「小説 名娼明月」 第67話:曇りなき明月

 「父を失い、旅に出て母を失い、良人(おっと)と死別し、世にありとあらゆる辛酸を嘗めて、今また悪漢の手にかかりて女郎屋に売り込まれた。もはや尽きしと思いし悪業(あくごう)、いまだ、なかなかに尽きしとも見えぬ。
 どうせ死したるも同じき命である。思い切って、この家に踏み留まろう。そうして、親切なる主人(あるじ)夫婦を親と頼んで仕ゆる傍ら、仏を念じて悪業(あくごう)の消滅を願おう」

 と、お秋は、越し方を案じ、行く末を思うて枕を濡らしたが、微睡(まどろ)みもせぬうちに夜は明けた。主人夫婦と朝飯(あさげ)も終えた。主人夫婦が朝飯の後の楽しき語らいを為しいるを幸い、お秋は昨日の礼を述べ、自分の昨夜定めし決心を切り出した。

 「もはや良人に別れ、両親に別れて、今は浮世に何の望みも頼みもなき身。よしお言葉に甘え、今より、はるばる備中の古郷へ帰ればとて、雨に風に、昔のことのみ思われて、行く末永き世を暮らさねばならず、それを思えば、生まれ古郷に向かうことながら、足も進みませぬ」

 と、お秋は、自分の決心の程を詳しく語り、

 「自分も、ここの抱女(かかえこ)の一人にしてたまわれ」

 と願った。
 お秋の余り思い入ったる言葉に感じて、主人夫婦は、ただ顔見合わして、しばらくは返事もできなかったが、ややあって、主人は膝を進めた。

 「そのお心のほど、私ら夫婦にとりて、ありがたき限りではあれど、とにもかくにも、まず一度は故郷に帰りたまえ。それで憂き事の忍び難き時は、失礼ながら、娘とも、客分ともいたして、私ら夫婦がお世話いたしまするほどに、何時(なんどき)にても、ご遠慮なく、ここに返り来たまえ」

 と、夫婦口を併せて説いてはみれど、お秋の決心は少しも動かぬ。

 「私ごとき、不束女(ふつつかもの)にて勤まらぬとならば、致し方もなけれど、さもない限りは、この切なる思いを聴き届けたまえ」

 と言って、一歩も退かぬ。
 固きお秋の決心の辞色(じしょく)に現れて、もはや動かすに由無(よしな)きを、主人夫婦は見てとり、

 「なお、これについては、考ゆることもあれば…」

 と言って、返事を明日に延べた。
 それから夫婦は、さまざまに、お秋の身の上について評議を凝らしたが、到底お秋の決心が動ぜぬ以上は、お秋の望みを叶えるより外に途はない。と、想ってみれば、お秋も不憫な者である。

 「六十余州、どこに我が身を托すべき所縁(ゆかり)もない。古郷とはいえど名のみである。なるほど、古郷に帰りたくはあるまい。もっともである。
 馴れぬ女郎の勤めであれば、辛くないこともないであろうが、ここを出たからとて、またいかなる憂き目をみるやもしれぬ。
 自分ら夫婦の側に置けば、どうでもして劬(いたわ)ってゆける。
 真実我が娘同様にしてやったらば、お秋もさぞ喜ぶであろう」

 と、主人夫婦は、とうとう、お秋の望みを容(い)れて、自分の楼(うち)抱女(かかえご)の一人にすることとした。
 曇りなき秋の月の実名に因(ちな)んで、源氏名を「明月」と呼んで、薩摩屋から現れることとなった。
 深窓に人となりしお秋、今は粉黛(ふんたい)の色鮮やかに、綾羅(りょうら)の袂打ち返す身となって、一層の妍(けん)を加え、どこともなく冒し難き品格は、忽(たちま)ち廓(くるわ)中の評判となり、これまで盛名詠われし遊女の名も忽ち消えて、美人明月の名ばかり高くなった。
 姉女郎に厚く仕え、妹女郎を親しく愛(いつく)しむところから、薩摩屋の女郎一として、その徳に化せられぬ者はない。

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