『経済学の思考軸』 フってフってオトさないこと。

上のリンクは、一緒に本を読んでいるチームメンバーが書いた『経済学の思考軸』の書評です。私もこの本を読んだので、note記事を、書きます。

フリとしての学問

この本では、経済学特有のものの見方と、その限界について議論されています。経済学の知識がない読者を想定して書かれているため、私のような素人でもスルッと読めました。

経済学は、時々直感的に受け入れられないような結論を導くことがあります。それらを持ち出して「経済学は役に立たない!」と言ってしまうのは簡単なのですが、本書ではそういった態度も無理はないと理解を示した上で、それでもなお経済学がどのような価値を世に提供するのかについて論じられます。

ここから書いていく内容はなんというか、最近私が実行しようとしている世界の捉え方が大きく反映されたものになるかと思います。むしろ、この本について直接はあまり触れません。この本の態度が私の最近の考え方といかに共鳴したのかを語ります。

そのために、少し前までの私はまずどんな人間だったのかについての説明が必要です。興味ないと思いますが、しばしお付き合いください。

それでは、少し前までの私に早速思想を開陳していただきましょう。

「ルールには絶対に従うべきだ」
「白黒ハッキリつけるべきだ」
「論理がすべてである」
「数学にお気持ちは要らない」

すみません。もっと喋らせたかったのですが、もう黙らせます。ちょっと聞くに堪えない。

少し前までの私は、一つの軸に絞ったらもうその中しか見ませんでした。ルールを提示されたら、ルールに形式的かつ盲目的に従う。その外の事情なんて、知ったことではない。論理だって一つのルールです。お気持ち?黙って論理を追えよ。曖昧なことを言うな。白黒ハッキリせよ。お前のしたことは悪じゃないのか?少なくとも私はお前より善だ。みたいな。

視野狭窄です。ずっと脳の中のおとぎ話の中に閉じ込められたお姫様。もちろんこの考え方によるメリットはあって、たとえば、私がその軸だ!と決めた瞬間からそこに全集中することができます。これは受験のときに大いに役立ちました。受験の点の大小という軸のみですべてを考える。他のことは知ったことではない。
しかし、当然ながらこれは学校や親がその外部についての世話をすべてやってくれていたから成り立っている話で、文字通りお姫様だから為せた業です。

さすがにこれからの人生、おとぎ話じゃ終われないわけで、もうすでに現時点で上のようには生きられなくなってきています。外部要素が生活の中には多すぎることに、一定期間実家を離れたりしてようやく気づいたのです。お、お、遅せぇ〜。

しかし、だからと言って単一的な軸(点数とか年収とか倫理とか論理とか)がいらないと言いたいわけでは決してありません。

そういった軸は、その軸から逸脱するものを炙り出すためのフリとして存在している。これが、とりあえず現時点での私が採用している世界の捉え方です。

つねに補集合を視野に入れながら、つねに逸脱を期待しながら、つねに予期せぬ障害の可能性を意識しながら、それはそれとして目の前のシンプルな目標を本気で追いかけようとする姿勢が、いまの私の生活スタイルには合っています。

本の話に戻すなら、著者は経済学の非現実的な仮定を、そこからの逸脱を捉えるためのフリとして活用しているように思います。そして、その逸脱を捉えるためにはまずフリとしての経済学の考え方を極限まで突き詰める必要があることを強調し、フリだから意味がないということではなく、むしろフリを徹底することの大事さを説いています。

そして一旦この態度を身につけたのなら、極論、もはやこの本の役目は果たされたとも言えます。フリだと分かっているのなら、ガチの本(外部を表向き考慮していないもの)を読めば良い。

ということで、この本は二重の意味で経済学をフリにしていると言えそうです。

  • 経済学の考え方をフリとして紹介することで、そこから逸脱する現実の問題や我々の直感に目を向ける。

  • そしてまさにその外部に目を向けるという態度そのものを伝えるために、その土俵として経済学をフリに使っている。

フリだけで、オトさない

先ほど、「学問的なものをフリとして見る態度がもう身についているならさっさとガチな本を読め」的なことを主張しましたが、その意味では、ガチな本というものはフるだけフっといてオトさないのだと言えます。オチをこちらに委ねている。

私個人としてはそういう学問的なものをフリとして捉える態度を取りたいのですが、むしろそういうガチな本を書く人には、その学問に没頭しておいてほしいとも思います。
超身勝手なのですが、専門家には視野狭窄でいてほしい。その専門知をフリとして消費し、あとはこっちで勝手に視野を広げるので。

まあこれは絶対に言い過ぎなのですが、少なくとも本などの表現物の中では、外部について語らない方がフリとして活用するのにむしろ好都合という話です。フリはフリだけで終わっていてくれた方が加工しやすく、下手に外部を考慮されると軸がブレてしまいます。

語らない部分について意識はしつつ、徹底的に語らないということ。自分が何かを表現する際にもそれを意識し、徹底的に偏ったことを表現していきたいと思った次第です。


この記事のオチ?それがなくて良いという話をしてきたんだから、そんなのありませんよ。

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