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『BOYS』を読む(2)

この記事は昨日の記事の続きであり、レイチェル・ギーザの『BOYS』という本の第一章について述べるものです。

昨日の記事がこちら。


この第一章のタイトルは「男の子らしさという名の牢獄 つくられるマスキュリニティ」であり、「はじめに」の部分によると、マン・ボックスという概念についての説明である。

以下、第一章あらすじ。

マン・ボックスは、ある行動や性質などが男性らしいかどうかを、マン・ボックスという箱の中にあるのか外にあるのかで示すものである。箱の中にあるのか外にあるのかはその時その場所の社会によっても変わってくるから、男性らしさ、マスキュリニティは社会的に作られたものであることが分かる。

また、求められるマスキュリニティと人種などには影響があるようで、黒人、アジア系などの男性は、その人種の価値観やステレオタイプと社会的なマスキュリニティの間に相克が生まれることがあるという。彼らの価値観に従うことが、社会的な逸脱として警戒されたり、ステレオタイプがマスキュリニティと一致しないことで苦しむことがあったりするようだ。

現代においてはマン・ボックスに関しては相反する展開が見られるようだ。若い男性は、かたや従来のマスキュリニティへの疑念があり、かたや外的な圧力やメッセージと、内的な恐れや不安感からマスキュリニティに固執してしまうところがあるようだ。有害な部分があっても、マスキュリニティはアイデンティティとなりえる。

また、マスキュリニティについては、これに従っていれば安泰かというとそうではなく、むしろマスキュリニティゆえに男性は警戒されたり、心配されたりする。マン・ボックスは自分にも他人にも有害なものがあるし、「男の子の危機」という言葉は様々な事象に用いられる。更にここに人種の問題が重なると、より極端に警戒されてしまうらしい。

マン・ボックスの利点は、マスキュリニティを男性の本質ではないことを示唆することができることにある。男の子の持つ困難がマスキュリニティによって説明できるなら、その解決も探れるだろう。


以下、感想。

有害なマスキュリニティをアイデンティティにしてしがみついてしまう、ということはとても分かってしまう。既存のものに飛び付いた方が楽に決まっているから。新しいマスキュリニティの構築は、正直間に合っていないと思う。自分達が作り上げる役目を担っているとしても、しばらくはその指針が定まらないまま生きていくことにはなる。

男性がこれまでに担ってきたであろう社会的な役割(稼ぐこととか、支配的立場にいることとか)は、最早男性だけのものではない。もちろんまだその地位の多くは占めているかもしれないが、妥当性は失われつつあるし、構造の変化は避けられないだろう。その時、この本にもある、この質問が浮かぶ。

「男であるとは何を意味するのか?」(p37)

男であることの素晴らしさってなんだろう。男であることの積極的な意味って...

こう考え、そして行き詰まったとき、思わず反動してしまいたくなるかもしれない。かつての栄光らしきものを守ろうとしてしまうかもしれない。それが、大局的には好ましくないことだと分かっていても。少なくとも私には、その感情が分かってしまう。私がかつて感じ、あるいは今も感じる、ジェンダー界隈が自分達、男性のことを考えていないのではないかという不安と、自分が新たなマスキュリニティについて展望ができない苦悩は、有害なマスキュリニティへの誘いでもあった。

女性は、時にダブルバインドに苦しめられるという。職場では実績を積み上げなければ必要とされないが、あまりに活躍しすぎると出過ぎていると疎まれる、などのように。

男性はどうだろうか。社会的なメッセージから男性らしさを演じなければいけないと学ぶ一方で、それによって危険視や心配がされるのだったら、これも一種のダブルバインドかもしれない。その質が女性と同じかは検討が必要だろうが。



『BOYS』の第一章では、マン・ボックスという観点からマスキュリニティが検討された。そして、マスキュリニティが不変のもの、デフォルトであると見なされてきたがゆえにそれほど重要視されてこなかったことと、これからはそうはいかないことが示された。これは、自分にとっての福音だった。

次の第二章のタイトルは「本当に「生まれつき」? ジェンダーと性別の科学を考える」である。次もまた既存のマスキュリニティを揺るがしてくれることを期待したい。

(続く)

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