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守破離とレゴとターンエー

守破離という割とたいそうな言葉がある。
物事を極めるためのプロセスを表す言葉だ。

「守」は決められた通りにやること。物事の基礎を学ぶステップと言える。
「破」はぶっ壊すこと。
「離」は自分の形に作り直すことだ。

レゴで例えると分かりやすい。

最初は説明書通りに作ることから入る。これが「守」だ。しばらくは飾って眺めるのも良いだろう。
だが、すぐに「ぶっ壊してぇ…」という衝動に駆られるはずだ。もうそれは本能としか言いようがない。で、ぶっ壊す。これが「破」。
で、バラバラになったパーツで“別の何か”を作る。これが「離」だ。この“別の何か”は大抵の場合、元の何かよりショボい。でも作った本人はご満悦。

これが守破離。

つまり、守破離なんてのは道を極めた者だけが修得し得る有難いプロセスでも何でもなく、むしろ小さな頃は誰もが持っていたものなんだ。
それを大人になっても続けられるかどうかだけの話。

「守」しかできない人はきっと、「破」と「離」をまわりの大人に捨てさせられたか、自分で捨ててしまったのだろう。

ぶっ壊すのは楽しいし簡単だ。
だからつい、人の物やみんなの物までぶっ壊してしまう。だから怒られる。
そして、壊してはいけないと学習する。
一見正しい刷り込みだ。

でも本来学ぶべきは、
“他人の物”は“同意なく”ぶっ壊してはいけない
であって、決して、
ぶっ壊してはいけない
という大雑把なものでは無いはずだ。
でも、教えるのが難しい、もしくは面倒くさい、あるいは教える側にもとにかく壊すのは悪だと刷り込まれてしまっているせいで、一括りに禁止してしまってるのでは無いだろうか。

「離」にしてもそうだ。
最初からすごいものなんて作れるはずがない。でも前例をぶち壊す以上はそれを超えるものを作らないといけない、みたいな高いハードルを作りたがる。
良いんだよ。自分さえ満足できれば。ショボくても。
それが、次はもっと良いものを作ってやるというモチベーションにつながるんだ。

じゃあ、僕が子供たちにそれらを教えられたかというと、まったく自信がない。
つい、お父さんならもっと凄いのを作れる!と、子供と張り合ってしまって意欲を削いでしまっていた。これはめちゃ反省点だ…

社会に出ると、先人が積み上げたものを時代の変化に合わせてぶっ壊さないといけないケースがままある。
けっこう責任を感じる仕事だ。

そんなとき、僕は自分を奮い立たせるために心の中である歌を歌う。

それは、∀(ターンエー)ガンダムの最終話のエンディング曲の「限りなき旅路」の一節だ。

守るべきものなど何も無い
壊されるべきものだけがただ
僕のこの手にいつもある

僕はこの気持ちをずっと大切にしていきたいと思ってる。


こんな人ばっかりだとマズイけどね笑

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