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「傲慢と善良」は私自身に重なって、深く胸に刺さりました

サヤに借りた「傲慢と善良」
読み終わりました。

いろいろ考えさせられる本でした。

主人公の真実(まみ)は自分を主張しない、親の人形のような女の子。(以下ネタバレになります)

私は何となく若い頃の自分と重なって気分が重くなりました。

真実は、彼と結婚したいために一世一代の芝居をします。
なかなか結婚に踏み切らない彼に対して、架空のストーカーを作って結婚を迫るのです。すごいなあ。

真実は二年の付き合いだけれど、私は八年付き合ったな。

私の場合、夫は同じ高校の1学年後輩で、彼は一浪して私とは違う大学に行ったの。
違う大学に行ったけど、同じ英会話教室に通ったりしながら、毎日のようにデートした。

私が教師になった時は、彼はまだ大学生で、私が教職3年目にストレスからパニック障害になった時は、彼はまだ会社に勤めて1年目だった。

小説の真実は嘘の芝居で彼に「この子を一人にはしておけない。結婚しよう」と決心させる。

私の場合は本当にパニック障害になってしまったけれど、それが引き金で彼が結婚を決めたのは間違いない。
まだ勤めて一年だったのに無理をさせた。

普通に私が教職を続けていたら、まだ就職したばかりの彼は結婚を先延ばしにしていただろう。
そうしたら、8年も付き合ったあと、長過ぎた春で別れていたかもしれない。
今、考えると当時は辛くてたまらなかったパニック障害が全ての幸せを引き寄せてくれたみたいだから不思議。


小説の真実は、真面目で善良そのもの、親から良い娘と言われるためだけに生きている。親の価値観の元で。いつの間にか自分も親の価値観を受け継いでいる。

真面目で善良そのものというのは、なんて小さな世界で独断と偏見に満ちた価値観を持っているのだろう。
善良というのは、一種の傲慢なのだ。

私は小説を読みながらだんだん苦しくなった。

今まで善良はただ良いことと思ってきたけれど、善良とは一種の傲慢なのかもしれない。

阿佐ヶ谷姉妹に憧れる私や友人のリオさんは、いつものほほんとして、それはそれで自分たちは善良な市民だと思い込んでいる。
私は人を傷つけたりしない。
回りの人に気を配っている。

そう思い込んでいる。

本当にそう?

私の善良は傲慢なのではないだろうか。
天然とよく言われるが、それは自分の独自な価値観から離れられない為に人を傷つけているということかも。

傲慢にバッサバッサと人の心を切っているのかもしれない。善良という名の刀で。

小説の中盤まで、真実のことが嫌でたまらなかった。自分に重なっていたんだろう。

でも、後半はいろんな人達の価値観に気付いて、親の独断的な小さな世界の価値観にも気がつき、真実は変わっていく。
最後のシーンは涙が止まらなかった。

如才なくカッコいいと思っていた真実の彼もまた、ただの鈍感力の強い男の人だったと気がつき、だからこそ愛おしくなる。

小説を読みながら、やっと私も真実のことを受け入れ、自分のことも受け入れられるようになり、苦しさが消えた。

善良だと自分で思っている私は、すごく小さな世界を大事にして、偏見に満ちた傲慢な人間なのかもしれない。

全くの悪人が存在しないくらい、善人も存在しないのだ。
自分が善良だと思う時点で傲慢だ。

小説のもう一人の主人公、架(かける)は夫に似ている。
頭がよくて如才ないように見えて実は鈍感なのだ。

夫は高校生の頃から「まりりんは、心がきれいだ」という。
私が善人だと信じ込んでいるんだろう。こんなに自分勝手なのに、、

夫の鈍感力が可愛い。
裏切らないように私は善良なまりりんで在り続けたい。

イイコぶりっ子になるのかもだけど、仕方がない。

夫が願う善良な人間に成るべく、私はバレエやヴァイオリンで、天使に成るための修行に励んでいるのかもしれません。

義母はいつも回りの人に気を配る観音様のような表情の優しい人でした。
夫はその面影を私に求めているのかな?

夫のためにも、善良であるように努めよう。
たとえそれが傲慢と言われても仕方ない。
天使にならない限り、完全な善人なんて人間には無理だもの。

サヤから借りた小説は、深く胸に刺さりました。

サヤ、どんな意図で貸してくれたのかしらん?

私はもう63歳。
性格はたぶん変わらない。
傲慢な善良さを掲げて天然と称し、これからも生きていくだろう(他の生き方を知らないの)

不思議なことにそんな私を可愛いらしいと言ってくれる奇特な天使たちが時々出現する。
貴重な奇特な天使の方たち。

私はこれからもいろいろな天使に囲まれてのほほんと生きていきたい。

いつかは私も天使になれますように。


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