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復讐、永遠回帰:「アイドルでシコる」ことについてのベルサーニ/ニーチェ解釈

Opening Chapter. 私共はアイドルと哲学が並はずれて好きなのであります

 私共はアイドルが並はずれて好きなのであります。
 私共は哲学が並はずれて好きなのであります。

 これは、アイドルと哲学についての論考です。

 アルチュセールは、自身の文学博士号口頭発表「アミアンの口頭弁論」において、ヘーゲルの弁証法の「万能」について、「メシア的観念論か批判主義観念論に導く弁証法の誘惑、若きルカーチ以来の、それどころか新旧のヘーゲル青年派以来の叛逆する知識人たちに取り付く、この誘惑」 (1)といささか皮肉な調子で述べる。旧きマルクス主義に蔓延する(誤った)観念論の呪縛の「誘惑」を断ち切ることのできた「ヨーロッパ人」――これは地理的な民族の差異を意味しない。「名誉」などという醜い名前で白人を名乗ることを許されない、と言ってしまったら、それは我々が西洋哲学を「吸って吐く」極東のアジア人として「許されざる」欺瞞であろう――は、1968年というディケイド以降においていないと言えるかどうかは、果たして疑問である。アルチュセールの批判の槍玉に上がるルカーチは、「具体的なもの」という観念的なテーゼの導出の機制を、いかにもしかつめらしい(マルクスが『ドイツ・イデオロギー』冒頭でこき下ろしたヘーゲル青年派のヴァリアントらしく)調子でこう書く。

だが、その科学の誤りは、経験的・歴史的な個体のうちに(…)、そして個体の経験的に与えられた(…)意識のなかに、歴史的な出来事のもつあの具体的なものを見つけようとかんがえている点にある。ところが、それがもっとも具体的なものを発見したと信じている場合にも、実は、まさにそういうものを見うしなっているのである。(2)

ルカーチの陥穽は、「具体的なもの」の導出プロセスを「経験的」な個体のうちに求めるルートを潰し、「具体的全体性」としてaを還元する« A »を措定してしまっている点にある。ルカーチは、この具体的全体性に存する矛盾、アルチュセールがルカーチと比して残酷なまでにクリアにしてしまった矛盾の問題をヘーゲルの「意識」の問題に結びつけた「階級意識」という術語で結び付けた。あえて言ってしまえば哲学者として「未熟」だったルカーチと、鋭い哲学の才能の光を放ったアルチュセールの共通点はマルクス主義者だった(厳密に言えばルカーチはレーニン主義を経由していないのでマルクス主義者という点さえも一致しないのであるが)ということだが、いずれにせよ彼らは社会における矛盾、搾取、階級を問題にしていた。

 我々が直面しているにもかかわらず目を伏せていた事実が、哲学とアイドルの狭間に口を開ける裂開として今現れる。それは即ち、コードと文法だ。「語り」の問題について、我々――とあえて言ってしまおう――「アイドル学」の徒であり「哲学オタク」は間違ったやり方で「つねにすでに」自明なものとして扱うことによって等閑視してきた。「哲学オタク」は言語を身体化している。カントやヘーゲル、デリダやドゥルーズ、本稿で扱うフロイトやニーチェでもいいが、ともかく彼らの語彙を「オタク」は手足を動かすように用いる。デリダ「推し」が脱構築と、ヘーゲル「推し」が(まさしく上に挙げたルカーチのように)弁証法と言うとき、彼らはもはや言語を扱う人間存在ではなく二足歩行するファルスである。「アイドル学」履修者が物々しく「現場という饗宴」などと言うときと同じく、アイドルと哲学のフェティッシュな愛好家は全身というファルスでまさしく射精する。しかし、「気持ちいいから、気持ちいい」というA=Aの同一律で終わるほど射精とは単純な出来事なのだろうか?アイドルオタクが推し、担当の画像をスマートフォンで表示しながらペニスを利き手で握りしめ、手の中に子種を放つ瞬間、哲学研究者(3)が解明できなかった一文の解釈に成功し思わず快哉を叫ぶ瞬間、「ああ、アイドルオタクで/哲学者で、よかった!」と思う瞬間をベルクソンよろしく「分割不可能なもの」とすることは、ルカーチの誤謬から何も学んでいないと言うべきだろう。これは以下のように定式化可能である。即ち、アイドルでオナニーする/哲学書にかじりつくという構造的かつ還元不能な特異性の問題を、恋や「知性」といった具体的全体性に置換してしまうことにルカーチ的「オタク」の悲劇がある。
 これを踏まえた上であらためて哲学に戻ろう。哲学を含む人文知は、階級意識を排除した上で成り立ちうるだろうか。文学はどうだろう。「詩は万人によって作られなければならない」。確かに、ロートレアモンは正鵠を射ている。では、詩ではなく哲学は、階級意識の問題から解放されてその営みを為すことは可能だろうか。ここで、我々の立場を今明らかにしておこう。そうでなくては、哲学が峻別するところの「独自の対象(「イデア全体存在真理、すべての認識またはすべての行動のアプリオリな条件、起源、意味、存在者の存在」 )(4)」が独自たる所以を持たないであろう。哲学は万人によっては書かれない。それをある種のエリート主義と捉える向きもあるだろうが、残念ながら書こうとしない者、読もうとしない者にそれは開かれないというだけの話であって、それ以上でもそれ以下でもない。書き、読む者、すなわち一般的な意味で解されるところのものではない知性を持つ者すべてに、哲学は開かれる。アルチュセールに倣って言えば、哲学とは「コードと文法をめぐる階級闘争」なのだ。資本主義におけるコード、資本主義的女性消費としてのアイドルにおけるコード、それらを統合する文法としての哲学を操る技法を身につける訓練は、全ての知的階級(「アイドルでシコるだけの無産階級」でさえも含まれる)が習得する権利を持っている。
 アイドルのコードと哲学の文法におけるコンフリクトの鍵を握るのは、つまり、既に示した階級の問題とこれから示す倫理の問題である。

 天井に貼ってあるAKB48の柏木由紀のポスターを見ながらペニスを愛撫、フロイト言うところの完全なる去勢コンプレックス(5)によるノイローゼ予備軍と化していた13歳のあの日々。「遠距離ポスター」(6)にしてはあまりにも悪趣味でグロテスクな光景だが、アイドルで自慰することを自明視しつつ隠蔽することは、所作としてあまりにも美意識がなく、そして隠蔽することで皆よしとしている。Chapter.1以降で取り扱う、主に香月孝史に見られる2010年代前半の「アイドル論客」になかった視座こそ、「ポルノグラフィとしてのアイドル」=「キモいオタク」像だったわけだ。いや、少し待とう。「ポルノグラフィ」そのものが「倫理的に」――内面化されたカンティアンでもない限りポルノグラフィの倫理的妥当性など、表象に留まる限りにおいて不可能ではなくとも無意味なのだが――「ただしく」「わるい」(「と言わなければならない」)とされてしまっている現状、いかにして「ポルノグラフィとしてのアイドル」像を避けつつアイドルに「精液をぶちまけられるか」、これが課題となる。先に批判したところで念頭に置いている「ポルノグラフィにおける倫理的問題」を一定の形で提出したものに難波優輝(2020)(7) がある。難波は、ポルノグラフィの倫理において鑑賞者と制作者、あるいはその両方の視座から「かくかくの問題がある」という形でこと挙げすることによってポルノの持つ多面的な性質を回避しようとしているかに見える。例えば、「2-2 鑑賞者」において、「あるポルノグラフィ作品」が制作者の「意図に沿った鑑賞を行う鑑賞者の信念に少なくともポジティブな影響を与えうるためにポジティブな倫理的価値」を持つと仮定する。しかし、「あるひとびとがこの作品の特定のシーンだけに注目したり、そのひとびとが好むしかたで鑑賞することで、女性の不平等な扱いを受けるようなしかたで作品を鑑賞」(8)した際の「倫理的問題」の帰責を問われるのは鑑賞者であるとするのである。倫理を道徳(moral)の問題として考えるならば、難波の持つ「しらみつぶし」的なポルノグラフィの「制作者」「鑑賞者」「制作者と鑑賞者」間の影響の問題に対してニーチェをぶつけることができる。

私には道徳を説く気などすこしもない、だが道徳を説く連中に対しては次のように忠告する。――もし君たちが、最善の事物や状態から結局その栄誉と価値のことごとくを奪い去ろうという所存ならば、これまで通りにそれを説教しつづけるがいい!(…)君たちがそんな風にやれば、これら一切の善き事物はそれによってついに通俗性と巷間の風評を貰い受けることになるだろう。だがそのときには、事物に附着した黄金もすっかり擦り損じてしまうだろう、いや、もっとひどいことには、その中にある黄金もすべて鉛に変わってしまうであろう。(9)

難波を「道徳を説く連中」であるとするつもりはないが(そもそもそういう論文ではない)、ポルノグラフィを見たことによって鑑賞者や制作者に倫理的影響が出た場合についてポルノグラフィの制作者や鑑賞者に「倫理的問題」を帰責する人間がいれば、彼はポルノグラフィ(もしくは鑑賞者によってポルノグラフィに「されて」しまう媒体)の持つ「事物に附着した黄金」、見た/感じただけで思わず射精してしまうような本能を撹乱する「SEX」の暗い輝きに嘘をついていることになる(10)。アイドルの水着グラビアや二次元アイドルの一枚絵でペニスを握りしめるときに「倫理的問題」はあなたにあるのだ、と言われてしまったら、我々アイドルでオナニーするものどもはこう返す、「あなた」は、オナニーすることによって生じる責任や「倫理的問題」から逃げ、黄金を飲み下すことを恐れているだけである、と。

 結局のところ、特異な欲望を持ってしまった我々――それは本の虫でも構わないし、哲学徒でも構わないし、アイドルオタクでも構わないし、グルーピーでも、もはや、なんでも――は、その特異な欲望が構造=言語の領域において思考されるべきこと(少なくとも、還元不能なものの手前で)なのだと分かっていたはずなのにやってこなかった。これは、先人たちの負の遺産でもある。「来たるべきもの」はやってこないし、「裂けめ」の奥に何があるかということについて迂回するばかりで、待ちのぞむことを「それでよい」とすることによって哲学は奇妙で邪魔なオブセッションに付きまとわれることになった。
 構造と体系は閉じること―宙づりにすることのみをその構成要件とするのではないということが閑却されていることを、我々は「アイドルオナニー」問題において提出する。

Chapter.1 オタク?きっしょ……:性的倒錯と呪い、オーバーヒート

 我々がフロイトやニーチェを弄して(とあえて言ってしまおう、しかしここで読むことをやめてほしくはない)アイドルでオナニーするオタクの話をする前に、アイドルやオタクといった「現象」が「言うほど」自明のものなのか、一度立ち止まり/助走をつけることにしよう。今、サブカルチャーと名指されるものにたいする批評、分析、論考が多くある中で2010年代初期に大きな盛り上がりを見せた「アイドル批評」は、「アイドル」である必然性をもはや「つねにすでに」失っていた、ということに多くの人間は気づかず―気づいていないふりをして、新たなる批評の到来と言ってほぼ手放しに大喜びしていた。それは深夜アニメでも、Vtuberでも、エロゲでも、同じようなことがあった。「アイドル批評家」の香月孝史が引用する宇野常寛や濱野智志が犯していた致命的なミステイクは、「みんなアイドルが好きで当たり前だし、アイドルが好きに違いない。今アイドルを好きになっていない人々にこの素晴らしさを伝えなければ」と言わんばかりの無謬性にあったと言えるだろう。気の利いた引用をする気も失せる、なぜならば彼らは「アイドルはキリストを越えた」(11)と大真面目に言っていたのだから。であるならば、その彼らの失敗を踏み越えてなおアイドルについて何かを言わずにはおかない宿命のもとにある我々は、最初にこう言わなければなるまい。「私共は、アイドルと哲学が並はずれて好きなのであります」(12)と。アイドル/オタクをキャビネに迎え入れる前に、本章でささやかな彼女/彼らへのラブコールという名の「アイドル(オタク)批評」批判をしておこう。
 永田(2011)は、「おたく/オタク」という二人称の初出を1983年6月増刊号『漫画ブリッコ』における中森明夫の発言であるとする。「おたく」という呼称は、中森が『漫画ブリッコ』の中で「たとえば中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくらさぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」(13)と「キモイ」人々を揶揄する言葉として発明された。そこから、1989年の宮崎勤による幼女連続殺人事件により「おたく=オタク」は「性的倒錯」を示す「モラル・パニック」を引き起こした。永田は、宮崎の「部屋」――性的かつ猟奇的なビデオをコレクションする「危険な性的嗜好をもった殺人者」というパブリックイメージの植え付け――が与えた「オタク」たちへの社会的ショック現象について、以下のように分析する。

実際にはこの堆く積まれたビデオの中にはアダルトビデオや猟奇的なビデオなどが含まれてこそいたが、大半は通常のテレビ番組をとったものであったという[大塚 2004]。しかしこの部屋のビデオに関する表象はその是非はどうあれおたくという言葉にある負荷をかけることになった。そしてそのイメージはおそらく性的に粉飾した撮影のイメージがなかったとしても、「性的倒錯=おたく=ビデオ」というものを一本の線に結び付けてしまったのではないだろうか。(14)

いささか退屈な定義をするのであれば、「おたく/オタク」は「キモイ」「性的倒錯」者であることが最初から運命づけられていたということが永田の論考から看取される。永田の「オタク」はこの後アニメオタクへと網の目を伸ばしていくわけだが、これを踏まえればアイドルオタクにおいて「推しメンの女の子を『どうにかしたい』なんて、あり得ない!」という可視化されない、しかし確実に存在する「声」が、ただの「曲がった棒の反対の撓み」でしかないことは明らかである。「オタク」は最初から「キモイ」「性犯罪者」だったのだ。そしてそれは「いや、オレだけは違う」という反論を最初から全て無効化する――何故なら「キモくない」オタクは「オタク」ではないからだ。アイドルを初めて観たときに感じる「キラキラ」に、真っ白なものを見出したとき、あなたはそれを自分の手で汚す権利も同時に手渡されている。これを「ふむ、なるほど、こういうのもあるんですね」という風に思うのであれば、そこのあなたは幸いにも小さい女の子をペニスでいたぶる可能性を放棄することができている。
 ここで言う「女の子をいたぶるオタクのペニス」は、三次元のアイドルと握手するために100枚や200枚CDを購入することはもちろんとして、イマジナリー、二次元の「オンナノコ存在」をしかじかのシステムに組み入れたり排除したりする資本主義機能=「ビンタ用の札束」としても登場する。AKB48に始まる「選抜総選挙」の仕組みは江湖に知られているところであろうが、要するに「たくさんCDを買って票を入れる」というサバイバル性にその面白味とエグ味があった。香月孝史はこの「リアリティショー」性を宇野常寛の言うおニャン子クラブにおける「「素人っぽさ」などのリアリティによって舞台裏を「半分見せる」」手法の発展形としてAKB48は「生の姿を「ダダ漏れ」」させていると述べる(14)。香月が言うことには「リアリティショー」の仕掛けはアイドルの「素顔」を見出しやすくする機能があり、「アイドルのパーソナリティが露わになることが大きな訴求力」(16)があるらしい(17)。これと同じような形で、二次元の女の子=想像的な「オンナノコ存在」=非実在存在とでも言うべき「アイドル」たちに「金にモノを言わせて」出し抜き合いをさせるという「ゲーム」が大真面目に存在する。『アイドルマスターシンデレラガールズ』というソーシャルゲームにおける「シンデレラガール総選挙」がそれである。中尾暁は『アイドルマスター』シリーズのディレクションを務める石原章弘がAKB48をコンセプトにしたという『デレマス』について、「多額の課金をするほど多くの票数を入れられる」「プレイヤーを巻き込んだ、二次元アイドルたちの過酷な出世競争ゲームなのである」(18)といともたやすく言ってみせる。
 さて、一旦本章の最初に立ち戻ろう。「私共は、アイドルと哲学が並はずれて好きなのであります」とこの文章の筆者である私は書いた。たしかに、私はアイドルも哲学も愛している。だが、哲学はともかく、アイドルを好きでいれば、必ず「これは、よいことなのだろうか?」と思う瞬間が来る。そして、それをみななかったことにして「よい!」と踏み抜いてしまう。アイドル「オタク」が自らを「キモイ」存在であることを忘れてペニスを勃起させる。ステージの上の「女の子」だろうが、スマートフォンの奥の「オンナノコ存在」であろうが、我々「おたくらさぁ」=「オタク君さぁ」と呼び合う「キモイ」存在の性はあらかじめ倒錯したものとして表象されざるを得ないことはアイドルオタクはもちろんアニメやVtuberオタクにおいても閑却されている。「過酷な出世競争ゲームなのである」と言って「ガチャ」で票を入れさせることに疑問符の一つも示さなかったり、あるいはアイドルのドキュメンタリーで過呼吸を起こす女の子を見て「頑張ってるな……!」と涙を流したりする人々は、アイドルに呪われている。ニーチェが言うように(そして難波の倫理学的ポルノグラフィアプローチの意義を警句によって浮足立たせたように)、私は「道徳を説く者」になるつもりはない。その涙や10連ガチャ一発に「それは女の子のためにならないからやめ給え」と説く一方でアイドルで射精することには何の説得力もない。ただ、既に示した中尾も香月も、アイドルに呪われた人々である。「キモイ」「性的倒錯」者であることを忘却して、彼らはアイドルを「ピュアに」「批評する」ことのできるオーバーヒートの暴走特急と化す。
 しかしアイドルはアイドルについて語る者誰しもをただのアイロニーにおとしめさせてはくれない――私も所詮脱線寸前である。

Chapter.2 復讐するペニス:分析の放棄

 オナニーという行為、しかもアイドルでオナニーするという行為が自明でないことは既に見た。というより、あまりに自明すぎて人々はそれを隠蔽していたのであった。自慰行為ということについて、フロイトは去勢コンプレックス(19)という一種の恐怖に対する防衛として解釈した(「自らのペニスを守る」という意味における性的活動)。一方、アメリカの批評家、レオ・ベルサーニは「激情的なマスターベーション」において「防衛」としてのオナニーではなく母親と不倫する「ぼく」、父親から恋人を奪い去るエディプス・コンプレックスのヴァリアント(即ち変奏された「父殺し」)としてオナニーを解釈する(20)。
 ベルサーニの解釈のポイントをアイドルオタクの問題に位置ずらしするとすれば、オタクがオタク同士アイドルの「父親」であり「恋人」であるという点にある。例えば、主に三次元アイドルにおけるスキャンダルの問題において表面化する処女「信仰」―非処女「否認」の関係性を解釈の俎上に上げるとして、何故オタクは付き合えもしないアイドルが彼氏を作って「こんな思いをするのなら花や草になりたかった」(21)と言ってしまうのだろうか――しかも真剣に。三次元のアイドル(声優)オタクは、香月が言うところの「饗宴」としての「現場」でアイドルやオタクと交流する。Twitterで知り合ったオタクとライブが終わった後に初対面でも酒を飲み交わすこともあるし、握手会でアイドルにあだ名をつけてもらったりする。オタクとアイドルは、そのようにしてイデオロギーの相互再認を行うことにより遍在する〈父〉(自分以外のオタク、否認される「彼氏」)、母(優しくしてくれるアイドル)、子(オタクとしての自分)をその都度認識するに至る。故に子は他の誰かの〈父〉であり、〈父〉は子であることを忘れることが許されないという意味で、アイドルオタクはみな誰もが互いを定義する主体なのである――アルチュセールが「あなたと私は、つねにすでに主体であり、そしてそのようなものとして、われわれは、われわれがまさしく具体的で、個人的で、混同しえない、そして当然かけがえのない主体であることをわれわれに保証する」「イデオロギー的な再認の儀式」(22)を念頭において社会における科学的認識のイデオロギー内部を論じるとき、アイドルの「現場」をそのモデルケースにあてがうことはあまりに暴力的ではあるものの「科学」が「女の子」にすり替わっているだけであるという恐ろしい事実が示唆される。だから、オタクがライブ終わりに「〇〇さん、お互いの推しについて一杯やりながら熱く語りましょうよ!」と言うとき、オタクはお互いにファルスを持つ仲間であると共にそのものをちょん切られるリスクを常に背負っているのである。「繋がり」(オタクがアイドルと付き合うこと)、「私信」(ブログのコメントや握手会の発言に対してアイドルが自分だけにコメントをくれること)、「レス」(ライブで指差しをもらうこと)でオタクたちは出し抜き合いをする。訳の分からない売れない俳優や男性アイドルに「オレだけの」「推し」を取られてたまるかと必死になる。子=〈父〉のイデオロギー的再認構造で、オタクはオタクに「お前を殺す」と宣言したりしなかったりしながら果たしえない「父殺し」を画策するのである――これはベルサーニではなくフロイト正統のエディプス・コンプレックス。
 しかし、フロイトではなくベルサーニ流の「アイドルに恋するオタクの精神分析」はこうだ。残酷にも、子は〈父〉に敗北する。アイドルは「他の」オタクがプレゼントしたブランド物をインスタグラムにアップし、週刊誌に熱愛報道をすっぱ抜かれる。二次元アイドルであればソーシャルゲームのレアリティの高いカードの所持枚数や、グッズの販売レースに勝ち抜けるかという即物的かつ資本主義的な競争の様式がある。誰もが勝利し、誰もが敗北する。そのとき、オタク達はこう思う。「ぼくだけが、この子をこんなに愛しているのに……」と。そしてベルサーニの言うがごとく、「父親」よりももっと魅力的な「父親のコピー」としての「子」が行う復讐として「激情的なマスターベーション」は行われる。
 無論、「自分はアイドルでオナニーしない。アイドルを純粋な気持ちで応援しているからだ」という反論は予測できる。我々はそれに対して、「いや、本当は人には言えない下卑た欲望があるはずだ。プラトニックぶらず、自らの欲望に素直になるがよい」などと言うつもりは毛頭ない。さらに言えば、「最初からアイドルを性的な目で見ていて、そんなねじれが起こる余地もない」という向きも当然出てくるだろう。前者は、交換不可能な〈父〉である。復讐が不可能=アイドルで勃起しないという不能を抱えているということはアイドルを見る回路に「自慰」というノイズを挟むことなく欲望の供給ができているという時点で、子に復讐「される」だけの、そしてそれを復讐と気づかないまま――復讐されたことに気づくことができるのは復讐したことがある者のみである――アイドルに熱狂できる者である。後者についてはそもそも回路が存在せず、序章で示した「歩くファルス」である。ベルサーニは愛の条件において「傷つけられる第三者」、つまり復讐の対象としての〈父〉/のけ者にされる子の存在を「性的に劣った」(かわいそうな)女性を中心として構造化する。そしてアイドルで泣きながら射精するオタク達、つまりこの論考の射程として見られるオタク達は「傷つけられる第三者」であると共に「傷つく対象/原因」として愛を享楽する。

必然的に、我々が研究している恋人は、傷つく対象であると同時に、傷つく原因でもある。実際、フロイトが強調しているように、この種の対象選択に必要な嫉妬は、「愛する者の合法的な所有者」ではなく、これらすべての他者に向けられている。恋人も夫も、いわば傷ついた者の側にいるのである。女性にとって欲望の対象を増やすことが必要なだけでなく、恋人自身もこのような情熱的な愛着を「同じ特徴を持って......何度も何度も」繰り返すのだとフロイトは述べている。(中略)対象の選択は、恋人と愛される側の不貞行為の練習であり、女性は同時に多くの恋人と不貞行為を行うかもしれないが、男性はいくつかの情熱的な愛着を次々と持つかもしれない。(23)

ここでベルサーニの引用するフロイトで注目したいのは、「嫉妬」や反復強迫的な愛着が「これらすべての他者」に向けられているという点である。アイドルは多くに愛されなければ意味がないし、オタクは多くのオタクを相手取って常にくるくると交換される欲望の闘いに身を投じてかつ負けなければいけない。これはChapter.1において香月をはじめとする論客が「ダダ漏れ」の動画配信やドキュメンタリー映画におけるアイドル表象に関わってくる点であるが、アイドルにおける(ヘテロコミュニケーションにおける)「接触」の特権性にこの敗北の議論は関係してくる。王としての〈父〉=イケてるやつ、子=イケてない僕、ではファンタスムの問題において「アイドルでオナニー」することと「クラスの好きな女の子でオナニー」するのでは違いがない。例えば、「売れない俳優が推しメンと付き合う/他のオタクがプレゼントしたハイブランドバッグをインスタグラムにアップする」ことは、何故屈辱的なのかと言えば、「ダダ漏れ」ていたはずの「あの子=推しメン」が「漏らしていなかった」こと=「普通の女の子」が判明となる瞬間だからである。アイドルは握手会などで「君が私の一番のファンなんだよ」と香月言うところの「送り手と受け手の往還」によってオタクを増やすものなので、商品としてのアイドルはそもそも多面体である。「クラスのあの子」が多面体であるという事実は当たり前であるはずなのに(無論主観と客観が一致してしまっている場合もあるが)、アイドルにおいてはついぞ特有のパースペクティブ(「オレだけがこの子を分かっているんだ」)を持っていることが現代アイドルにおける「ダダ漏れ」現象から錯視を起こすという事態が発生する。この錯視現象は「ダダ漏れ」がメディアやステージを介さず現前している「クラスのあの子」では表面化しない問題である(無論そこでも錯視は存在するが、ここでは置いておく)。オタクがアイドルでオナニーするということは、一つの「負け惜しみ」であり「死に際の一刺し」である。冒頭のポルノグラフィを巡る道徳と反-道徳を今一度思い起こそう。オナニーに道徳の介在する余地があるかどうかという議論をすること、即ちポルノグラフィが「よい」「わるい」かどうかをペニスに聞く以前に、ペニスはいやおうなく勃起する。それはオタクの再認構造を前提とした上で行われる、フロイト的エディプスとは異なった形で行われる「父殺し」としての復讐なのである。
 我々はオタクの分析を放棄する。

Chapter.3 「死にたい言わない主義」:永遠回帰する「女の子」の生=性の肯定

ベタがベターなラブならいらない
ヒアルロンリーロンリーガール
結果君しか勝たんのだし
自信持って愛しな
キレイキモキモトキメキたいのね
ヒアルロンリーロンリーガール
さみしい子って決めないでよ
それぞれバチボコ生きるロンリーガール
――ZOC「ヒアルロンリーガール」

https://www.youtube.com/watch?v=YUGOXBgl87I

 アイドルオタクの男性が特定の女の子の名前を呟きながら射精するという行為は、不貞をその宿命として働かざるを得ない商品としての女性アイドルに恋愛(セックス・キャピタリズム)の回路を介入させ、そこで仮想的に無数かつ巨大な〈父〉と闘って敗北し、復讐するために「あの子」とセックスしている妄想で「イく」ことを意味するということを見た。しかし、女性アイドル側がオタク=「恋人」を欲望することの可能性については、ついぞ等閑視されたままになっていた。「パパとセックス」するエレクトラ、エディプスとの構造的な対比(精神分析的な理論化)とは異なる仕方での定式化――そんなものが可能であるとするならば――が必要である。アイドルの欲望は、男性のペニスが勃起するように、クリトリスがペニスの役割を代替的に果たすものとして交換可能なものなのではない。「男性オタク」⇔「女性アイドル」の欲望がシンメトリーではない以上、アイドル側から提出される性=生の肯定の有り様をいささかケーススタディ的に素描することが必要であろう。そして、〈父〉―母―子のずぶずぶの関係性を内面化することによって復讐としてのオナニーを遂げるフロイト=ベルサーニ的身体(子としてのペニス)を宿命的に持つ「男性オタク」に対して、女性の性(生)=女性なる生を「かわいくなりたい」という「女の子」が絶対的に認めざるを得ない生の肯定要件を鍵に、ニーチェの生と永遠回帰を欲望の回路として指摘しうる「女性アイドル」を対比することによってオタクの欲望とアイドルの欲望が比較され得ない生々しいものとして提示されることが喫緊の課題となる。
 本稿でコーパスとして扱うのは、シンガーソングライター・大森靖子プロデュースのアイドルユニットZOCである。ここでは元スマイレージ(現アンジュルム)の福田花音=巫まろが加入して初の2020年発表の3rdシングル『SHINEMAGIC』収録「ヒアルロンリーガール」にピントを絞り、ハロー!プロジェクトを始めとする「アイドルファン」大森が「女の子目線で」欲望し欲望されることをアイドルに歌わせる=代弁させているという点に着目して他のアイドルにおける女性生(性)像との比較を行う。まず歌い出しの「君を注入して かわいくなりたい」というところに「ヒアルロン」と性的なメタファーがかかっていることに注目しよう。大森はシンガーソングライター名義の楽曲でも、例えば「みっくしゅじゅーちゅ」(24)では「この夏 君と私は二人きり/みっくしゅじゅーちゅになろうねって言った」、「この愛とてもいい気がしているよ/みっくしゅじゅーちゅが垂れた胸元に」とミックスジュースであるところの「みっくしゅじゅーちゅ」が液体=エロスの表象として機能していた。であるならば、「君=ヒアルロン」を「注入」することのエロスについて問題化せずに「女性アイドルの欲望」の噴出を語ることはできないだろう。ZOCの歌詞、つまり大森が複数人の女の子たちに語らせたいテーマは男性の性欲とは異なる女性の性が「かわいくなる」ことで「生きていける」(性=生)ことだった。
 そもそも、これまでことさらに「精力」「勃起」と男性の性欲について「エロティシズム」という言葉を使わなかったのは「復讐」という自滅欲望(タナトス)とも生の謳歌(エロス)とも違う、純然たる後ろ暗い欲望とあえて言えば「殺意」であった。女性の性問題は、特にアイドルに焦点を絞るのであれば「女の子」の生=性の謳歌という形で示されるまさしく「エロティシズム」への讃歌である――それが例えグロテスクなものであれ。
 女性アイドルは大きく分けて「ハロー!プロジェクト型」(女性の性=生問題を女性が歌う)、「AKB48型」(男性の欲望を女性が歌う)に大別される(無論多くの例外を含む)。「AKB型」では一人称の多くが「僕」であり、大体の楽曲の構図が「片想いする僕、気づかない君」であり、「ポニーテール(揺らしながら) 振り向いた/君の笑顔 僕の夏が始まる」(25) 、「遠距離ポスター 近くにいるのに/君は切ないほど手が届かない」(26)と「君」=オタクから見たアイドル像を商業濫費主義によって偶像化された少女が歌うところにファロロゴスと「女の子」のグロテスクなねじれが存在する(であるが故に魅力的である)。「ハロプロ型」では「今日 香りを/少し変えたこと 気づくかしら」(27) 、「LOVE お肌プルプルしてるのは/Please いちごのベッドで寝てるからよ」(28)と「女の子」のカリカチュア化された「かわいくあれかし(ありたい)」という欲求がある。それはどのように転化されるかと言えば、℃-uteの「Danceでバコーン!」(29)における「帰りにうどん食べてくわ」のような生のポジティブさ、言い換えれば男性が女性に期待するある種の湿った情念のようなものが脱臭され、受け取りようによってはエンパワーメントとしても受け取れるようになっている。「女の子は皆かわいいし、さらにかわいくあろうとすることによって生を(「帰りにうどんを食べて」頑張ろうと思うぐらいのレベルで)肯定しよう」というのが大筋である。大森は「ミッドナイト清純異性交遊」初出アレンジの『ポイドル』(30)で℃-uteの「大きな愛でもてなして」をカバーしていることからも分かる通り、かなり「ハロプロ型」の影響が強い。単なる「ハロプロ型」の女の子像の変奏にZOCが終わらないとすれば、それは一体どのような技法でなされるのだろうか。
 「女の子」の生はZOCが「スニーカー」(≠ガラスの靴)を履いたら「自立じゃないとか舐めてんの?」と言ったように、もはや「欲望される男性」が「舞踏会の王子様」ではなく「君しか勝たん」という形で「注入してかわいくなる」ためのものとして欲望される。ニーチェが言うところの「女性としての生(Vita femina)」は、女性「の」生ではない。にも関わらず、ZOCは生そのものを「大恋愛とか意味がない/だってブスになっちゃ意味がない」とあくまで自らの「かわいさ」がヘテロトピア的世界観とは切り離され、独立するような形で否定辞によって(「意味がない」)肯定する。ニーチェは永遠回帰そのものを「そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ」(31)とニヒリズム的な生の無常を嘆きはすれども、こと生の抗いようもない悦び、アイドルが「かわいさ」と呼ぶ反復されるこの悦びについてこうも述べる。

ギリシア人は、きっとや、「美しいものという美しいものすべてを、二度も、三度も!」と祈ったろう。(中略)世界は美しい事物に充ちあふれている、がそれにもかかわらずこれら事物の美しい瞬間や美しい露現の機会は乏しく、まことに乏しいと、私は言いたい。けれどもおそらくこれこそが生の鮮烈きわまりない魅力なのだろう。生の上には、金糸織りの美しい可能性のヴェールが、約束し、逆らい、羞じらい、揶揄し、同情し、誘惑しながら、覆いかぶさっているのだ。まことに、生は一個の女性である!(32)

ベルサーニ的「復讐」がオナニーというどうあっても醜悪な形でしか顕現しえなかったとき、生=性は一見イデオロギーやコンプレックスという構造を取るかのように見えるし、実際オタクがペニスを握る瞬間の構造はアイドルが「アイドル」でありながら「君しか勝たん」の「君」がオタクではなく「どこかの誰か=知らない男のペニス」である構造と重ね合わされる。にもかかわらず、というより、であるからこそ、アイドルは精液にまみれて目もくらむような輝きを放つ。実にニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』を執筆する10年前、フランスのアナーキスト、オーギュスト・ブランキは『天体による永遠』の中でニーチェよりも前に永遠回帰について言及している――しかもニーチェよりもラディカルな仕方で。「それぞれの星は、宇宙全体の中では稲妻にも似た短い生涯しか持たないのだから、すべての天体は、すでに何10億回となく死んで、生まれ変わっている」(33)というブランキの言葉は、ニーチェによるデーモンの囁き――『悦ばしき知識』341番――よりもスケールが大きく、かつ途方もない。「私」の回帰=コピーが、あのステージで輝くアイドルが、すべて何度も死に何度も繰り返されるのなら、何度でもアイドルは同じようにオタクにシコられて同じようにステージで歌い踊るだろう。
 無限に繰り返される生の一回性における「一回」が必ず永遠回帰として意識されないように、アイドルがオタクのペニスやどこかの誰かのペニスをさえ欲望しない地平で「バチボコ生きたい」と思わせるに如かない「生の鮮烈きわまりない魅力」こそが、アイドルをアイドルたらしめる生の肯定――何度も繰り返す生の一回を謳う/歌うこと――である。

Missing Chapter. 逆捩

 永遠回帰の一回性における生の肯定、アイドルがステージで振りまくウィンク一撃の「かわいさ」で「バチボコ生きる」ことがオタクのオナニー一発と同じく「ひとさじの奇蹟」であることを信じることを、我々は責めるつもりはないし、ナンセンスだとも言わない。死にたいと思い、不能になったペニスをいじくり回しながらなんとなくスマートフォンのカメラロールを眺め、保存していたアイドルの水着グラビアで勃起するとき、「まだ生きていけるのだ」と思う瞬間を決して否定できない。だが、「オタクがペニスを握るのは意趣返しのみにあるのではない。射精すること=その都度反復される死を生きることが分析を踏み越えることである」という決め台詞によって本稿のコアを締めくくってよいのか、我々オタクはそこまで〈父〉たちたる「アイドル批評家」たちに対して良心的であってよいものか。ブランキの謂に従えば、我々の人生におけるアイドルの輝きなど永遠に射精できない男のペニスのワン・ストロークに若かないわけで、前章の「生の輝き」もその前の「復讐」も、「永遠は無限の中で同じドラマを平然と演じ続ける」のだ、と――あ、またイけなかった。あ、またイけなかった。あ、……以下同様。「批評家」たちに、「もう我慢しなくていいんですよ。推しメンでシコりましょう」と言うことができるほど、我々はやさしくない。
 「ウィンク一撃」が、鬱病でインポテンツになったペニスから放たれる精液が、「奇蹟」ではなくただの回帰するn回目の一回であることを知っても、あなたは「じゃあ、もう、いいや」と言わずに生きられるだろうか。「神様がどこででも御覧になっていらっしゃるって、本当なの?」。続けて少女は言う。「でもわたし、そんなのひどいと思うわ」(34)。アイドルはどこででもオタクを見ているかと言われたら、見ていない。アイドルもオタクも、自分のことを見るのに必死かと言われたら、多分そうでもない。オタクはアイドルに熱狂したり、オナニーしたり、落ち込んだり、アイドルはステージで歌って踊ったり、俳優や男性アイドルと繋がったり、「永遠回帰の一回性」をいつも感じているわけではない――その一つ一つが永遠回帰なのであるが。ミシェル・ウエルベック『セロトニン』の結末よろしく、神もどこかで「さじを投げる」。

 しかし、人生のどうということはないある一日、左手でスマートフォン、右手にペニスを握って「冬優子……」と呟きながら白濁液を放出するとき、未遂の「復讐」を終えた「哲学者」である「あなた」/「私」=「オタク」は永遠回帰の相のもとに、誰か――不在の「推し」が自らの「激情的なマスターベーション」を「見ている」ことを感得してしまう。〈父〉を殺め、液体にまみれたその手を眺める「あなた」は、果たして生そのものをゴミ箱に捨てたティッシュ以上のものであると無条件に肯定することができるのだろうか――絶えざる思考と欲望の先にあるものが、リヴェンジとリフレインでしかなかったとしても。

「いつもみたくやってみなさいよ、ここで見ててあげるから。」(35)

Ending Chapter. アイドルは何故オナニーを必要とするのか。再び、コードと文法

 哲学や論考と言われるものは、往々にして合理性と体系知を要求する。そこから逸れるものへの問いについても、「彼ら」はこう言うわけだ。「とは何か?(Was ist/What is/Que-ce que)」と。それは、本当に現代でも「正しい問いの立て方」なのだろうか、あるいは哲学において「正しい」の権利が失効していないだろうかということを、もはや皆気づいていないのか見て見ぬふりをしているだけなのか、ともかく擦り切れてしまっている。分裂が現前することから逃げ続けてきたつけが回ってきているというわけだ。
 蓮實重彦は、『反=日本語論』で息子・重臣のいささか奇妙な言語体験を見守る父として、あるいは言語・人文に携わるアカデミアの一員として、「日本語」の言語体系というより「言葉の体験」を散文的に書き綴っている――時折「ところで、あなたは加藤泰を知っているか」と彼なりのシネフィル・ディレッタントをちらつかせながら。中でも、終章「わが生涯の輝ける日」で妻のシャンタルが初めて言葉を口にすることの悦びについての回想は美しいものである。蓮實は、文字通り言葉のコードと文法は二重化されていると述べる。「声」と「文字」である。人文文化の流入と自閉について、蓮實はこう綴る。

声による言語的世界への越境が他者の存在を必要とし、文字によるそれが孤独ないとなみであるという点は、それをそのまま、西欧における社会的環境の濃密な現実感といった問題には還元しえぬ問題をはらんでいる。たしかに、日本という環境にあっての他者の存在感は西欧と比較して希薄であったろうし、それが「文化」的にいってまったく無意味な現象とは思えない。(36)

蓮實のこの「他者の存在感」の希薄を見て見ぬふりをしたまま、果たして我々は哲学をすることが可能なのだろうか。よその草鞋を履いてふんぞり返ることができるほど、日本語で哲学することは自明なのだろうか。
 本稿は、「アイドルでオナニーすること」という際物めいた題材を取り扱いつつ、フロイト=ベルサーニとニーチェ解釈からその機構を炙りだすことを試みた。なぜ、アイドル、しかもオナニーでなくてはならなかったのか。それは、私の世代でAKBやハロプロ、アイマス、ラブライブ、なんでもいい、そういうアイドルコンテンツに頭まで浸かった人間がずっと抱えてきた欺瞞だったからである。SNS上では今日は誰でシコった、あの子は水着解禁したぞ、この違法サイトで同人が読める……。しかし、私が本当に知りたいこと――なんで純粋に応援してるはずのアイドルで勃起してしまうのか――について、文芸同人誌や知識人は一切教えてくれなかった。なぜなら、彼らもまた、オナニーが「裂けめ」や「来たるべきもの」の次元にあったからだ。ウィトゲンシュタインの陳腐なパロディよろしく、オナニーは「語り得ぬもの」だった。いや、「語ってはいけないもの」だったと言ってよい。他人のペニスを誰も見たくはない。だが、目の前にベルサーニよろしく〈父〉のペニスが突然現れてきたとしたら?あなたの好きなアイドルのお泊りスキャンダルやソシャゲのサービス終了があったとしたら?私は過去に何回か目の前が真っ暗になったことがある。それこそ「花や草に生まれたかった」し、学校に行けずに数日寝込んだこともある。しかし、「夢は終わっても人生は続く」。
 「逆捩」で提示した「リヴェンジとリフレインしかなかったとしても、この生は肯定するに値する=ゴミ箱のティッシュより価値があると断定できるか」という問いに対して我々が取れるスタンスは、言説でも運動でもなく、死ぬまで生きるか途中で死ぬかによって回答することでしかないし、またどちらを選ぶかということも、日本食の懐石料理を選ぶかフレンチのフルコースを選ぶかの違い程度しかない――生(=自分のペニス/クリトリスに表象される性)が「掛け値なし」であるとか、反対に「精液まみれのティッシュ以下」であるとかによって生に「よい/わるい」と「この」生に生そのもの以外によって判断を下すことはあまりにも無謬的である。「アイドルでオナニーする」という人によっては決死の営みを契機に、精神分析のキャビネにおいては他殺欲求を、狂人の精神病棟において生の謳歌を、分裂したままに描くことによって生は回帰の瞬間まで(回帰した瞬間その「一回」は永遠の相のもとに「同じこと」の「パロディが始まる(incipit parodia)」のである)「ジャッジメントがくだらない」(37)ことを示さねばならない必要性から、本稿「復讐、永遠回帰」は書かれている。
 アイドルオタクをドロップアウトすることは困難で、オタクこそ生と錯覚したらその錯視は多くの人は死ぬまで続く(ドロップアウトできた人はある意味で幸福な生を歩めるだろう)。死なないために、我々はペニスを握らなければならない。推しで射精して生きることをもう一度やろうとすることができたら、その次は自らの欲望のコードに潜むバグを潰すのではなくコントロールする文法を身につける訓練をし、そして哲学は、アイドルでオナニーするのであれなんであれ、自らを律して――律するとは、あるがままにということである――生きる手立てについて愚図にも貴族にも与えられるコードと文法についてのとても面白い「攻略本」である。その本を開くかどうかは、あなたの「利き手」にかかっている。

 私共はアイドルが並はずれて好きなのであります。
 私共は哲学が並はずれて好きなのであります。

 これは、アイドルと哲学についての論考です。

・参考文献

Leo Bersani, “Ardent Masturbation(Descartes, Freud, and Others)”, Critical Inquiry, Vol. 38, No.1, The University of Chicago Press.
『世界の名著49 フロイト』(『精神分析学入門』所収)懸田克躬責任編集・訳、中央公論社、1966年。
フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、理想社、1962年。
香月孝史『「アイドル」の読み方:混乱する「語り」を問う』、青弓社ライブラリー、2014年。
『ユリイカ 2016年9月号 総特集 アイドルアニメ:『アイドルマスター』『ラブライブ!』『アイカツ!』、そして『KING OF PRISM by PrettyRhythm』…二次元アイドルのスターダム』、青土社、2016年。
レオ・ベルサーニ・アダム・フィリップス『親密性』檜垣立哉・宮澤由歌訳、洛北出版、2012年。
三島憲一「永遠回帰の文体(ニーチェ)」、『ドイツ文学=Die Deutsche Literatur=German Literature』85号所収、日本独文学会、1990年。
永田大輔「『アニメおたく/オタク』の形成におけるビデオとアニメ雑誌の『かかわり』――アニメ雑誌『アニメージュ』の分析から」、『社会学ジャーナル』36号所収、筑波大学社会学研究室、2011年。
難波優樹「ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか : 制作と鑑賞の倫理学の試論 (特集 フィクションパワー)」、『美学芸術学論集 = The journal of aesthethics and art theory』16号所収、神戸大学文学部芸術学研究室、2020年。
ルイ・アルチュセール『マキャヴェリの孤独』福井和美訳所収、藤原書店、2001年。
ルイ・アルチュセール『哲学について』今村仁司訳、筑摩書房、1995年。
ルイ・アルチュセール『再生産について 下』西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今野晃・山家歩訳、平凡社、2010年。
ルカーチ・ジェルジ『歴史と階級意識』平井俊彦訳、未来社、1967年。
蓮實重彦『反=日本語論』、筑摩書房、1986年。

・脚注

(1)ルイ・アルチュセール「アミアンの口頭弁論」、『マキャヴェリの孤独』福井和美訳所収、藤原書店、2001年、281-282頁。

(2)ルカーチ・ジェルジ『歴史と階級意識』平井俊彦訳、未来社、1967年、278頁。

(3)無論ここで言う「哲学研究者」は哲学学士、修士、博士はもちろんのこと哲学を学ぶ者すべてが含まれる。

(4)ルイ・アルチュセール『哲学について』今村仁司訳、筑摩書房、1995年、181頁。

(5)フロイトの去勢コンプレックスについては以下を参照。「父親が幼児の性行動を威嚇したり制限したりすることに対する反応」。懸田の訳注によれば、「男児がエディプス・コンプレクス関係に置かれるときにいだく、父のために男根を切りとられるという恐怖に満ちたコンプレクス」。転じて、去勢コンプレックスに支配された幼児(主に男児。女性の場合は女性心理を形作る上で「ない」男根を欲求するもので男性のそれとは機制が異なる)の場合、「小さなペニスをあまりひどくもてあそぶからといって、幼いころにひどくおどかしたりしますと、その作用はのちになって出てきます。すなわち、その子は去勢コンプレクスに支配されるようになる」とのこと。ラプランシュ/ポンタリスによる説明の注19も参考のこと。フロイトの場合、去勢コンプレックスから来る過剰なオナニー(「思春期時代のやむにやまれぬオナニー」)は父親に奪われるかもしれないペニスを恐怖から防衛すること、またはその恐怖からノイローゼなどの神経症症状が発現する根源的コンプレックスとして解釈される。『世界の名著49 フロイト』(『精神分析学入門』所収)懸田克躬責任編集・訳、中央公論社、1966年、276-277, 391頁。

(6)2010年発表シングル『桜の栞』通常盤Type-Aに収録。歌唱を柏木由紀含むチームPBが担当した。

(7)難波優輝「ポルノグラフィが影響するなら、誰に何ができるのか : 制作と鑑賞の倫理学の試論 (特集 フィクションパワー)」、『美学芸術学論集 = The journal of aesthethics and art theory (16)』所収、神戸大学文学部芸術学研究室、2020年。

(8)難波(2020)、55頁。

(9)フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』信太正三訳、理想社、1974年、263頁。

(10)当然の問題であるが、実際に起きるレイプや性的虐待は到底許されるものではない。しかし、想像力こそエロスというにはあまりに下卑た精力である「勃起」という事態を最も促すものであり、その事態そのものについては倫理が問える領域ではあるまい。またしてもニーチェを引くなら「倫理学」は「幸福の概念を消極的に解する」ものであり、「勃起」の幸福とは自身の中に炸裂する幸福、自らを呪うような幸福である。『悦ばしき知識』、10頁。

(11)社会学者の濱野智志による著書『前田敦子はキリストを越えた』。

(12)『キネマ旬報』創刊号の「御あいさつ」。「私共は活動寫眞が並はずれて好きなのであります」。

(13)永田大輔「『アニメおたく/オタク』の形成におけるビデオとアニメ雑誌の『かかわり』――アニメ雑誌『アニメージュ』の分析から」、『社会学ジャーナル』36号所収、筑波大学社会学研究室、2011年、59-60頁。

(14)永田(2011)、61頁。

(15)香月孝史『「アイドル」の読み方:混乱する「語り」を問う』、青弓社ライブラリー、2014年、140頁。

(16)同上、148頁。

(17)「ダダ漏れ」の手法(究極的にはスキャンダルの内幕などのものは見えない)について香月はおニャン子クラブとAKB48の差異は動画ストリーミングとSNSの普及による影響が大きいと述べる。これの発展形として香月は2011年にUstreamで行われた東京女子流の生放送(「何も起きていない」配信)を挙げる。この効果を香月は「移動中や控え室、食事中なども含めて、スタッフとともに行動する日常時間の様々な瞬間に、始点も終点も定かではないまま、カメラの眼が伴っているのである。それはステージに立つ職能の人間にとってはオフショット的な時間である」と時間的コンティニュイティの観点からこれを肯定するが、本稿においてこのアイドルの「ダダ漏れ」が単に「素顔(?)が見れて嬉しい」とする立場ではないことを引用に付して明記しておきたい。同上、153頁。

(18)中尾暁「個人競争主義的アイドルとチーム団結主義的アイドル AKB48に共鳴/対峙する二次元カルチャー」、『ユリイカ 2016年9月号 総特集 アイドルアニメ:『アイドルマスター』『ラブライブ!』『アイカツ!』、そして『KING OF PRISM by PrettyRhythm』…二次元アイドルのスターダム』所収、青土社、2016年、146頁。

(19)注5に加えて、「男児では去勢を,彼の性的活動にたいする父親の脅迫が実現するものとして恐れる.そこから去勢への強い不安が生じる」という定義がラプランシュ/ポンタリスによってなされており、フロイトは『幼児期の性理論』において「男根は幼児においてもすでに支配的な性感帯であり,もっとも重要な自体愛的性対象である」としている。ラプランシュ/ポンタリスとフロイトの認識に共通するものとして、オナニーが男児においては「恐怖」、さらにそこから「防衛」としてナルシシズム的意義を含意していることが挙げられる。J.ラプランシュ・J.B.ポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁監訳、新井清[等]訳、みすず書房、1977年、87頁。フロイトの引用箇所はラプランシュ/ポンタリスの掲載箇所によった。

(20)「フロイトは、エディプス・コンプレックスの影響下にある少年は、母親が憎いライバルである父親との間に浮気をしているという感覚によって母親への欲求を阻まれ、阻まれた欲求の唯一のはけ口をマスターベーションに求めると述べる。しかし、マスターベーションは母親の浮気の空想を伴い、また性的活動としてのオナニーは父親への復讐を可能にする。母親が浮気をしているイメージが、父親と同等か似たような男性として理想化された少年自身と結びつくのである。」Leo Bersani, “Ardent Masturbation(Descartes, Freud, and Others)”, Critical Inquiry, Vol. 38, No.1, The University of Chicago Press, 2011, pp. 13-14. 邦訳は筆者によった。

(21)声優の豊崎愛生の恋愛報道の際に2ちゃんねる(現5ch)に書き込まれたもの。詳細は以下を参照:「なん速J:声オタ発言集打線すごすぎワロタ」http://blog.livedoor.jp/pekochan893/archives/3357983.html

(22)ルイ・アルチュセール『再生産について 下』西川長夫・伊吹浩一・大中一彌・今野晃・山家歩訳、平凡社、2010年、86頁。

(23)Bersani(2011), pp. 8-9.

(24)2017年発売アルバム『MUTEKI』収録曲。

(25)AKB48「ポニーテールとシュシュ」。2010年発表シングル。

(26)注6参照。

(27)スマイレージ「有頂天LOVE」。2012年発表シングル。

(28)ハロプロ研修生「彼女になりたい!!!」。2014年発表アルバム『①Let’s say “Hello!”』収録。

(29)2011年発表アルバム『超WONDERFUL!6』収録。

(30)2013年発表アルバム。ソロ名義ではなく来来来チームとの連名名義。

(31)『悦ばしき知識』、310頁。

(32)『悦ばしき知識』、308-309頁。

(33)三島憲一「永遠回帰の文体(ニーチェ)」、『ドイツ文学=Die Deutsche Literatur=German Literature』85号所収、日本独文学会、1990年、103頁。

(34)『悦ばしき知識』、15頁。

(35)『劇場版新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』(庵野秀明、1997年)の第26話「まごころを、君に」で碇シンジに対し惣流・アスカ・ラングレーが発言した台詞。

(36)蓮實重彦『反=日本語論』、筑摩書房、1986年、307頁。

(37)ソーシャルゲーム『アイドルマスターシャイニーカラーズ』内ユニット、アルストロメリア「アルストロメリア」。2018年発売EP『THE IDOLM@STER SHINY COLORS BRILLI@NT WING 05 アルストロメリア』収録。

(文責:宮﨑悠暢/挿絵:ManPowerSpot

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