「男性嫌い」を振り返る
思い出せる一番最初は、保育園時代。走り回って色んないたずらをしたあの子は男の子だった。
その次は幼稚園時代。年中から入った自分を初日から追いかけ回したあの子は男の子だった。
小学生の低学年は思いつくところがほとんどない。
小学校中学年以降は、多分にありすぎる。
自分はこの一年、noteなどにまとめながら、自分の「男性嫌い」を掘り起こしていた。なんとなく「男性」とは打ち解けなくて、ある程度は仲良くできるんだけど、深い関係、深いコミュニケーションを「男性」とはほとんどできていなかったことを確認した。
今思うと、それは自然なことだった。
昔から自分は好き嫌いは激しかった。嫌いな子がいっぱいいた。「敵」だと思っていた。そのほとんどは男の子だった。「敵」と見なせるような「男子でない子」は思いつく限りで小学校中学年の時の2人くらいかな。
力があったり自分より足が速かったりする子、集団の中心でデカい態度を取る子、もっとシンプルに言って怖い子、そういう「敵」がいっぱいいた。その「敵」は自分が理想とする秩序を破壊する奴だった。
自分にとって「男子」は「敵」か「敵じゃないか」が大事だった。というか今もそうだと思う。
男女二元の言い方になってしまうのだが、ということは私の認識では「女子」は「女子」だったんだと思う。ほとんどが「敵」でなかった。
まあもっともほとんどが「女子」止まりだったとも言えるかもしれない。思い返して、いわゆる「異性を意識する」といわれる年代までにすごく仲良くなった女子は一人、幼稚園時代のあの子だけ。その子とは小学校以降交流が無くなり、それ以降は「女子」としてではなく仲良くなれた「女子」はほとんどいなかった。その意味で、「女子」は「女子」でしかなかったのかもしれない。早いうちから「恋愛」というものが意識される感じを察知した自分にとっては不可避な出来事だったと思う。今なら、もう少しだけ「人」として仲良くなれるかもしれないが。
未だに「男子」に警戒している。おそらくだが、自分にとっての「男子」は怖い存在のままで、「敵ではない」のフォルダに入った存在も、いつかは「敵」のフォルダに入ってしまうのではないかとか、実は見落としていた「敵」なのではないかとビクビクしている。それは自分の人付き合い歴十数年の極薄っぺらい経験からの判断。
その逆に「女子」はとりあえず「敵ではない」フォルダに入れやすいから安心できる。ましてより経験的な知識が「男子」に比べると少ないからそう判断しやすい。向こうが私を「敵」だと思っていることはあるだろうし、「仲間」である可能性も高いわけではないけど、傷つけられる可能性は少ないと思える。
「男性嫌い」な自分は今も「仲のいい友達の男子」がいない。親しいかもしれないけど打ち解けていない人ばかりだ。だっていつ「敵」になるか分からないから。そうやって戦場にいるような気分で「男子」と交流してきたのかもしれない。そういう在り方の一つが「敵」を生まないためのホモソーシャル的な同調であって、それによって排除してきた存在がいるのなら何とも虚しい戦術だった。
その一方で、まだ向こうが「敵」だと思わなければ安心できる方が良いと言って、「仲のいい友達の女子」を作ってきたのかもしれない。なんだかんだ中学時代とかも「女子」と仲良くしゃべることはあったし。でもそういう立場で「女子」と接していると考えたらなんか浅はかだなとも。
勝手に戦ってきたのだろうか。よく分からない。自分の過去の感覚が間違っていたとも思えない。一方でそあいう感覚が今も理にかなっているとも思えない。
鎧が脱げればいいんだけど、どうにもまだ信頼できていないんだろうな。なんか、きっかけがない。今もまだメンズリブ団体に接続できていない。そろそろと思い続けて大分経ってしまった。
既に大分こじらせてきたような気がする「男性嫌い」。長期的には無くしていきたいのだけど、そのために何が必要か、ゆっくり考えたい。とりわけ「シスヘテ男性」と仲良くなれるだろうか。
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