怖くて言えなかった

ツイッターで、おそらくは「男性」を嫌悪しているのだろうアカウントが、「ホモ」という言葉を使っているのをたまたま見てしまった。


「ホモ」という言葉は、一般的には差別の意図をもって使われてきたため、当事者があえて使っているという事情でなければ、使ってはならない、と理解している。

その方は、そのツイートや他の方のリツイートで、「シスヘテ男性はホモになれ(あるいはそういう行為をしていろ)」という趣旨の発言をしていた。(シスヘテ)男性によって諸々の被害を受けてきたことをうけての発言だろう。

そのツイートをした方のことなんて分かることは少ないけども、やはり「ホモ」という言葉は使ってほしくない。それに対していいねをしている人がいくらもいることは、やりきれない気持ちが湧いてくる。


ただ、その人のことは分からないとは言ったが、その人が「男性」に対して嫌悪感を向けることや、その他様々な主義主張を持つに至ったのには、何らかの事情があったのであろうことは、想像しうる。

その正当性については、少なくとも私は神の視点から裁くような権利を持たないと感じる。

私は、シスヘテ男性であり、長く従来の性規範や社会構造に組み込まれ、一定レベルでの女性、マイノリティ差別をしてきたし、有害な男性性でもって、現実に危害を加え、あるいは加えうる存在であっただろうし、またこれからもそうならないとは限らない。

私は自分のことを「体制派」と表現する。既存の性規範や社会構造に、結果的に加担していた存在だし、まだそこから完全に離れたとも言いがたい。

そんな私が、先ほどのツイートをした人に対して、「ホモという言葉は使わないでください。」と、指摘することが、どうしても不安だった。


ジェンダーセンシティブな在り方を目指す私だが、ジェンダーセンシティブに完成形があるわけではないから、「完全に正しい」センシティブな状態というものに安住することはできない。だから、とにかく自分の頭で考えて、その場その場で良いと思われる行動を取ることが必要だと思う。

普通に考えれば、「ホモ」という言葉を使ったあの方に、使わないでください、と一言いうことはセンシティブな行為だったと思う。

でも、その方がそういうことを発言した背景も知らずに、それを指摘することが、私には恐ろしかった。その方が、シスヘテ男性から何かを言われたら、私にも銃口を向けるだろう、と思ってそれを恐れた。

だから私は、なにもできなかった。そうしてまた、「ホモ」という差別を見過ごしてしまった。

差別の源泉を、自らのうちに感じた。


私は、何ができるのかな。元々有する権利と、それを遂行する能力と、それぞれの意味で、私はいったいどこにいて、何ができるのだろう。

今日は頭が限界みたい。寝よう。



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