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「お茶と情けはこいごいと」-エッセイ-

〜50音でつづるエッセイ〜
今週は「お」から始まるテーマでお送りします♪

日本にはお茶に関することわざ・慣用句、伝承などが色々とありますね。

たとえば「お茶を濁す」「お茶の子さいさい」「へそで茶を沸かす」辺りは知ってる方も多いのではないでしようか?

全て挙げ始めるとキリがないくらい、お茶にまつわる表現は多いです。

そもそもお茶の文化はいつからあるの?


お茶の文化が日本に入ってきたのは、遣唐使の制度があった奈良〜平安時代頃。

最澄や空海などの留学僧が、唐の国(中国)からお茶の種子を持ち帰ったのが始まりだと推定されています。
当時の唐では、お茶は嗜好品というよりは薬として服用されていたそうです。

日本最古の茶畑が滋賀にある

実は……この辺りの言い伝え、私の故郷でもある滋賀に縁があるんです。

滋賀県大津市の坂本に、日吉大社という神社があるのですが、そこに伝わる『日吉社神道秘密記』(安土桃山時代にまとめられた言い伝え集)には、最澄が805年に唐より茶の種を持ち帰り、比叡山のふもと(坂本地区)に植えて栽培したことが記録されています。

しかも!
その日本で最初の茶畑は、現在も坂本地区に「日吉茶園」として残されています。 

別に有名なお茶の産地とかいう訳でも無いので、初めて知った時にはびっくりでした。
正直、県民でも結構知らない人が多いと思います……(私だけ?!)

日本で最初のお茶のもてなし 

唐の国では薬として服用されていたお茶ですが、日本ではお茶をおもてなしとして振る舞う文化がすぐに生まれました。

平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後記」には……

815年4月15日唐崎行幸の途中、嵯峨天皇が梵釈寺(大津市滋賀里)を過ぎたところで、永忠(えいちゅう)から茶のもてなしを受けた

という記述があります。

これが、文献に残る日本での喫茶の記録第一号だそうです。
最澄が805年に唐からお茶の種を持ち帰って日吉茶園にお茶を植えてから、10年後くらいの出来事ですね。
……意外と早い!

お茶の逸話と言えば「三献茶」

滋賀で、お茶のおもてなしの逸話として最も有名なものと言えば、やっぱり石田三成の三献茶の話じゃないでしょうか?

実は私……三成さん、わりと好きなんです!

性格悪いとか嫌われてたとか人望が無かった人物として有名ですが、あの人は真面目すぎて融通効かなくて不器用なだけなんだと思います!(全然フォローになってない)

前置きが長くなりましたが。
うっかりと「い」で語れなかったので、大目に見てやってくださいね。

三成さんと三献茶の話

三献茶って言うのは、まあざっくりと言えば、三杯のお茶のこと(色々掘り下げるともっと深い意味もあるのですが、ここでは割愛)。

秀吉との馴れ初めや三成の出世話として有名なエピソードです。

秀吉が長浜城主になって間もない頃のこと。
鷹狩りの帰りに、喉が渇いた秀吉は、ある寺(滋賀県米原市にある観音寺)に入り、お茶を所望しました。

その寺に小姓として奉仕していた三成は、お茶を入れて戻ってきます。
秀吉の前に出されたのは、大椀に並々に注がれた温いお茶でした。

酷く喉が渇いていた秀吉は、ぐいっと一気に飲み干し、更にもう一杯持ってくるように言います。
すると今度は、中椀に少し熱いお茶が出されました。

それも一気に飲み干した秀吉は、またお茶を所望します。
次に出されたのは、小椀に注がれた熱いお茶でした。

なぜ、このようにお茶を出したのかを秀吉は三成に聞いてみました。

すると三成は、「最初は喉を潤したいから一気に飲める温いお茶を、2杯目は少し喉が潤されたからさっきよりも熱めのお茶を、3杯目はお茶を楽しめるように熱いものをお出ししました」と答えました。

その言葉に感銘を受けた秀吉は、三成を自分の小姓として自分の側に置いたと言われています。


残念ながら、この話は後世の創作であり実話ではないという説が有力です。

でも、三成はそんなエピソードが生まれるくらい、細やかな心遣いが出来る人だったのだろうなと思います。

吉継と茶会の話も捨てがたい!

実は、もう一つ。
この話より好きな三成とお茶にまつわるエピソードがあるんです!

……というか、この話で三成が好きになったと言っても良いくらいです。

こちらは、盟友とも唯一の友とも言われている大谷吉継との話です。

三成と吉継が同じ茶会に参加したときのこと。

吉継は「らい病(現在でいうハンセン病)」という病気にかかっていました。
らい病は当時の日本では不治の病とされ、皮膚に結節や斑紋ができることから、人々から忌み嫌われていました。
感染力の低い病とはいえ、当時は医療知識が十分でなく、感染を必要以上に恐れられていました。

その茶会でたてられたお茶を、参加者が順番に飲んでいたとき。
吉継の顔から膿(うみ)が垂れ、茶碗の中に入ってしまいました。

当時の茶会では、たてられた一杯のお茶を参加者の間で回しながら少しずつ飲むのが作法とされていました。
……が、吉継の膿が茶碗に入ってしまったのを見た参加者たちは気味悪がり、回されたお茶を飲もうとしません。
周りの心ない反応に慣れていた吉継とはいえ、この状況にはきっと居た堪れない思いでいたと思います。

そのとき、三成がそのお茶を平然とした顔で飲み干し「おいしかったので全て飲んでしまいました。もう一杯たてていただきたい」と言ったのです。

この一件に吉継は大変心を打たれ、石田三成の人間性を高く評価して信頼したと言われています。

まあ、このエピソードも、書物の内容と史実の間に矛盾があるため信憑性は低くく、創作だと言われてはいるんですけどね。

でも、吉継は石田三成のたった一人の友達としても知られている人なので、このくらいの出来事があったとしても不思議ではないと思います。

ちなみに、この吉継さん。
「家康に対して挙兵しよう!」と持ちかけた三成に吉継は「無謀だ。勝機はない」と3度も説得したものの、三成の固い決意を知って、敗戦すると分かってながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じて、西軍に与したそうです。
三成さんの数少ない味方は、何というか義理堅く人情味溢れる感じで、やっぱり好きだなぁと思うんですよね。



タイトルの「お茶と情けは濃いごいと」の意味は、『薄いお茶を客に出すのは失礼にあたる。 お茶も情けも濃い方が良い』という意味の言葉です。

お茶というより、後半はなぜか石田三成がメインになってしまいましたが。
少し脱線しつつ、やや濃いめにお送りいたしました。

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