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人と繋がり、和す(SNSの心得)


文言に表れる-敬意と謙虚さ

言葉(コメント)に表れる相手への心の位置 

人生の学び
自分の発信する文章、文言・言葉に
相手への心の位置(=敬意・謙虚さ)
人柄が表れると最近強く受止めます。

デジタル時代(社会)になり、
SNSが広まり善し悪しに関わらず
コメントやメッセージから書いた人
の人柄相手への意識が垣間見えます。

今手放せないSNSのコメントの文言
から間違いなく判ることは書かれた人
の人物像、気持ち、送る相手に対する
心の位置の表れます。

これは、
今迄の人との触合いからの学びで
私の場合、幸いに若い頃に多くの
心豊かな一流人、著名人、大手の
企業オーナーとおもてなしを通じ
て触合う機会や時間を頂けました。

その時に教えられたことが、今この
歳に成っても心に残っておりますし、
それが現在このnoteの文章を書く上
でも大変役立っています。

やっと秋に入り、季節に合わせれば
おごるなよ、月の丸いも唯一夜
=慢心の戒め
実るほど頭が下がる稲穂かな
=謙虚さ
と言う人の意識を数知れない触れ合い
から体感し学ぶことが出来ました。

文上で気になる記事や文言を見付け
た時は出来る限りコメントを残して
おりますが、果たしてそれが正誤❓
は定かではありませんが残した方
の他人のコメントを意識します。

これ迄何らかの形で繋がりを頂ける
方に共通するのは私のプロフィール
を御覧になり、誠実さを感じられる
コメントを頂ける場合が殆どです。

そのような方へは
誠心誠意、出来る限りのサポート
やアシスト、提言をしております。

過去の私もそうでしたが、
二万近くのP.V.が有った2013年頃の
H.P.接客マナーは心の礎内の文言に
どことなく上目線や奢りのある文章
(言葉遣い)が多く書かれてある記事
になっていたのが見られました。
※該当記事は削除又は訂正しました。

幸いにも、
講座やセミナーでの素敵な人との
出会いや触れ合いが出来、上記の
恵まれた過去の触合いでの学びを
思い起こせこともあり、己の奢り
に気付くことができました。

自分の発した言葉に、責任を持つ

最近、
少なからず体感することの一つに、
「自ら発した言葉に責任を持つ」
意識と活動に気掛りなことがあり
それは、
人を人間として認めない行為の
見ないふりや無言の態度・行動

忘れたふり、知らぬふり、メール
メッセージのスルー(既読スルー)
と言った心身の活動である自分の
感情優先で相手を人として無視や
年長者への敬意表現=リスペクト
の心の欠如した言動態度
です。

そのような「認めない無視り活動」
をする人の殆どは自信過剰、保身、
優柔不断、意志薄弱、自己中判断、
或いは、これはと言う人に自分を
認めさせたいが故の見返りを望み
求める活動、と言うような自分を
顕示する意識と誇り(プライド)が
強く自分のしたことの何等かの
見返りとして、認めて貰おうと
必死になっている人もおります。

そのような人に触れ合う相手に対し、
私利私欲(相手のためになる)のない、
無心の認める活動が「信認」に繋がる
ことを自覚してもらいたいものです

即ち、まず自分から積極的に
相手を認める活動をする
与えよ、されば与えられん
 の如く
認めよ、されば認められん
見止めよ、されば見留められん
(※見留は自作)なのです。

最近、経営者や責任者、また部下を
管理指導育成する立場の方との会話
などで検討する時間や相談する時間
を要し即答できない内容があります。


「時間を作って、
 改めてこちらから連絡します」
「忙しい○○の行事が後に、
 日程を知らせます」
「仲間と打合せて、
 改めてお知らせします」
など、何らかの形での連絡・報告
やレスポンスが必要とされる仕事上
のやり取りです。
この様なやり取りの中で大切なのは、
『自分の発した言葉」に責任を持つ』
即ち、有言実行の様々な活動です。

※「有言実行
 口に出したことは、
 何が何でも成し遂げるということ。
 「有言実行」 は「不言実行」をもじって
 出来た語です。
 同義語に
「言うは易く、行うは難し」があります。

塩鉄論……利議から
 「口で言うのは容易いけれども、
  それを実行することは難しい。

 
 この言葉には、捉え方(解釈の仕方)が
 二、三あると考えられます。
 
 一つは、言葉通りの意、
 他には相手から自分を守るため、
 其の場凌ぎの意・逃避などです。

 最初の意の言葉の場合は、
 伝えた相手を認めていることと
 共に、それを聞いた相手の何ら
 かの期待感を生み出します。

今迄の様々な人と触合いの体験から、
この「有言実行」の活動を信認して、
仕事や他人に真面目に取組む人程、
この言葉を重く真摯に受け止め、
様々な期待を気持ちに抱き連絡を
待っていると思われます。

しかし、
いつまで経ってもその言葉が実際に
されないと、発した人への不安感や
不信感を抱く誘因や動因、原因にも
なり兼ねません。

若し、何らかの事情で伝える時間を
要する場合は、不安を与えないため
にも適時適切な中間連絡をすること
を心掛けることです。

この言葉を発する人が、其の場凌ぎの
言葉として使う場合は其の場だけでも
いい人と思われたいと自己中心的意識
をする人、お調子者であったり感情的
な言動をする人、保身のため相手への
距離を置きたい人、と言う意思の現れ
などの場合が多いようです。

何れにしろ、人との触合いに於いて、
喩え、相手が自分の意にそぐわない
人物であったとしても
自分の発した言葉の重さ
 を弁え、責任を持つ。

と言うことを意識し善し悪しに関係
なく、自分の意思をキチンと相手に
伝えること社会人として人としても
大切であると思います。

その結果、
相手が離れたり、縁が切れてもよし、
と捉えることも必要だと思います。

また、報告や連絡、メールのレスが
来ない場合、自分に落ち度や不謹慎
な言動がなかっただろうか?
と己の言動を平らな気持ちで省みて
みることが必要な場合もあります。

おもてなしの心を持つ日本では、
子供の頃に親から
「自分の言うことに責任を持ちなさい」
「何かして貰ったら、
 ありがとうと言うのですよ」
「間違ったことをしたら、
 ご免なさいと謝りなさい」
などと躾られ、教えられます。

しかし、
大人になるとその大切な教えを
自尊心や忙しさ利害関係の有無
や好き嫌いなどで実際にしなく
なることも多いようです。

そして、
そこには人間の欲とも言える常識
(当たり前)に見返りを期待する心
存在します。

他者を無私の心で「持て成す」純な心
を備え持ちこのような見返りは一切
期待せず表裏の無い「認める」「感謝」
「人や社会への情けや施し」などと言う
互いが人として心から信認できるよう、
積極的な活動に心掛けたいものです。

日々の小さな心掛けとして自分の
【言葉の重さ】の認識も大事です。
 

自分の発した言葉


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