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空気を読みすぎる日本人【21世紀でも色褪せない「菊と刀」】

今日の日本では、“空気”なるものが絶対的な権威をもっている。

「air」ではなく「between the lines(行間)」と訳される方の“空気”である。

KY(空気が読めないこと、もう死語だろうか)という言葉も流行したが、日本ならではの現象であるように思われる。


なぜこのような実態となっているかについては、ルース・ベネディクトが「菊と刀」で1946年に指摘している。

曰く、西洋人は自らの行動を何が悪いことなのかという「罪の意識」によって制御しているが、日本人は何が悪いかではなく、他人からどう見られるかという「恥の意識」によって制御しているというのだ。

日本人の集団主義的な同調意識が、「空気」なるものを神格化しているということである。

コロナ化における、マスクの着用やワクチンの接種を促した要因として、コロナウイルスに感染したくないということ以上に「世間の目」が大きかったことも、氏の洞察が色褪せていないことを感じさせられる。


蛙は何匹?

日本人の空気・行間が読めすぎるエピソードは枚挙に暇がない。

次の英文を見ていただきたい。

Old pond — frogs jumped in — sound of water.

Patrick Lafcadio Hearn

何を表しているかおわかりだろうか。

こちらは芭蕉の句「古池や 蛙飛び込む 水の音」をラフカディオ・ハーン(日本帰化名:小泉八雲)が英訳したものである。

しかし、この英訳には日本人の多くが違和感を抱くであろう表現が登場している。

そう、“frogs”である。

もちろん様々な解釈が可能であり、そこが俳句の良さでもあるのだが、おそらく日本人の中では一匹の蛙が池に飛び込む姿を想像する人が多いと思われる。

原文には蛙が何匹かなど一言も書かれていないのに

いかに日本人の間で空気・行間なるものの共有性が高いかを実感させられる。


粋と野暮の対立

日本人の美徳とする“曖昧さ”は、個々の空気を読む力、そして空気を読むことへの同調意識などを根底として許容されていると思われるが、入試評論、とりわけ比較文化論でこのことについて論じられることが多い。

ものをはっきりという欧米人に対して、“粋”を美徳としあえてはっきり表現しない日本人という構図だ。


たとえばジブリ作品「天空の城ラピュタ」に次のようなワンシーンがある。

軍隊に捕まっていたパズーが解放された後に帰宅すると、ドーラ率いる海賊たちが家を占領している。

そんなドーラに、飛行石を奪ってシータを助けたいパズーが、協力を仰ぐために仲間に入れてもらう場面だ。

「おばさん、僕を仲間に入れてくれないか。シータを……助けたいんだ。」

このセリフは次のように英訳されている。

「Dola, please let me come along with you.
Sheeta means everything to me(シータは僕のすべてなんだ).

驚愕である。

瞠目結舌を禁じ得ない。

明言されていなかったものの、シータに対して恋心が芽生えていることに、視聴者は気付ける。

出会って間もないシータに対する粋でいなせな彼の行動は、我々視聴者の心を打つ。


しかし“僕のすべて”とまで言われてしまうと、もはや10代前半の少年が抱いたほのかな恋どころの騒ぎではない。

しかし、このような翻訳に見られる二項対立は、日本と欧米の表現における明示性の差異がはっきり見て取れる。


ちなみに入試小説において、恋愛をテーマにしたものが出題されるときは、淡い恋の物語が採用される場合が多い。

中学生向けの入試小説で、ドロドロの三角関係などが描かれていても困るのだが……。


空気を読みすぎるな

話を戻そう。

曖昧さが美徳とされ、空気や行間を読むことが高度に求められる現代日本。

それは良い部分でも悪い部分でもあるのだが、周りに気を遣いすぎる子に関してはもう少し他人にどう見られるかより自分がどう生きるかを大事にしたほうが良いのではないかとも思う。

授業ではもっとズケズケと発言してほしいし、先生は今忙しそうだなどと思わず、どんどん質問にも来てほしい。

もちろん我々としても、そういうことがしやすい雰囲気づくりをこれからも大切にしていきたい。


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