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石油と豪華客船①

 お盆休み。
 相変わらずの、どうしようもない暑さかと思えば、土日の早朝は涼しく、日中も遅い時間までクーラーなしで過ごせる、快適な夏である。
 こんな、カラダに優しい暑さ(?)の夏は久しぶりだ・・・😐
 いやいや・・・、
 とはいえ、暑い日中に外に出るのはやっぱり億劫おっくうなので、また何か書いていくことにしませう😄

 上の記事の、スピンオフ記事を書くことにします。


硬骨漢そして、油。

 昨今、様々なスタートアップ企業が世間を賑わせている感がある。
 しかし、幕末から明治初期の日本は、現代以上にキャラクターの濃い面子が彼方此方あちらこちらで成り上がろうと奮闘していた。
 浅野総一郎とその人生は、その典型的な一例だろう。

浅野総一郎(1848~1930)

 残念ながら・・・、
 彼の人生を追うことが本稿の目的ではないので、詳しくは触れない。
 現在の太平洋セメントの源流の一つである浅野セメントを嚆矢こうしとして、次々に様々な事業を拡げていった。
 のちにそれは『浅野財閥』と称されることになる。

 明治29年(1896)、彼は欧米視察におもむく。
 世界の最先端を行く欧米の実情を目の当たりにした浅野は、いくつものお土産を持ち帰った。
 まず・・・、

「これからは、石油の時代」
「国産の原油だけでは、とても間に合わない」
「海外から原油を輸入・精製して販売しよう」

 と考えた。
 何しろ、欧米では既にこの方式が主流となっていた。このやり方が経済的合理性に合致していたというわけだ。
 ここまで書いておいて申し訳ないが、石油の件は一旦脇に置いておく。
 しかし・・・、
 この事は後々響いてくることになる。

日本初の豪華客船

 『事業王』とも称された浅野は、海運業にも進出していた。
 1886年に浅野回漕かいそう店を設立し、10年後の1896年に解散させ、東洋汽船を設立した。

 これも、海運業界における雄・日本郵船に対抗するためという、如何にも硬骨漢・浅野らしい経緯である。

国内海運を独占していた日本郵船は、高い運賃を設定していた。

 設立早々、浅野はアメリカに向かい、アメリカのパシフィック・メイル社およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社と提携する契約を結んだ。
 アメリカの2社が6隻、東洋汽船が3隻の計9隻で、香港およびサンフランシスコ航路を共同運航するという内容だった。

 さすが明治の熱血漢、何から何まで動きが速い・・・。
 しかし、彼の熱血ぶりはここでとどまらず、その足でイギリスに赴き、香港・サンフランシスコ航路向けの貨客船3隻の契約までまとめてしまう。

『日本丸』
See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

 総トン数6,307tだから、現在からすると全然大きくない規模だが、当時の日本にとって、いや、太平洋航路においてアメリカ・カナダのライバルと互角以上に戦える巨船だった。
 1898年年末に第一船『日本丸』が処女航海に旅立ったのを皮切りに、翌1899年1月に同型二番船『亞米利加丸』、翌2月に三番船『香港丸』が就航した。
 1898年のアメリカによるハワイ併合など、政治的な不安定要因に悩まされつつも、東洋汽船の出だしはおおむね順調に推移した。

早速、風向きが怪しくなってきた(;´Д`)

 『日本丸』が就航してからまだ10年にもならない頃。
 20世紀に入って、まだ間もない頃。
 日露戦争前後から、いささか風向きが良くない方向に変わりはじめた。
(日露戦争では、『日本丸』級3隻は仮装巡洋艦として徴用されている)
 日露戦争終結後の1906年、提携先の一つオリエンタル・アンド・オクシデンタル社が運航を停止。
 それに先だって、パシフィック・メイル社が10,000tを超える大型船建造の計画を開始する。それだけではなく、後発のグレート・ノーザン汽船も同様に巨船を太平洋航路に投入する計画を進めていた。
 勢いよく見えるパシフィック・メイル社だが、実情は、所有する船がどれも老朽化しており、競争力に大きな陰りを見せていた。
 それを挽回するためにも、最新鋭の大型船を複数隻投入するのは急務だった。

 一方の浅野も、当然ながら両社の動向は把握し注目していたが、日露戦争中は事態を静観する他なかった。
 1902年8月30日、パシフィック・メイル社の『コリア』が処女航海のため、サンフランシスコを出港。9月19日に横浜に初入港した。
 9月6日付け朝日新聞には、

物珍しげに太平洋第一の大船に乗らんとするもの多く、先発の亞米利加丸(TKK)はキャビン客四十数名を奪われたりとのこと(原文ママ)

『亞米利加丸』は『日本丸』の同型船

 とある。
 同21日の朝日新聞にも、

食堂は一度に202人をつかしむるに足り、甲板より入る光線は各種の色ガラスを通して船室全部を照らし、その他広き談話室、喫煙室の設備は勿論、装飾も美麗を極め、流石に200万ドルを費やしたる太平洋通り唯一の評空しからず(原文ママ)

食堂でも、当時世界的に著名なシェフだったモローニの指導する最高級の料理を提供したとある。

 大きいだけでなく、これだけ豪華な設備が整っていれば、誰だって彼女を選ぶのは当然だろう。
(大きいからこそ、豪華な設備を整えられる・・・という事でもある)
 同型船の『サイベリア』が翌1903年3月に就航し、続いて型違いの『モンゴリア』が1904年4月、最後に『モンゴリア』の同型船『マンチュリア』が同年6月に就航した。

『モンゴリア』

 さらに翌1905年1月、グレート・ノーザン汽船も20,000tを超える『ミネソタ』を就航させ、やや遅れて9月に同型船『ダコタ』も処女航海に就航した。いよいよ東洋汽船も窮地に追い込まれる。
 浅野はパシフィック・メイル社社長ハリマンからこう持ちかけられる。

「『日本丸』級3隻全てを我が社に売り渡す。もしくは我が社の持ち船全てを東洋汽船が購入するか」

 明らかに足元を見られた提案だが、浅野は一旦やり過ごす。

エドワード・H・ハリマン(1848~1909)
アメリカの鉄道王の一人であったと共に、日本とも縁の深い人物だった。
Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

 しかし・・・、
 売られた喧嘩を高く買うのは、漢としての礼儀だろう。
(我ながら、完全に時代遅れ・・・デスね😑)
 次稿に続きます。

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