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茶柱のある風景。

とあるワークでのこと。

たとえ話として、とある夫婦の日常のひとコマというのをお話ししました。

仕事で疲れて帰ってきて、黙って目の前にそっと出されるお茶を体験する人と、黙って入れてくれればいいのにと不満を抱えている人と、両者が信じている世界はまるで違っていて別々だねって。

私たちはこの社会の中で同じように目の前に居たとしても、ひとりずつが信じている心の世界があって、それは多くの誰もが無自覚なのだけれど、ひとつのことにおいても違うことを感じ、違うことを思うということが実際に起きています。目の前に一緒に居るのに見えていることや考えていることの世界観が違うということが起きているのです。そんなこと当たり前だと思うかもしれませんが、各々が信じている世界があらゆるところで展開されていきます。近所に一緒に育った幼かった者同士が大きくなっていくと次第に関わる人も風景も段々と変わっていくように、それぞれのひとりずつの人生が展開されていきます。

私たちは、自分が自覚している感情の背後にある自分自身にさえ明らかになっていない感情が存在していることにも無自覚です。それらが目の前に出来事として体験として現れているということもあるんのだってことをもっともっと知っていくといいでしょう。

だからといって無自覚な部分の自分のことを、感情的に知ろう知ろうとしてもそれは簡単なことではないでしょう。おそらくは、知りたいしわかりたいからそう思うのだけど、まったくもって一向にわからない、ということになりやすいでしょう。

例えば、ひとつの方法として、占星術のホロスコープ(出生図)には、自分のことを客観的に見ることの可能な天体が地図のようにそこにあるので、学んで練習していくと自分自身の特徴を知ることができます。それはまだ使っていない自分自身の未知の部分だったりします。開発可能な自分の可能性です。もっともっと自分を展開していくことが出来ると知っていくと、投影して他者に預けていたものを今度は自分がやってみようと思えるようになっていったりします。

占星術は多くの人がまだまだ思い込んでいる人が多いかと思いますが、本来運勢を見るもの、見てもらうためだけのものではありません。ふわふわしたつかみ所の無いものとか、いい流れがいつ来る来ないとか、当たり外れの世界だと思っている方も多いのが現状だと思うのですが、自らが自分という存在を自覚して社会の中でどう表現させていくかということ、社会の中における自分自身のブランディングに役立つものでもあると思います。

しかし本質的には、占星術は徹底的に生まれた時の自分自身のパーツに詳しくなっていくためのものであり、やがては社会を超えたより大きな存在としての自分と出会って、さらに近付いていくための自分専用の手がかりでもあるのだろうと思います。だからこそそれは宝の地図と言ってもいいでしょう。占星術に求めるものを運勢の良し悪しや出会いや別れというものだけにしてしまうのは、大変もったいないことだと思います。


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お茶と茶柱の話をしたワーク参加者の方が、その次のワークの時に

「今、お茶を入れてきました!」

「茶柱が立ちそうなのを選んだんですけど、んー、うまく立ってないなぁ」

「あ、沈んでる」

と、笑い話のように画面上で見せてくれました。透明なカップに緑色がきれいでした。

そこで彼女は続けました。

「やっぱり、自分で入れるんじゃなー。入れてもらったお茶がいいな。いいな。って思うんです。」


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前のたとえ話に戻りますが、茶柱の立ったお茶を一緒に居た人に入れようとしたその人は、お茶を届けて飲ませたいその相手に「ありがとう」「お疲れ様」という気持ちがありました。

あるいは一緒に居る人に外で何かがあったのだろうことを察して「またきっといいこともあるよ」「大丈夫だよ」というようなことを伝えたくて、わざわざ緑茶の葉っぱの中から茶柱を探して取り出して、そうして知らない顔してお茶を出したりすることもあるわけです。飲む時にその人の視界の中に茶柱が入るだろうことを想定して「そうそう、茶柱って立ってると縁起がいいんだってね。最近見ないんだよね。」って今いれた自分のお茶には入ってなかったと、わざと声をかけたっていう話で。そういったことを企てた人の話です。もちろん最後まで相手にタネは明かしません。気が付かないまま飲んでたとしてもそれでもいいのだそうです。おまじないみたいですね。茶柱は黙って気が付かれないようにこっそり飲むと幸運を招くという言われ方もあるようです。

茶柱の立たなかった彼女にそんなことをお話しました。

「誰かのことを想って、誰かの心に何かを届けたくて、そんな謀をするなんてこと無いなー、いいなーっ」

「自分も、もしかしたらそういうことを思い付き行動する、そんな人になれるといいなって思うけれど、でもそう思われているっていう経験がいいなー。その人がうらやましいなー。」

まずは自分が「欲しい」のだなって思ったそうです。誰かのために何かする自分という理想を追いかける自分ではなく、してもらいたいと思っている自分のことを自覚したのだと。自分を発見した! という体験になったようです。

自分自身に向っていくほどに、様々な感情と出会うことになります。中には思いもよらないものと出くわすことも当然なのですがあります。その感情に詳しくなっていくことは、日常の中で自分自身の感情に無自覚に同化してしまうということから抜け出すこヒントとも繋がっているでしょう。

誰かのことを想える人というのは、自分のことをより知ろうとしている日常があるからこそなのだなと思うことが日々あります。その世界観が社会を軸としている場合には、社会の常識の中において誰かのことを想える人です。

そしてその世界観というものは、そのひとつではありません。

さらに内包する世界を広げて、社会の外にある、直接触ることの出来ない見えない心の世界の軸を持つことが可能になった人にとっての誰かのことを想うということは、実は社会の中にあるそれとはまるで違った価値観の世界です。社会の中には無いその世界なりの愛の理解と表現とが存在しています。さらに次の段階へと宇宙が広がっていった先には、またその次の世界観が存在しています。

ひょっとしたら、そんな風にお茶を入れてもらえるなんていいなと言っていた彼女も、それをすでに体験しているのかもしれません。「無い」と思い込んでいるから「欲しい!」って思って「無い私」を体験しているだけで、誰かによってひっそりと何かが添えられている、そういうものを受け取っていることがあるかもしれませんね。


遙かな道を示す、そういう存在と出会ってその言動に溢れ出るものの実際を見て、たくさんのことに気が付かされます。

まるで一杯のお茶を入れていただいているかのような、そんな瞬間との出会いがたくさんある、優しい毎日を歩いています。


写真と文 sanae mizuno

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