的に女湯や女子トイレに侵入します。
実際、自称トランスの男が盗撮や痴漢といった罪を犯し、逮捕されたという事例が次々に起こっています。
被害に遭われた方からすれば、一度でもこのようなことがあったら、本当のトランスジェンダーに対しても嫌悪感を抱いてしまうのは無理もないでしょう。

「心の性」というのは内面の問題ですから、虚偽であると証明するのは容易ではありません。
それをいいことに、堂々と性犯罪に走る不届き者が少なからずいます。
そしてそのことを批判しようものなら差別だ、と居直る始末。
性的マイノリティに配慮しようと歩み寄った結果がこれです。
良心を踏みにじる悪辣な所業と言わずして何というでしょう。

このような欺瞞を看過したまま、性的マイノリティへの真の理解が社会に浸透するとは思えません。
そこに待つのは、臭い物に蓋をする、腫れ物に触るといった差別意識に満ちた隔たりです。



"多様性を許容する"ということは、社会にとって必ずしもメリットだけとは限りません。
裏を返せば、淘汰されていくはずの異分子を淘汰しないということです。
病気や障害といった劣性(潜性)の遺伝因子を持つ個体は、本来であれば淘汰されていくのが自然なのです。

自然界では、弱い遺伝子が淘汰されることによって種の保存および進化が行われてきました。
人間も同じです。
多様性の保護という名目で自然の摂理に逆行することが、種にとってどれほどの危険を孕んでいるか。

肉を喰わないライオンは生きていけないのです。



歪な枝分かれを繰り返し、多様化を目指す人類。
行き着く先は進化か、それとも滅亡か。

今はまだ、誰にも分かりません。



それでは、今回はこのへんで。




author,  P
2023/9/14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?