「ジェンダーレス」と「自己表現」と「ルッキズム」で病む

私は普段ポータルとしてヤフーを開く。

ある日、次の記事が目に留まる。私の好きな歌手の一人、宮本浩次さんのインタビュー記事。

この記事のあと、井手上漠さんを題材に「ジェンダーレス」という言葉が付いたインタビュー記事が現れた。

井手上さんに関する記事はこちら。現時点でvol2までリリースされてます。



「ジェンダーレス」

この言葉は私にとってはすごく悩ましいというか、考えたいと思う言葉。上記の記事でも「ジェンダーレス」という言葉の使われ方は違う気がする。

二人の記事はともに自身で「ジェンダーレス」という言葉を用いている。宮本さんは男性を突き詰めてきた反動として「本来の自分」らしさを追求することとなった。井手上さんは中性、性別がない自分を確認して「本来の自分」らしさを追求することとなった。そこには差異があるようにも、ないようにも感じられる。

「ジェンダーレス」であるということはどういうことなのか。それは広義の「トランスジェンダー」、「性別越境」ということとどんな違いを持っているのか、いないのか。あるいは、「ジェンダーレスらしさ」なるものは存在するのか。「ジェンダーレス」と「中性」の関係とは。考えたいことがいっぱいある。


以前にもnoteに書いたことがあるかもしれないが、かつて私は「自分に性別とか無ければいいのに」と軽率に思ったことがある。

子供たちの間では「ルッキズム」って結構強い、と思う。見た目が悪いと市民権は制限される。「ブサイクな男子」は「女子」と接しにくくなる。ところが私はヤンチャな「男子」は苦手だったし、「女子」であっても仲良くできる人とは仲良くしたかった。そんな自分には「男子」であることは邪魔だった。「女子」に避けられたくなかった。

それと同時に自分が「男子」であることが示せない感じがあった。子供たちの間で「男子らしさ」って「かっこいい」「運動が得意」「ヤンチャ」以外なくない?かっこよくなくて運動が苦手で良い子な自分は「男子」って感じじゃない。性別二元論的な空間の中でさえ、見た目が悪いということは「男子」からの爪弾きを受ける感じがする。

だから社会的に自分を「男子」だと示すメリットも感じず、見た目含めて「男子」の自負も持てないという状況では「頼むから皆自分を男子として見ないでくれ〜」って気分だった。


「ジェンダーレス」について語られた上記の記事にはいずれも「自己表現」が関わってくる。宮本さんならジェンダーレスを感じさせるイヴサンローラン、井手上さんなら髪の長さ、おしゃれ、メイク、制服。井手上さんはメイクなどをした姿は「可愛すぎる」と形容されることがある。

自己表現について、今日こんなつぶやきをした。ローランドさんが「ジェンダーレス化」について語った記事に対して。

その記事。


私は幼少期、赤が好きだった。ランドセルも赤を選びたかった。

やがて赤は嫌いになった。目立つから。赤が「女子」の色だと思ってとかそういう話じゃない。「私」個人が目立ちたくなかった。早々に自らの見た目が悪いものとして扱われていく世間を知っていって、できる限り私を隠してくれそうな「黒」が好きになっていった。

私にとっては「ファッション」は消極的な行為。社会に存在を許されるためには、私はできる限り悪目立ちしてはならなかった。少なくとも自分では周囲のルッキズムを悟ってそう感じた。

未だに私は「自分らしさ」を「ファッション、おしゃれ」で表現するということがよく分からない。

「私らしい」って何だかやたらポジティブな言葉だけど、ポジティブな私なんていない。

美しくない私は非常に私らしい。好きになれない、魅力的でない私の姿が居心地がいい。しかし、それをもって「好きな格好」かと言ったら、それも違う。「自分らしい」と誇るものではない。

「美しさ」とか「素敵さ」と、私の「私らしさ」は一致しない。相反する。


自分のしたい自己表現が「ジェンダーレス」であるということはあるんだろう。「ジェンダーレス」を志向することも、志向するそれが「ジェンダーレス」と名付けられるということもあるのだろう。

私の日頃の格好は、「男性」を意識している感じではない。「男性性」に近づこうとしている強く意識している感じでもないし、志向はしてないけど、どうしても遠ざかりたいわけでもない。「女性性」に近づこうとも遠ざかろうともそんなに意識していない。ボーッと服を着ているだけ。

私の在り方は現代で称揚される「ジェンダーレス」と違うような気がしてならない。何が違うのだろうか。

そこに、私の「ジェンダーレス」への強い偏見がある。


「ジェンダーレス」。

キラキラした言葉に見える。

「ジェンダーレス」という在り方で活き活きと在る人々の姿が目に浮かぶ。

私はただそれだけ見て羨ましいんだと思う。それに伴う社会の偏見と苦しみを聞いてなお。

自分らしくあること、自分が魅力的であること。

それだけが羨ましい。

「ジェンダーレス」のことを深く深く考えずに。

いや、羨む相手は誰でもいいんだ。魅力的であるということを追求する人なら。

自らを魅力的にするという行為の可能性を知らずに生きてきた私にとって、その可能性を大切にして生きている人なら誰だって羨ましい。

それに加えて、「ジェンダーレス」という在り方は、とりわけ井手上さんの在り方は、「男性」を上手く取り扱えないが捨てることもできないと感じる自分から見て自由に見えたのだろう。

ポジティブな偏見だ。

ただひたすら、満たされていない自分が山積して、冷静さを欠いている。しかし、満たされる方法があるとも信じていない。

私が見ているnoteのライターさんの言葉を見て共感したのは、「見た目が悪い」ということを内在化した自分自身が一番「ルッキズム」にとらわれているということ。

「ジェンダーレス」と「自己表現」と「ルッキズム」とを横断しながら、一人で絶望する。


皆幸せになれ。

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