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『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』、2022年5月29日(日)に第三十四回東京文フリにて販売!

 日頃よりプロジェクト・メタフィジカをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。代表の宮﨑です。ブログ更新が滞りがちですが、リリースの度に皆様に読んでいただけている感触があり、運営としても大いにやりがいを感じております。今後もどうかよろしくお願いいたします。

 さて、来たる5月29日(日)、第三十四回文学フリマ東京テ-02にてプロジェクト・メタフィジカは初の同人誌『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』を発売します。本記事は、当同人誌の販促も兼ねた購入にあたってのガイドラインとなります。この記事を読んでいただき、購入の決め手になれば作り手としてこれほど幸いなこともありません。是非最後までお目をお通しいただければと存じます。

特異なpolitiqueの相のもとに――「まえがきに代えて」のまえに

 『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』では、意図的にテーマやスローガンなどを設定しませんでした。書き手にのびのび書いてもらいたいという思いや、多くの読み手にリーチする問題設定を練るにはもう少し時間が必要ということで、オムニバス色を強めに打ち出し「出し物」としての面白さを各々の書き手には要求しました。結果として、アニメ、Vtuber、落語、漫画、ジュブナイルポルノ、ファッションとかなり散らかり目に見えるラインナップが誌面を埋めることになりました。
 ところが、いざ出来上がったものを見てみると、ある一筋の線がこの150頁に引けることが分かります。それは即ち、政治ポリティクスです。奇しくも我々は、第一号にして特異かつ特殊な「政治」の圏域の中でカウンターカルチャーという具体から批評という抽象へ、そしてまた抽象から具体へという反復運動において共振していたのだということが明らかになりました。かなりハードボイルドな政体論からアニメの女の子同士の関係性の読み替えまで、『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』はかなり意味を広く取って(概ねの)一貫性をもって「政治」の周りをメリーゴーランドのように回ります。そのコアに対して近づいたり離れたり、追ったり追われたりの駆け引きを皆様には楽しんでいただけるでしょう。雑駁かつ編集長とはいえ多少の色眼鏡を免れない私からではございますが、順不同で「政治」という軸から眺めやった本誌の記事についてささやかながらプレゼンをしたいと思います。もちろん、これは私の主観なので、皆様の楽しみ方がどのようなものだったのかについては是非メタフィジカのTwitterかメールまでご感想を寄せていただけると今後の活動の励みになりますので「こんな読み方がある!」「この記事はここがいい!/ここがわからない!」などの御意見をお待ちしております(余談にしては長くなりそうなので簡潔に。メタフィジカの今回の記事の並びは作為的なものですが、ユーザーに合わせて自由に読む順番を変えることで印象がパズルのように組み替わるものにもなっています。お手元に届いた際は「まえがきに代えて」をとりあえず読み終えたら、頭からと言わず食いつきの良さそうなものから順番を変えて読むのも一興かと思われます)。

 本誌の方向性を単なるオタクの断末魔にも、あるいはアカデミシャン崩れの退廃にもしなかった硬派かつ手ごたえのあるテクストとして筆頭に挙げたいのは倉井斎指「やさしいせかいのポリティクス――党、カードキャプターさくら、愛」でしょう。言わずと知れた(と言っても、私はCLAMP作品は『×××HOLiC』に幼い頃耽溺していた思い出があるのみですが)『カードキャプターさくら』のアニメ版ではなく漫画版を軸に、シュミット、ムフなどの道具立てを柄谷-東直系の切れ味とスマートさで処理してみせた快刀乱麻の論考です。『カードキャプターさくら』で描かれる「はにゃ~ん」や「絶対だいじょうぶだよ」がどのような機制で、どのようなシステムでアウトプットされているのかについて倉井が切るカードは「大きな/小さな物語:〈党〉」の対比であり、シュミットから発し、宇野常寛、ムフを迂回してシュミットに回帰する「決断」としての「愛」です。あまりにも使い古された「大きな物語の喪失」は、なんらかの正統性やヘゲモニーに基づいて対立し、「殲滅戦」を演じ、やがて「小さな物語」に自閉してしまう。この(宇野常寛が言うような)「バトル・ロワイヤル」にあたって、『さくら』が見せる「やさしいせかいのポリティクス」とは一体なんなのでしょう?倉井の文章は怜悧かつシャープで、どこか人を寄せ付けない厳しさがありますが、この肌触りのおかげで『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』にアクセントがついた気がしています。また、冒頭の一発目を担当したのは北村公人「外套さについて」ですが、ただの精神分析とファッションの折衷と侮るなかれ。北村が「外套=ペニス/クリトリスの包皮」というテーマについて語ることは、モードの存在論、ないしは性愛のポリティクス。フロイト以来とかく問題にされてきた――そしてそれは良かったのか悪かったのか、ラカンで決定的になってしまった――精神分析における「欠如」の問題を「存在」によってその玉座を奪還することができないか?という精神分析のオイディプスに果敢に挑もうという挑戦なのです。そしてファッションもまた、レディースのオートクチュール(リアルクローズももちろん問題ではありますが)こそ至高であり、メンズラインについては「ひとり勝ち」の鷲田清一でさえ沈黙してしまうという状況においてはメンズラインが問題になります。北村は本稿で「男性のファッション」について、結論を宙づりにします。ファッションに興味がある方も精神分析に興味がある方も面白く読める、親しみやすい文体で描かれた秀逸な論考です。
 続いて紹介したいのはくこ「『萌え』を拒絶する《天皇》の御真影――皇族の恥部、あるいはシンタクスからの逃走」です。ここで行われている操作は、「天皇」を(あえてこう書きます)おとしめる、、、、、ようなジュブナイルポルノ『高貴なお嬢様を片っ端から孕ませたら、どうなるか?』をさらに渡部直己の『不敬文学論序説』で解釈するというキワモノじみたものですが、文体・内容ともに堅実。保守派、革新派と(右、左でもいいのですが)呼ばれるようなものの中に、喉につかえた小骨のように存在する「天皇」という象徴について、三島由紀夫やデリダと対談する中上健次などを引用してコラージュ的に再構築していきます。時事的にも記憶に新しい眞子内親王と小室圭氏の結婚にも触れられ、「現人神」であった天皇の力能を今信じることができるとしたら、ジュブナイルポルノの「萌え」キャラクターであり、あるいは阿部和重の小説に出てくるトキ、なのでしょうか?特殊な注の構成まで丁寧に読んでいただきたい一本です。また、ジュブナイルポルノ(エロラノベ)よりかは人口に膾炙しているものの、解釈が煮詰まりつつあるアニメに関しては手前味噌ですが宮﨑悠暢「肯定へ向かう反復、はじまりをはじめること――ルソー、オタク、『キルミーベイベー』」が終わりから二番目の記事に配置されています。ある程度の年齢のジャンル問わずの「オタク」には、問題意識として(そして本文で一番最初に明示する主題として)、「オタクとは何か?」というものがあります。しかし(どう考えても)回答不可能な問いに溺死することを避けるべく、東浩紀らは「遠く離れる」ことを選択するのでした。このニヒリズム≒シニシズムに対抗する案に私が選んだのは、アニメ『キルミーベイベー』とジャン=ジャック・ルソー『人間不平等起源論』です。『キルミー』におけるオプティミズムと反復の律動が、ルソーの「負の弁証法」の螺旋運動と交差し離れていく様を出来る限りネチネチと描きました。つまり、書き手が示す態度表明は、ニヒルでなくアイロニーによってオタクコンテンツと「メタにベタ」で接することが可能なのではないか?というものです。やすなとソーニャが土手でジュースを飲むシーンに、我々はやがて友愛のポリティクスを見るでしょう。はっきり言ってルソー研究者が読んだら泡を吹いて倒れるくらい「間違った」解釈を展開していますが、確実に面白い論考になったと自負しています。
 久我宗綱「落語から考える人間の心~a little~」は本誌の中でも際立って遊撃的な役割を果たしています。軽妙な語り口調であれよあれよと落語の構造がデネット、ハーレーらの唱えるメンタルスペース理論と重ね合わせられていく鮮やかな手つきには、「あれ?心の哲学って落語のための理論だったっけ?」と思わず一杯食わせられてしまうこと請け合いでしょう。「緊張と緩和」という、それだけだとぼんやりとしてしまうであろう桂枝雀の論理がプラグマティックに読み手に感覚として伝わり解き明かされていく手腕は久我の本業である作家業(「「アブデエル記」断片」はヤバいので、未読の諸兄におかれては『異常論文』を購入し今すぐに読むこと!)ならではのテクニシャンぶりをうかがわせます。ヨーロッパ哲学とは一味も二味も違った粋な一席をどうぞご堪能あれ。さて、ある特異なポリティクスの相のもとに歩みを進めてきた私たちを最後に迎え入れるのは、現役VTuberマルドロールちゃんによる怪物的論考「模像の消尽のためのエスキス」です。本人が掲げる「無意味な生の賦活」としての「愚劣のポリティクス」として示されるのは、ある一定数のオタクが愚かにも蕩尽してきた「批評」ないしエピタフとしての「ゼロ年代」からの逃走、そして彷徨の先に辿り着いたVTuberという変容する生の諸相です。一方で、マルドロールちゃんの論考は千葉雅也と東浩紀を起点とし、本田透と更科修一郎の軸を見据えながらオタクが映しこみ/オタクが写し絵を見るものであるところの「オタク論≒ゼロ年代批評」の最良の(かつ、恣意的な)モノグラフィでもあり得るでしょう。この「ゼロ年代批評」の内部におけるオタク同士の嘲笑という倒錯は、やがて週50本を越えて深夜アニメを視聴する特異な「愚劣」を形成します。オタクがオタクを追いかけては自滅する「最悪の愚鈍」と「最悪の愚劣」のいたちごっこ=クロソウスキー的悪循環のポリティクスに、果たして終止符は打たれるのでしょうか?本誌の中でも最大のヴォリューム(約3万字)を誇るマルドロールちゃんの論考を読み終えたならば、あなたのオタクを巡る認識は一変する(それが変わった結果、オタクを唾棄するようなものであろうとも)ことを約束します。また、倉井の宇野、宮﨑の東といったゼロ年代批評への一瞥を回収するという意味でもマルドロールちゃんの論考は機能的な美を本誌にもたらしてくれています。

 以上、総勢6名の執筆陣による『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』のごく簡単なレヴューになります。優秀なテクストというものは「いっちょ噛み」をしたくなるものだというのは巷間言われるところですが(本当か?)、ここに上がっているテクストはどれも読み終えたら何かを言わずにはおれないものであるというほどには個性的で、うち一本はあなたの心を必ず撃ち抜くものだと編集長として太鼓判を押したいと思います。また、表紙イラストのmanpowerspot、ロゴデザインの及川珠貴、表紙デザイン・組版の鯉沼恵一らヴィジュアル陣の装丁にも要注目です。この「信号機を持った天使」とはなんのことなのか?その謎は、「まえがきに代えて――ツインテール美少女は革命の夢を見るか?」にて真相をご確認ください。
 また、『PROJEKT METAPHYSICA Vol.1』は文フリに加えてbooth・手売りでも販売致します。boothでの発売は下記ホームページから6/29(水)以降の発売になります。手売りについての詳細はプロジェクト・メタフィジカ公式Twitterにて随時情報を更新いたします。


 それでは、皆さん東京文フリにてお会いしましょう。いざ、メタフィジカ!

(文責:宮﨑悠暢

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