M-1グランプリの功罪と存在意義~『経済学の思考軸』深堀り記事~

リンク

 この記事では、先月に引き続き小塩隆士『経済学の思考軸』のエッセンスだけを取り出し、専門的なことを一般層に届けていくこと、特にMー1グランプリの功罪と存在意義について考えていきたいと思う。書籍のアマゾンリンクおよび先月の私の記事のリンクを貼っておく:

同じジェイラボのチームメンバーの記事のリンクも貼っておく:

私がこの本を採りあげた理由をバッチリ理解して、それに一定の理解を示しつつも、自分なりのスタンスは曲げない、という清々しく力強い文章を寄稿してもらえた。まさに紹介した甲斐があるというものである。

Mー1グランプリの功罪と存在意義

 先月の記事では私の趣味の一つである「鉄道旅」を採りあげ、鉄道に無関心な一般利用者が大勢いるからこそ鉄道オタクは趣味を享受できている、という話をした。ここではもう一つの私の大きな趣味である「漫才」、特に「M-1グランプリ」に絞って話してみたい。

Mー1の功罪

 M-1グランプリとは、毎年12月末に「漫才頂上決戦」と題して開催される、結成歴15年以内ならプロアマ問わずエントリー可能な漫才のコンテストである。関西では毎年30%以上の視聴率を記録するなど注目度も非常に高く、準決勝以上に進出すれば漫才師(あるいはテレビタレント)としての将来が明るく照らされるという、非常に夢のある大会である。

 一方で、栄光ある勝者が生まれる裏には、比較にならないほどの敗者が存在する点も見逃してはならない。昨年度は8000組を超えるコンビが参加したが、その97%は日の目を見ることなく2回戦以下で敗退している。準々決勝以上まで勝ち進める残り3%のコンビであっても、思ったほどの結果が出せないことを憂いてか、出場資格とともに目標を失ってしまってのことか、最近はM-1の後に解散を選択するコンビが後を絶たない。

 本来は自由なはずの漫才が競技化されることで生じる序列的なものについて憂う向きも少なくない。実際、芸人の中にも「点数なんか付けられない」「人のネタにああだこうだ言いたくない」といって審査員のオファーを断る人もいる。若手に偉そうなことを言っているお前のネタはどうなんだ、という目で見られるようになることを考えれば、同業者としてそういうことをしたくないという気持ちはよくわかる。ただ、僕から言わせればそんなのはただの甘えである。

Mー1が生まれた経緯

 そもそも、Mー1グランプリが生まれた経緯を皆さんはご存じだろうか。1980年頃、やすしきよし、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、紳助竜介、サブローシロー、阪神巨人らが牽引役となって「漫才ブーム」が起こったが、数年もしないうちに収束してしまった。当事者たちの中にはテレビタレントとして活躍し続けるものもいたが、それとは裏腹に、漫才に対する世間の熱は完全に冷え切ってしまった。NSC(吉本の若手養成学校)開校以来、ダウンタウン、ナインティナインといったスターが爆発的な人気を博していったのに乗じ、若手芸人をほぼアイドルのように売り出すプロジェクトも始まった(吉本天然素材)。若手の劇場では、若い女性ファンが客席のほぼすべてを占め、芸人が何をやってもウケてしまう。徐々に芸人は漫才を作り込むことをやめ、ダウンタウンかぶれの適当なエピソードやフリートークばかりを披露するようになる。そうした質の低下を懸念して、彼らの主戦場だった心斎橋2丁目劇場やbaseよしもとでは「漫才禁止令」が発令されるまでに至った。当時の若手漫才師の代表格で、Mー1の初代チャンピオン、今や審査員を務める中川家であっても、その流れのまま劇場を去らざるを得なくなってしまった。そんな危機感の中でなんとか漫才を盛り上げようと、当時の吉本社員である谷良一氏と、かつて漫才ブームを盛り上げた島田紳助氏が中心となって企画したのが、まさにMー1グランプリなのだ。

 Мー1の誕生によって、当時流行っていた爆笑オンエアバトルで披露されたような幅広い層に伝わるポップな漫才だけでなく、どことなく地下臭のするコアで独特な漫才までもが広く世の中に出るようになった(笑い飯・千鳥・麒麟がその代表格と言えよう)。お笑い界の重鎮による厳しい目で審査がなされ、数々の批判を受けながらも、時に多くの人を唸らせる名作漫才が生まれてきた。決勝でスベれば予選の健闘もむなしく「日本一おもんないヤツ」という烙印を押されかねないリスクを背負ってまで「戦場」に向かい、自らの可能性を広げようともがいた漫才師の姿があって初めて、漫才文化はかろうじて演芸としての市民権を保ち続けることができたのである。劇場に足を運んでまで漫才を楽しんでくれる人というのは、そういった不断の努力によって地道に獲得していくものなのだ。

熱狂的なファンだけでは文化は成熟しない

 Мー1では、ストレートで決勝に進んだ9組に加えて、準決勝で敗退した20組前後のコンビたちが残り1つの椅子を争う敗者復活枠がある。2022年までの大会では、生放送をリアルタイムで見ている視聴者が100点満点で採点をしつつ、最終的に気に入った3組に投票をする、という仕組みだった。放送時点での全国平均点が本番でも公開されていたが、大半のコンビが80点台に落ち着いていたと記憶している。敗者復活戦からわざわざ観戦して採点までするような筋金入りのファンならば、M-1の決勝でどれくらいの得点がどれほどの意味を持つかという相場も把握しているはずだから、要するに彼らは「そこまで面白くない」と感じた、ということになる。予選では爆笑をかっさらってきたはずのコンビであっても、たいていの人にとっては「そんなもん」なのだ。もっというと、いくら関西での視聴率が30%を超えているとはいっても、逆にいえば70%の人は見ていないのだ。笑いの本場とされる大阪であっても「そんなもん」である。

 決して漫才に価値がないといっているわけではない。むしろ僕の漫才愛はなかなかのものだと自負している。だからこそ冷静でいなければらないのである。活躍している芸人がいるからこそ、くすぶっている芸人でもお笑いを続けていられる。くすぶっている有象無象の芸人がいるからこそ、活躍している芸人の評価が高くなる。このへんは持ちつ持たれつの関係なのである。その構造をわかりやすく提示する上で、Mー1は計り知れないほど大きな意味を持っている。「Mー1によって漫才の自由さが失われるかもしれない」という問題意識はただの平和ボケである。漫才を愛している人こそ、「M-1がなければ漫才を自由にやる(観る)ことすらできなくなるかもしれない」ことをわきまえておかなければならないのだ

最後に

 本来は、Mー1のあとで数学を教え伝えることについても書くつもりだった。締め切りとの戦いに負けたのが本当のところであるが、最初に記事を引用したHiroto氏がジェイラボ内で公開した動画を見て別途記事にしたいことがあるので、そっちで思う存分書くことにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?