他人の心身を動かすー二分の一の法則
今わたしたち日本人の取組み意識に
大切と思うことを書きました。
🔸🔸🔸🔸🔸🔸
以下は長文の記事になりました🥺。
二分の一の法則
【自分が他者にされる態度や行為の
50%=1/2は、自らの心や言動が
そうさせる、と謙虚に捉える法則】
≒因果応報・自業自得
"人を指差す前に
自らの言行態度を顧みる"
※この法則は、思い遣りについて学ぶ
プロセスで知り得た『仏教の教え』
にある下に載せた浄土真宗親鸞聖人
の教えの文言を読込む内に今迄の
人生で味わった対人関係の体験を
思い出し、脳裏に生まれた法則。
過去の人生での多くの人との出会い
を始めサービス業でお客様と触合い、
委託主、職場の上司・仲間と言った
人達と触合いから実感し感じた学び
を【1/2の法則】としました。
接客サービス業に携わり、いつまでも
お客様に心に残る感動や余韻を与える
ポジティブな言動、嬉し感じ喜んだり
不愉快な思いや不快感、不信感などを
与えてしまったなどの体験を、改めて
振り返ってみると殆どがこの1/2の法則
に当て嵌まると実感しました。
似たような意味表す諺や言葉として、
「自利利他」
「自ら動いてこそ、人も動く」
「情けは、人の為ならず」
と言う、語句や諺もあります。
また、プライベートでの様々な場面での
人との触れ合いやお付き合いをする上で、
仕事を行う上であも、日々触合う人から
感謝されたり、親しまれたりされたり、
仲間や人から好かれたり愛されるのも、
悪口や陰口を言われ、イジメや意地悪
を受けると言うのも、その半分は自分
の成した結果でふると謙虚に受止め、
自分の意識、言葉使いや行為態度など
が触れ合う相手に善し悪し、嬉楽しい
と言う言動、態度、意識を自らが源と
なっている因果応報のことを表します。
例えば、
自分の心中に怒りの感情が生まれた時、
相手へ怒り憎しみや猜疑心が生れた時
に相手にされる元=要素、要因、動因、
誘因・原因の半分は自らの心の持ち方
や言行態度にあるのでは❓と思考する
ことを言い現わしています。
※過去の失敗・不義・忘恩行為や
真逆の良縁・嬉しさの体験から。
また、
今までとても優しくしてくれた人が、
急に冷たい態度になったら1/2の法則
詰り、何故の心で考えてみることです。
キッとあなた自身にその様にさせる
元となる何らかの言動があるのでは❓
と思考してみると顧み振り返る癖を
付け自ら省みることをお勧めします。
日常生活でどうしても自分が相手へ
何らかの見返りを求めたり望む時は、
捉え方を変え
「今迄に受けた何らかの僅かな
恩返しをさせて頂いている」
と言う謙虚な=意識・自覚を持つよう
に意識することも必要です。
接客サービスやおもてなし、仕事上、
日常生活の場で相手のことを批評や
批判をしたり、責めたてけなしたり
する前に、一旦立ち止まって思考し
自らを振返ることを怠らずするよう
する癖をつけることにより、貴方の
人間力と心をより向上させます。
そうすると
人と付き合いする上でも仕事でも良い
結果に繋ると数々の体験をしました。
要約すると、
自分自身のしたことで良くも悪しくも、
人から何らかの反応や言動があった際、
因果応報の意識で
「自分自身のした言動を一度省みる]
⇔自分の内外の心総てを指差し観る
内観の活動をお勧めします。
不思議と自分の器の小ささや言葉や
行為態度の改善に気付くものです。
また、お店や会社、施設などの場合は
自店・自社の総てを三現主義で省みる
⇔自店の接客・接遇、自店舗の商品を
全て顧客目線で指差してみる。
三現主義
=現場・現況・現物を顧客目線で診る
心身の活動。
私たちは善きにつけ、悪しきにつけ、
触れ合う周りの人やお客様から何らか
の意思表示や言動の行為があった場合、
自分や自店舗が触合った相手やお客様
にそのようにさせる原因・起因・要素
がありその要因を作っていると受止め
思考することは、心豊かな日常生活上
ばかりか接客サービス・おももてなし
総てのサービス業で必要です。
随時、
この二分の一の法則に自分の言行態度
に照らして自店舗の「人=心」と「もの=
モノ商品」「コト=体験」に対しそれぞれ
のリスクアセスメントを定期的に行い
真摯に見直すのは健全営業に大切です。
普段の生活や仕事などでで心の許せる
親しい友が出来ない、友人がいない、
恋人がいない、周りの人や仲間達から
冷たくされ
接客サービス業の仕事では、来店数、
固定客顧客が減少したり、今迄定期的
にお見えになっていた患者さん、顧客
お客様が来ない、リピーターが少ない、
料理の残り物が多いと言う要素や原因
を見つけ出すためにも、自施設(自社)の
振返る「」の活動は
決して怠ってはならないことです。
自分自身の心に確りとこの1/2の法則を
刻み込んでおくことは仕事や日常生活
の総て場で役立つと実感して来ました。
これを日々忘れずに意識し心掛ける
心身の活動は己の心を豊かにします。
この法則は、
自省・克己・感謝・奉仕・知足
と利他行の心を表わす法則です。
以下は、学びのメモと
株)チューリップ企画が運営する
親鸞聖人と浄土真宗を分かり易く
紹介したサイトより部分転載。
(👇タイトルクリック)
🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸🔸
私達の取組み意識の学びになる
内容と私達の意識改革の参考に💕
【以下は以前に学んだ内容です。
仏教の教えに興味がある方向】
親鸞聖人の教えー浄土真宗
日本には、
古から仏教の宗派が色々ありますが、
一番多いのは、浄土真宗です。
すべては自業自得
仏教では自分の運命は全て自分の行い
が生み出す自業自得と教えられます。
善い悪いの運命も自分が蒔いた種の
結果であり、誰かを恨み憎むことは
できまないのです。
幸せそうに笑っているライバルを憎み、
不幸を願う醜い心が「愚痴」です。
因果の道理が分からず
悪を造り苦しみ続けているのです。
お釈迦様はこれら「煩悩の塊である」
と仰っています。
故に悪因悪果で苦しみ続けなければ
ならないと教えられます。
ではもどうすれば煩悩の火を消し、
永久の苦患から救われるのか❓。
9歳から29歳までの20年間、
親鸞聖人は『法華経』の厳しい修行
に打ち込まれました。
しかし、
抑えても払ってもどうにもならぬ
煩悩と後生暗い心に泣かれるのでした。
📖3匹の龍=欲・怒り・愚痴の解説
今年は辰年です、人心の中に住む
3匹の龍=欲・怒り・愚痴の解説。
藤蔓(フジツル)にすがる旅人の足下には、
3匹の恐ろしい毒龍と底知れない深海
が待ち受けています。
「3匹の龍」とは、
欲、怒り、愚痴の煩悩を例えています。
💙青い龍は、底の知れない欲の心。
お金が欲しい、物が欲しい、
褒められたい、認められたい、
もっともっと、と求める心です。
その限のない欲望が深海の青で表す。
この欲が妨げられると、次に出てくる
欲が怒りです。
❤️🔥赤い龍は
「あいつのせいで儲け損なった」
「こいつのせいで恥をかかされた」
と燃え上がる腹立ちの心です。
怒っても、
とてもかなわぬ相手と知ると、
妬み、嫉み、恨みの心が起きます。
相手の才能や美貌、金や財産名誉や
地位を妬み、嫉み、他人の不幸を喜ぶ
どの人間の持つ醜い心。
災難で苦しむ人にお気の毒にと言いつつ、
心ではニヤリとする恐ろしい心です。
「深海」=来世ゆく所
これらの煩悩で悪を造り続けながら、
それでもヒシと握り締めている藤蔓
(=藤の花のつる)が切れると同時に、
旅人は底の知れない深海へ落ちます。
人は、死ねばどうなるのか。
一度蒔いたタネは必ず生えます。
遅かれ早かれぶち当たる未来です。
昨今は「終活ブーム」で、
「死の準備が大切だ」「死生観を学ぼう」
とよく言われますがそう聞くと遺産
などの身辺整理や墓の準備、死に方
を真剣に考える人が多いようです。
これは「死の地点」に立ってはいますが、
自身の未来後生に背を向けて来し方を
眺めているにすぎません。
例えばそれは、
電車から降りる時、誰に席を譲ろうか
とキョロキョロし気を揉むようなもの。
電車に執着して、
座っていた席に未練を残しているのです。
降車の迫っている人にとって重大なのは、
席は前に立っている人にあっさり譲って、
「降りた先」を考えることです。
仏教で「死に備える」とは
「死ねばどうなるか」の来世を考える
ことです。
心中にある5滴のハチミツ=5つの楽しみ
ところが、こんな危ない所にいながら、
旅人がうつつを抜かしてしまうのは、
5滴のハチミツのことばかり。
これは人間の五欲、5つの楽しみです。
😀食べたい飲みたいという飲食の楽しみ。
😀金や財産を追い求め、貯める楽しみ。
😀男女の愛欲の楽しみ。
😀誰からも褒めて貰いたいと言う
称賛される楽しみ。
😀楽して寝ておりたい楽しみ。
この5つの楽しみ求めて限りある命で
限りのない欲を満たそうとして私達は、
懸命に生き抜いています。
旅人は、
これら5つのハチミツをなめながら、
陶然と深海に落ちて行く。
ブッダは危機的状況にありながら、
目先の欲に無我夢中の相こそが大事、
とこの例え話で教えられているのです。
「旅人」=すべての人間
「旅人」
とは私たち、すべての人間のことです。
人生は旅によく似ています。
一度旅に出ると、
人は、同じ所に長く留まりません。
人生も、
昨日から今日、今日から明日へと、
時の流れを刻々と進んでいます。
旅の道中は晴れの日ばかりではなく、
曇天もあれば、雨や風雪の日もある。
台風に見舞われることもあります。
人の人生も、
調子のいい時ばかりではありません。
上り坂もあれば下り坂もあるのです。
有頂天から「まさか」と急転直下どん底
に落ちる日もあるでしょう。
人はそんな順境、逆境の中旅を続けて
いますが私達はどこへ向かって歩いて
いるのでしょうか❓
旅の目的地は、一体どこでしょう❓
禅僧一休は、
「門松は、冥土の旅の一里塚」
と詠んでいます。
「冥土」とは「来世」のこと。
人は一日生きれば一日死に近づき、
泣いたり笑ったりしながら生きる
とは死への行進で冥土への旅です。
禅僧一休は、年始の門松は、
冥土の旅の一里塚と説いてます。
冥土へ旅立つその時まで、
私達は何をなすために一生懸命に
生きているのでしょうか❓
生きる目的を知らず、
気晴らしに明け暮れて死を待つだけ
の人生であってはなりません。
人生の目的=あり方を確りと知り、
その達成に向かって生きれば時間
を最大限に生かし人生を輝かせます。
目的達成の暁には「生まれてきてよかった」
という無上の生命の歓喜が獲られますから、
「生きる意味」人生の目的を知ることは、
幸福な人生の第一歩なのです。
その目的の大切さを、
ブッダは一貫して教えられています。
「無人の広野」=人生の寂しさ
木枯らしの吹く秋の夕暮れに旅人は、
果てしない無人の広野を独りで歩いて
いた、とあります。
これは人生の寂しさを例えたものです。
(これは詫び寂びの一つの意と解す)
先年イギリスで孤独担当大臣が新設
され900万人以上が孤独を感じている
というイギリスでは月に一度も友人や
家族と会話をしない高齢者が20万人に
上るそうです。
また、
400万人以上の子供が孤独を訴えている
とも言われています。
そんな孤独は心と体の健康をむしばみ
ますからこのような問題解決のために
設けられた役職なのでしょう。
日本でも孤独死が社会問題化している今
内外を問わず“孤独”は大きな問題です。
種々の対策を
施せば癒やされる孤独もあるでしょう。
しかし“一人じゃ孤独を感じられない”と
歌った人もあるように、物質に囲まれ、
肉親や友人に恵まれていても、“寂しい”
と深く感ずる人があります。
社会的政策だけではどうにも埋められぬ
心の空洞が私たちにはあるのです。
その理由をブッダは、
「独生独死 独去独来」
(独り生まれ、独り死し、
独り去り、独り来る)
と経典に説かれています。
「肉体の連れはあっても、
魂の連れがないのだよ」
と言われるのです。
大勢に囲まれていても寂しいのは、
誰も私の心を分かってくれる人が
いない、喩え親兄弟、夫婦、親友
であっても何一つ隠さずに心中を
曝け出すことが出来るでしょうか。
心の奥底をよくよく見てみると、
とても言葉には出来ない気持ち
=意識を誰もが抱えています。
その悩みや苦しみを、
完全に理解してもらえたらどれほど
の人が救われることでしょうか。
この孤独の根本的解決が、
生きる意味といってもよい程です。
しかし、現実に一人一人の本心は、
他人が覗き見ることはできません。
それどころか自分自身でも知りえない、
秘密の蔵のような心があると仏教では
説かれています。
このいかんともしがたい人生の寂寥
=(セキリョウ)もの寂しい様子・感じ
を感ずることが、実は人生を意味ある
ものにするのだとブッダはこの例え話
で説かれているのです。
💮幸せの花ひらく
😊明日を変える「心のタネ」まき
「因果の法則」を身につける
「実りある人生に」とは誰もが願うこと
ですが思うようにならないのも人生。
「七転び八起き」
と言われても、中々結果が出ないと
「これも自分の運命か」
「私なんか、どうせダメ」などと諦めて
しまうことも少なくないのです。
でも、お釈迦さまは
「どんな人も、諦める必要はない。
人間に生まれてよかった、と言う
本当の幸福になれるのですよ」
と教えられています。
そのために説かれたのが
仏教でありその根幹である運命の
法則が因果の道理です。
これを知ることで、
今から本当の幸福への道が開かれます。
未来は、
自分の手でいくらでも変わるのです。
「諦める」
この文言は、本来前向きな意味だった!?
諦めるという言葉は今日、消極的な意味
で使われていますが元は仏教に由来する
ことをご存じでしょうか。
仏教では
「諦観」と書きアキラカニミルと読みます。
「因果の道理」を明らかに見よと言うこと。
そうすれば、
不幸や災難に遭っても迷信におびえたり、
占いや霊能者にすがる様な生き方でなく、
反省すべきポイントをキチンと掴んで、
改善、進歩する清々しい道が開けます。
明らかに見るが縮まって「アキラメル」と
なったのです、本来前向きな意味です。
運命の法則「因果の道理」は仏教の根幹
この「因果の道理」
とは、どんなことなのでしょうか❓
仏教を1本の木に例えると、
「因果の道理」は「根」と「幹」に当たり
根が無ければ木は枯れ、幹を切れば
その木は倒れます。
七千巻に上るお釈迦さまの一切経を
貫いている教えが因果の道理です。
「道理」とは変わらぬ真理
「道理」とは、三世十方を貫くもの。
「三世十方を貫く」とは、
「三世」とは過去世、現在世、未来世
のことで、「いつでも」ということ、
「十方」とは、東西南北上下四維で、
「どこでも」ということです。
いつでも、どこでも
変わらない真理を道理と言われます。
時代や場所によって
異なるものは、道理とは言いません。
地球上だけでなく、喩え宇宙に飛び
出しても間違いないのが「道理」です。
因果の道理は「道理」ですから、
いつの時代、どこの国の人々にも
当て嵌ります。
それは、
現代日本の私達も例外ではありません。
それはどんな法則なのでしょうか❓
運命には原因がある
因果の道理の「因果」とは、
「原因」と「結果」のことです。
因果の道理とは
「全ての結果には必ず原因がある、
原因なしに起きる結果は万に一つもない」
ということです。
例えば飛行機が海に
墜落したという結果にも必ず原因があります。
原因なしに墜落することはありませんから、
多額の費用がかかっても機体を引き上げ、
その原因を調査します。
勿論原因不明ということはあります。
飛行機が海底深く沈んでしまえば、
墜落の原因を知ることは出来ない
でしょうが原因が分からないこと
と原因が無いことは全く異なります。
エンジンが
故障したとか、乱気流に巻き込まれた
とか必ず何か原因があります。
この世のこと全てどんな小さな
ことにも必ず原因があります。
中には、
殆どの人が関心を持たないどうでも
良いこともありますが、私達が最も
知りたいと思えるのは
自分の将来の運命とその原因でしょう。
それさえ分かれば、未来の運命を
よいものにすることができるからです。
その運命の原因と結果の関係を
教えられたのが仏教のありがとうです。
「行い」が「運命」を生み出す
私たちの運命と、
その原因にどのような関係があるのか。
仏教では、こう教えられています。
善因善果 悪因悪果 自因自果
「善因善果、悪因悪果」とは、
「善いタネを蒔けば善い結果が現れる。
悪いタネを蒔けば悪い結果が現れる」
と言うことです。
お釈迦さまが「因」と言れているのは、
私たちの「行い」のこと。
「果」とは「運命」のことですから、
善い行いは善い運命=幸福を、
悪い行いは悪い運命=不幸を生み出す。
善いことをして悪い運命が引き起こる
こともなければ、悪いことをしたのに、
善い運命が現れることもない。
ですから苦しみを逃れるには、
悪い行いをやめ、幸せになるには、
善い行いをすればいいのです。
成功も失敗も総て「自業自得」
最後の「自因自果」とは、
「蒔かぬ種は生えぬ。
刈り取らねばならぬ一切は、
自分の蒔いたものばかり」と言うこと。
いつまでも寝ていたいのに
、起きて仕事に出掛けるのは、
自分が働けばそれだけ収入が得られるし、
サボればクビになるからでしょう。
蒔いたタネは必ず自分に現れます。
これを「自業自得」とも言います。
世間で「それは自業自得だ」と言えば、
悪い結果にばかり使われますが本来は、
そうではありません。
善いことにも悪いことにも「自業自得」
と言えるのです。善いのも悪いのも、
自分に現れる運命は全て自業自得です。
100%自分の行為が生み出したもので、
それには万に一つも例外はないのだと、
お釈迦さまは教えられています。
ですから、
もし悪い結果が起きたならそこに
それ相応のタネまきがあったからです。
悪いことを人のせいにしていても何も
変わりませんが悪い結果を引き起こした
自分の行いを反省してそれを改善すれば、
必ず結果はよくなるのです。
仏教というと、
雨にも負けず、風にも負けず、何か悪い
ことが起きても、何も反応せずに静かに
笑っているイメージがあります。
不幸や災難をひたすら耐え忍ぶのみの、
諦め主義のように誤解されがちですが、
アキラメルとは、本来仏教から出た言葉。
初めに述べたように
「諦観」と書いてアキラカニミルと読み、
“因果の道理を明らかに見よ”と言うこと。
自業自得の因果の道理を諦観すれば、
自分の悪い行いを反省し改善しますから、
無限に進歩向上できるのです。
心で思うことも「行い」!?
運命は自分の行いが生み出すもの、
とお話ししました。
「行い」と聞くと
一般的に身体を動かしたり口で言う
ことと思いますが、それだけでなく、
心で思うことも行いと仏教で教えられます。
身体の行いを「身業」、
口の行いを「口業」、
そして心の行いを「意業」と言い、
これを「三業」と言われています。
特に心の行い(意業)を重視します。
なぜなら言ったり、やったりと言う
口や身体を動かすのは心だからです。
心掛けを変えると身体や口の行いが
変わるのは心が元だからです。
心掛けをほんの少し変え、
実行することで毎日が変わります。
心が変われば、人生が変わる
私たちの日常生活の中でも、
これは実感できることでしょう。
アメリカ出身の心理学者で哲学者
でもあるウィリアム・ジェームズ
は次の言葉を残しています。
「心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる」
これは私見で下図の意と解します。
心掛けの変化は、
必ず行動に表れ、善い行動の積み重ねは、
やがて習慣化し人格となり滲み出て来る。
人格が変われば、
その人の人生は全く新しいものに生まれ
変わることでしょう。
「ネタミ」と「感謝」
心のタネまきの差で運命は大違い
心掛けの大切さは、
スポーツ界の話題の中にも見られます。
2017年、
カヌーの日本選手権で優勝した選手が、
ドーピング検査で陽性反応が出て資格
停止処分を受ける問題が起きた。
ところがその後処分を受けた選手の飲物
の中に他の選手が禁止薬物を混入させて
いたことが発覚しました。
今度は、
この選手が8年間の資格停止処分を
受けることになりました。
「東京オリンピックに出場出来ない
かもしれないという焦り」から、
ライバルを引きずり下ろしたいと言う、
ネタミ、ソネミの心のタネまきが結局、
自らの不幸な結果を生んでしまいました。
一方、
2017年2月に行われた平昌オリンピック
のスピードスケートで、金・銀のメダル
を分かち合った、小平奈緒選手と韓国の
イ・サンファ選手は、猛烈なライバル
意識を持ちながら互いに尊敬し合っていた。
小平選手は
「サンファはいつも親切です。
3年前、ソウルのワールドカップで
私が初優勝した時悔しいはずなのに、
飛行機の出発が迫る中、リンクから
空港までのタクシーを呼んでくれ、
お金も出してくれた。
それがすごくうれしかった」と言い、
イ・サンファ選手も
「彼女とレースをして悪い気持ち
になったことは一度もない。
彼女のライバルであることを誇りに思う」
と話しています。
ライバルを邪魔者と見てネタむか、
向上させてくれる恩人と見て感謝の心で
努力をするか。
心のタネまきによって、
その人に現れる結果、いわゆる運命も
180度変わってしまうのです。
家庭や職場から変えよう
何事も実行なしでは、結果は現れません。
では、私たちは、どんなことから始めたら
いいのでしょうか❓
まず、身近なことから着手してみては。
例えば、家族に対し、家族と永年一緒
に居ると〇〇してくれて当たり前となり
これが家庭不和の元でもあります。
「夫は給料を運んで当たり前」
「妻は食事を作って当たり前」……。
でも、そんな時、
「〇〇してくれてありがとう」と、
心のタネまきを変えてみては!
日常のささいな出来事にも喜びを
感じられるようになります。
職場でも部下に対し、
〇〇の仕事をしてくれてありがとう。
上司には
「忙しい中、〇〇をして下さって
ありがとうございます」などと言う
心のタネまきを変えると人間関係も
スムーズになり仕事も順調に進みます。
「面と向かっては、伝えにくい」
という人は、「間接的に伝える」
という方法もあります。
会社の食堂や休憩室などで同僚と
会話をしている時、
「〇〇さんは、厳しいことも言うけれど、
仕事をきっちりする人だよね」などと、
その場にいない人を大いに褒めるのです。
うわさ話は回り回って必ずその人の耳に。
相手からの印象はグッとよくなります。
但し、心底から褒めることが大切です。
小さなタネと軽く見てはいけません。
1粒のモミ種から出る芽は1本でも、
枝分かれして何百もの実をつけます。
実行が未来を大きく変えるのです。
誰も見ていない種蒔きでも運命は変わるの❓
さて、ここまでの話を読んでこんな疑問
を持つ人もあるのではないでしょうか。
「確かに、心のタネまきは大切だろう。
でも誰も見ていないところでコツコツ
と種蒔きしていても結果は来るのだろうか?」
「正直者は馬鹿を見る、とも言うし」
確かに、
人知れずタネまきを続けることは
決して容易ではありません。
だからこそ何事も続かずに、
挫折する人が多いのでしょう。
「どうせ私なんか、何をやっても」
と諦めてしまうのです。
では、お釈迦さまは、
私たちのこんな疑問に、
どう答えられているのでしょうか❓
行いは消えない
「私たちの行い「業」は、
決して消えることはないよ。
残って未来の運命を生み出していくのだ。
だから、他人が見ていようと見ていまいと、
善いタネまきを続けていくことが大切なのだ」
と教えられているのです。
『あれを見よ みやまの桜
咲きにけり 真心つくせ
人しらずとも』
という古歌もあります。
因果の道理を明らかに見ることで、
諦めの人生に別れを告げて元気な
アキラメない心を手に入れられます。