橋の下に捨てられて、拾われて、元気に育つ
初めましての方、そしていつもご覧下さってる方、sanaのnoteに足を運んで下さり、ありがとうございます。皆さんが縁あるいつかの星に繋がる時のために、sanaの現場からの何かをころんとお届け出来たら、と思っています。
このトップには埋もれていた記事を再発掘掲載しています。2023/12/18追記
小学生くらいまでの時に私はよく母親に言われていたことがあります。
「あんたは橋の下に生まれてすぐに、捨てられたから」
「えっ 誰に?」
「私。橋の下に捨てたのよ」
あんまり何度も楽しそうに自慢げに言うので、聞いている私も楽しくなってしまって、何度もその「捨てにいった光景」についての話を聞いていました。
私がとある場所で生まれて、少ししてからのことです。その頃に住んでいた家の近くにある川に架かっている橋があって、その橋の下に「布にくるまれた状態で」置いたのだそうです。「捨てた」という事実を作らなければと思っていた母は、周りに誰もいないことを確かめて、それから少しずつその場をかなりの距離まで離れて、しばらく隠れて見ていたそうです。
そこでしばらくの時間放置された私がいたのだとか。嘘みたいですね。
ちょっと聞きようによってはかなり危なっかしい話なわけですが、実際はそうではありません。
しかし、父がそういうことをしたとわかって火が付いたように怒ったんだってことも聞いていますから、どこまでが母の言う「大丈夫。大丈夫。」だったのかはわかりません。
母が捨てた後に少ししてから、父が慌てて追いかけてきて橋の下から私を拾ったそうです。
世の中に昔からある話として知っているのは「あなたは捨てられてたから橋の下から拾ってきたんだよ」って親が子に言うっていう話です。
「自ら積極的に、捨ててきたよ」なんて我が子に言うって話は聞いたことがありませんでした。
少し大きくなってから理解することが出来たのですが、母は病弱な人だったようです。大きな病も体験していて、私を授かったのは結婚して10年経ってからでした。不思議なことに出産した直後からは嘘のように丈夫になったそうです。
「あなたを産んでから全部落ちたみたいに」
という言い方をしていました。
生まれた子を「捨て子」にするという風習は日本の各地にあったようです。関西生まれの母ですがどこでその話を聞いたのかはわかりません。ですが、一度「捨て子」にすることで「もらわれた子」にして育てるという形を取ることでその子の「厄」を捨てて、その後に丈夫に元気に育つようにという祈りが込められているのだということです。厄年に出産した人がそうするという話もありますが、母は身体が弱く大病もしていたために考えたことなのかもしれません。本当のことはわかりませんが。
さらに母は私に「ミルクを飲ませる」こともしなかったと聞いています。
「だって慣れてる人に任せた方がいいと思って」
というのが母の言い分なのですが、すぐ近所に子育てにとても詳しく面倒見のよい人がちょうどいて、私のことを任せていたのだと言います。多くは喋ってくれなかったのでわからないことは多いのですが、父の残した話からもわかるのは、父の会社の人や関係者の人たちなど「他人」によっても育てられていたということ。その様々な人たちの中で楽しそうにしていたそうです。
生まれて少しして「橋の下に捨てられた私」はそのしばらくの時間に何を見たり聞いたりしていたのだろうなって、子供の頃から大人になるまで何度も思い出しては考えたり想像したりしていました。もちろん何も覚えてはいませんが、確かに何かはあった、だろう気がしているのです。
占星術では自分が生まれたときの空模様の天体の配置図があります。出生図、ホロスコープと言います。
この生まれた瞬間の図を見ると色々とわかることがあります。
私の生まれたときの「月」は「冥王星」と並んでいます。「月」は生まれてから7歳くらいまでのことを象徴しています。
私の場合には、生まれてすぐに命を脅かされるような大きな衝撃的体験をしているだろうことがわかります。さらに感情のリミッターが壊れていて、感情過多。何事もやり始めたらやり過ぎて身体を壊す連続。途中で休むとか切り替えることが無く、ずっと同じことを続けていたりしました。日常生活も思いもよらない出来事や事件が多発しアップダウンが激しくて、普通の穏やかな日々はありませんでした。
その後も私が大人になっても、母はずうっと同じように何度も言い続けていることがありました。
「あんたは預かった子や」
「私の子や無い」
「腹は借り腹や言うけど本当やわ」
「かわいいかわいい服が似合う子が欲しかったのになぁ」
聞いていると、母が残念そうな顔しているようにも見える、そんな時もありました。
私は幼い頃から車や飛行機、ヘリコプターなどが好きで男の子みたいだと言われていたので、どうも思っていた方向には、私は育たなかったようです。(笑)
おそらくは橋の下で私は、遠い世界を見ていたりしていたのではないかなと思います。来た場所のこととか、今ここのこととか、とんでもない星にやって来ちゃったよとか、思っていたかもしれませんよね。
何度も病気をしたりしながらですが現在も無事に好きなことに向って生きていますので、捨てられ&拾われた効果はあったのかもしれません。
実際のことですが、私の戸籍には私生児であることが記録されています。父と母が入籍することになったのは私が確か26歳の時。父親として認めるという承諾書を書いた覚えがあります。
父は戸籍をとあるところに置いたままで、晩年まで自分であるという社会的な証明を持たないままに生きている人でした。
戸籍から考えると、今回の話に出てくる橋の下は愛媛県のどこかということになるのですが、この頃の他の実際の様々なことは母は話したがりませんでした。それどころかさらに話を聞きたがる私に母は「一切は墓場まで持っていく」とまで言いました。きっと両親のことですから衝撃的でドラマティックなお話が満載なのだろうなと思っています。故郷を離れ、親族とも離れ、環境も手離し、自営をしながら旅をしていた夫婦として考えた時には、スゴい二人だなと思います。
ちなみに母に橋の下に捨てられた時のこと。普段からもそうだったようですが、私は捨てられても拾われても泣かなかった子だったそうです。
あなただけのこの人生の物語を紐解いて歩きましょう。
昼の地球で、夜の宇宙で、丸ごと一日どうぞよい旅を。
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