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【思考編-第10回】織田信長と明智光秀の思考差 ”何故、光秀は信長を討ったのか?”〖後編〗<2021年 特別講座>

前編では主に明智光秀の過去の統治体制復活への思考を解説しましたが、後編では、織田信長が「植民地侵略と覇権争いが続く世界と、鎌倉、室町と繰り返される日本の幕府体制崩壊からの戦乱」を観た上で描いていた、新たな日本の統治体制とそれを創ろうとした状況と理由について、推定思考法マップを基に講座解説します。

コロナ禍などで”会社、ビジネス、個人”それぞれのレベルで「今すぐ変えていくか…?  それとも収束&復活を待ち再開する…?」
不安や迷いを抱くこの時期に、状況分析や今後の先見思考を行うために最も相応しいと思われる「織田信長と明智光秀の思考差 ”何故、光秀は信長を討ったのか…?”」を “水野流新説本能寺の変、本当の要因”と共に配信します。

「えっ!! なんで今のこの時代と本能寺の変が結びつくの…?」と思われるのは当然だと思います。 今迄マスコミや歴史学者が言ってきた事と、私が唱える本能寺の変は根本要因が違うからです。
私は違う方向「その時の於かれた環境条件や状況証拠と、リーダーの対応思考」から推定し視ます。

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巷では「秀吉や家康の陰謀、逆恨み、領地替え…」色々ありますが、重箱の隅を突くような小さな個人の恨みや欲だけで、一万人以上の組織が乱れぬ統制を取り動くことは不可能です。
実際にリーダーとして結果を残した人であれば解ると思います。余ほどの強権と独裁力を持たない限り、良識あるリーダーの基では ”大儀(使命感)と共有された目的設定” がマストです。
[ 明治維新も天皇の錦の御旗(使命感)と共有目的(新しい日本)があったから、薩長連合は”幕府への反乱軍ではなく新制日本の維新軍”となり得たのです。]

私の ”本能寺の変が何故起こったか?” の結論は……
”世界を視て未来思考で新しい日本の統治体制を創ろうとした信長”と
”日本の伝統的統治体制を守ろうとした光秀” の「未来と過去」の思考差です。

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<信長の描いた統治体制は まさに現在の日本!!>
日本の戦乱からの復興だけでなく、植民地侵略や覇権争い等の世界を観て、「繰り返される幕府崩壊と戦乱の再発防止、及び世界に向けた強国日本を創る」ための、過去と異なる新しい中央集権統治制度の構築。
【天皇と公家は象徴とし、安土城を中心とした武家による中央集権統治(現在の知事と同じ、統治権のみで戦乱の原因となる領国所有権は与えない) と、公家と武家による二重統治の撤廃。そして完全な政教分離実現の為、武力宗派を根絶】
ほぼ現在の日本の統治体系に近い統治制度を創ろうとしていた。このため、秀吉や勝家、光秀も目的と戦況に応じて所領替えをされていた。

併せて、植民地支配化の先遣隊である宣教師を逆に使いこなし「軍事力や金銀財力そして城郭造りなど、当時世界一であった日本の凄さと恐ろしさを西洋に伝えて威嚇し、海外の情報や戦力用具」を手中にしていた。また、西洋における「キリスト教法王と国王による二重支配体制の問題」も把握しいた信長は、政教分離を推進した(政治発言を持つ武装した仏教宗派の一掃)。
[ 信長のローマ法王やスペイン国王に対する「日本の凄さの威圧」があったから、後に派遣された伊達藩の支倉西洋使節団なども手厚くもてなされた ]

<光秀の日本国への使命感!!>
教養があり朝廷と親密であったが故、「武家の立場と身分をわきまえ、早く戦乱を収束し、天皇を最高権力者とする戦乱前のあるべき姿への復興」に向け、日本だけを観て「格式ある制度と本来のあるべき姿」を追いかけ実現しようとした光秀。
【天皇は最高実権者、その下で公家と武士(統領の幕府+領国持ちの大名)による二重統治、そして宗教特権の認知】で、日本の伝統を守り、理想のあるべき姿での統治に戻そうとする光秀。
日本の伝統を追う光秀の後ろ盾は朝廷や公家そして旧幕臣派、それにより造られた「日本国の為という使命感」は 「”個人としての存在”である信長」を遥かに超えていた。
光秀の私利私欲や権力を求めた裏切りや唆された反乱では決して無く・・・
”日本を守るという思い込み使命感”の実行が「本能寺の変」であった。

しかし…本能寺の変により信長は亡くなった。

その後を継いだ権力者の思考視野は狭く日本に留まった!!
秀吉は”関白”となり、公家と武士の二重統治を継承し、日本の保守から宣教師を追放し海外とのパイプも絶った、朝鮮出兵も豊臣の政権力確保の策。
また、家康も幕府体制で古来の統治に戻し、鎖国と共に日本の世界への進化を停めた、参勤交代で領国大名の力を落とし徳川の政権力を確保。

“たられば”ではあるが・・・もし、本能寺の変が無ければ、アジアの覇権は日本が持ちヨーロッパと並ぶ国際的な影響力を築いていたであろう。
なぜなら、その視野は世界に向けられていたから…
本能寺の変は、単に光秀が信長を討っただけでなく、その後の何百年という日本の軌跡を大きく変えてしまった。それは、明治維新に匹敵する新しい統治体制を決定づける”変”であった。

➪ コロナ禍やIT化、グローバルなビジネス環境の変化など停めようもない大きな変革が求められ、その対応に戸惑い悩む皆さんにとっても、思考の重要なヒントを与えるテーマとして取り上げました。

「水野流”推定思考法”による、本能寺の変の真の要因 ➪ 織田信長と明智光秀の思考差」これは大切なテーマですので〖前編〗と〖後編〗の2部構成にして配信します。

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