”私的”『太平洋の女王』史(前編)
先日、『氷川丸』の記事を書いた。
彼女は姉妹船『日枝丸』『平安丸』と共に、シアトル行き北太平洋航路を担ったが、実は、こちらは太平洋航路の花形ではない。
主役は、ホノルル経由サンフランシスコ・ロサンゼルス行き航路だった。
その航路を担ったのが『淺間丸』『龍田丸』『秩父丸』の3隻。
ふと、この航路の客船たちについて、何か書きたくなった・・・。
圧倒されるぅ・・・(´д`)
この航路・・・、
花形航路だけに、日米加3カ国の海運会社間で熾烈な競争が繰り広げられていた。
日本においては、”東洋汽船”が長らく『天洋丸』級3隻を擁していた。
しかし、カナダやアメリカのライバル各社がより大型の新鋭船を続々と投入してきたことで、彼女たちの陳腐化が目立つようになった。
とりわけ、”カナダ太平洋汽船”は、1913年に『エンプレス・オブ・エイシア』級2隻を投入し、さらに1922年には20,000tを超える『エンプレス・オブ・カナダ』を就航させた。
さらには、ダメ押しが如く、第一次世界大戦後にドイツからの賠償で入手した『エンプレス・オブ・オーストラリア(旧『ティルピッツ』)』まで送り込んできた。
独ハパク・ロイド社が南米航路用に建造を開始した彼女は、途中で第一次大戦が勃発したことで建造が中断していた。
ところが、皇帝ウィルヘルムが戦争に勝利した際の英国訪問のお召し船として工事を再開させ完成したところで、独敗戦。
第一次大戦の話はさておき、皇帝が乗船するためもあって、その豪華さは群を抜いたものだった。
彼女たちは豪華さもさることながら、その速力でも圧倒しており、日米のライバル船社の船よりもおおむね一日早く太平洋を横断した。
東洋汽船から日本郵船へ
続々と大型豪華客船を就航させるカナダ太平洋汽船の前に、我らが東洋汽船はというと、そもそも会社自体の経営体力が弱り、まさしく青息吐息に陥っていた。
そもそも・・・、
ケチのつき始めが『天洋丸』級3隻そのものだった。
確かに・・・、
日本で建造した初の10,000t超えの巨船かつ、初のタービン機関を導入し、日本造船史上に残る一大エポックメイキングとなったことに違いない。
しかし、それとこれとは話が違う。
企業規模が決して大きくない東洋汽船にとって、彼女たちは経営の大きな足枷でもあった。
『天洋丸』級は、彼女と『地洋丸』『春洋丸』の3隻から成るが、1916年に『地洋丸』が香港沖で座礁してしまい、2隻となってしまった。
彼女たちカナダ太平洋汽船の新鋭船群は、そんな『天洋丸』級にとって正に刺客の如き存在と化した。
その上、1924年に米議会で成立した『移民割当法』(俗に言う排日移民法)によって、乗客となってくれた日本人移民が激減。
紆余曲折の末に1926年、『天洋丸』をはじめとする8隻の自社船とサンフランシスコ航路と南米西岸航路の営業権を”日本郵船”に譲ることになった。
余談だが、『オーストラリア』と同じく、東洋汽船も第一次大戦の賠償としてドイツから客船を入手し『大洋丸』と改名している。
やたらと豪華な内装のために重心が高く、運行再開にあたっては一苦労だったようだ。
ちなみに『オーストラリア』も、『大洋丸』同様に重心が高い上、主機の燃費が悪すぎて故障も多く、とうとうマトモな機関に取り替える大工事を施している。
この当時のドイツ製船舶の設計は、理論ばかりが先走って、実際の運用では色々と無理があった印象を受ける。
『淺間丸』級の登場
東洋汽船が日本郵船にサンフランシスコ航路の運航権を譲渡する以前から、老朽化した『天洋丸』級に代わる新型船の建造構想はあった。
しかし前述の通り、企業体力の劣る東洋汽船では実現困難であった。
日本郵船に代わり、新型船の整備構想がいよいよ具現化していく。
ただ、英米のライバル船に比べると、一回り小さい規模となった。
これでも、日本商船史上最大であることには違いなかったが・・・。
ちなみに、下のリンクから『淺間丸』の図面を見ることができます。
最も肝心な、一等の様々な公室(食堂・大広間・喫煙室etc.)は、英仏の主要なデザイナーに依頼・発注することとなった。
『淺間丸』『龍田丸』は英国の古典様式をテーマとしたが、『秩父丸』は英仏の近代様式をテーマとしたので、両者の公室の写真を見比べると、印象が全く異なる。
さらに『淺間丸』ではロンドンのワーリン・ギロー社が内装を担当したが、『龍田丸』では日本側で内装を担った。
これは『氷川丸』でフランスのデザイナーに内装を任せ、続く『日枝丸』の内装を日本側が担当したのと同じパターンだ。
こうやって、客船の内装を設える実績を積み重ねていったことが分かる。
こうやって、ヨーロッパのデザイナーに内装を任せたのも、「一等乗客の三分の一は外国の乗客を念頭に置いていたから」と言われるが、本質的には『氷川丸』と同じく、日本の造船所などでは客船の内装を手がけるノウハウが無かったためだ。
ただ、興味深い設備として、一等に”日本間”が設けられた。
といっても、カーフェリーにあるような”和風の部屋”ではなく、玄関から始まり、複数の続き間から成る本格的な屋敷造りで、これは竹中工務店が設えた。
さらには必要な鋼材に各種機器類なども、ドイツやアメリカなどに発注している。
主機関も、スイスのスルザー社製ディーゼル機関を採用している。
姉妹船の『秩父丸』の主機には、デンマークのバーマイスター&ウェイン社製のディーゼル機関を採用している。
ちなみに、『淺間丸』に続く同型船の『龍田丸』には、国産のディーゼル機関を採用している。
船舶用のディーゼル機関は、20世紀初頭前後で実用化されたものの、1920年代から30年代にかけては、まだまだ発展途上の新しい技術だった。
もちろん、当時の日本において、ディーゼル機関の開発・製造技術やノウハウは未熟だったが、『淺間丸』においては海外製、続く『龍田丸』においては国産と、日本における造機技術の勢いある発展が見て取れる。
英米のライバル船よりも小粒ながらも、その端正な外観は最も美しいのではないかと、個人的には感じる。
『淺間丸』が処女航海に向けて横浜港を出帆したのが1929年10月11日、その後ハワイに寄港しつつも太平洋をひた走り、同24日にサンフランシスコに到着。
その日が「暗黒の木曜日」だった。
つかの間の光輝
これから太平洋戦争開戦の1942年までの13年間は、船の寿命としてみると、長命でもないが、それなりの長さではある。
翌30年4月に『龍田丸』と『秩父丸』が就航し、3隻揃い踏みとなった。
『秩父丸』だけ煙突が一本なのは、先述の通り、彼女だけ主機のメーカーなどが異なるため。
太い煙突が一本のおかげか、『淺間丸』『龍田丸』と比べて重厚な印象を受ける。
ちなみに『秩父丸』は、1989年に商船三井客船が『ふじ丸』を完成させるまで長らく日本最大の客船であった。
新鋭船3隻を揃えて、これで日本勢も「ようやく互角に戦える😄」と思いきや、それからわずか2ヶ月後の1930年6月にカナダ太平洋汽船が新鋭船を投入してきた。
『エンプレス・オブ・ジャパン』である。
総トン数26,032tと、『淺間丸』級を一気に9,000t以上も大きく突き放した。当然、豪華さ、そして速力も群を抜いていた。
ただ、世の中ウマいこと出来ているというか、日本郵船はサンフランシスコ航路である一方、カナダ太平洋汽船はバンクーバー航路と、いい塩梅で棲み分けができていた。
ただ、新たなライバルはそれだけでは無かった。
1931年にアメリカの”ダラー・ライン”が新鋭船を投入してきたのである。
『プレジデント・クーリッジ』と同型船『プレジデント・フーヴァー』である。
ダラー・ラインは、日本郵船やカナダ太平洋汽船に対して後発だった。
しかし、伝統あるパシフィック・メイル社などの航路を引き継いだだけでなく、第一次大戦中にアメリカが大量建造した標準型貨客船を安く入手できたことで、短い期間で急成長を遂げた。
ただ、急成長する会社に有りがちなパターンで、それに伴う歪みがちょうど世界恐慌などと綺麗にかち合い、彼女たち2隻の前途に暗雲が立ちこめることになる。
(本来は、さらに2隻を加えた計4隻を揃える計画だった)
世界恐慌以降、世界は着実に奈落の底に転落していく。
しかし、その時代に生きる人間にはそんな実感は無かっただろう。
「物騒な世の中になっているな・・・」
「また、遠い世界で紛争が起こったか・・・」
その程度にしか思わなかったのではなかろうか。
日米関係も、ひとまず表面上は平穏を装っていた。
だから、太平洋航路を行き来する客船群も多くの人々を運んだ。
『淺間丸』に乗船した有名どころでは、ヘレン・ケラーにニールス・ボーア、松岡洋右。『秩父丸』にはグリエルモ・マルコーニに野村吉三郎。
当時は、もちろんジェット旅客機による定期航空路は無かったので、海路が唯一実質的な交通手段だった。
しかし・・・、
平和を謳歌していた太平洋航路も、1930年代も後半に入っていくと、少しずつ雲行きが怪しくなってきた。
これだけでも充分長いですが、一旦切ります。
中編に続きます(スミマ千昌夫😅)。
そうそう・・・、
ここで一冊、本を紹介させてください😄
『天洋丸』級に『淺間丸』級、『エンプレス』級などをはじめとして、北太平洋航路の歴史を詳述した名著です。
たくさんの写真や図面も掲載されており、船の歴史好き垂涎の逸品です😋
(今回紹介したフネの配置図・写真は、ほとんど載ってます😄)
記事を読んでくださり、ありがとうございます。 気に入っていただければサポート宜しくお願いします!! いただいたサポートは、新しいネタ収集の資源として使わせていただきますだおかだ(´д`)マタスベッタ・・・。