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石油と豪華客船③

 前回からの続きです。


心配する人々・・・。

 現代なら、『世界最大の豪華客船を建造する』というニュースが出ると、「どんな設備が整えられるのだろうか」とか「いつ就航するのか」「運賃はどれくらいの金額だろうか」といった前向きな話題が続出するだろう。
 一方、浅野(東洋汽船)が発注した豪華客船に対しては、前向きどころか懸念を示す者が多かった。
 前稿のとおり、東洋汽船が発注した先の三菱長崎造船所はこれまで10,000tを超えるフネを建造した経験がない。
 そもそも、日本の近代造船が歩み始めてまだ数十年。
 欧米の先進国にまだまだ技術面で追いついていない中で、いきなり先進レベルのフネを建造しようというのだから、不安しかなくて当然だろう。

 大きさもさることながら、主機関に採用した蒸気タービンについて簡単に触れておく。
 蒸気タービンとは・・・、

  1. 燃料を燃やしてボイラーを加熱して蒸気を発生させる。

  2. 発生させた蒸気をタービンに送り込み、タービン内部の翼車を回転させる。

  3. 駆動するタービンは減速機を介してプロペラを回転させる。これで船が前進する。

 当時一般的だった舶用機関はレシプロ機関だったが、浅野はタービン機関の利点について東洋汽船の株主総会で、こう説明している。

「タービンは振動が少ない
「石油は船内容積が少なく済むので、荷物が余計に積める」
「タービンは火力に狂いがなく、石油の値段も安い

 「振動が少ない」のは、乗客の快適性が必須である客船にとって、極めて大きなメリットである。
 しかしそれ以上に、石油のメリットが大きかった。
 当時、船舶燃料の主流であった石炭よりも、石油の方がコストが小さく済むと弾き出している。
 浅野は、横浜・保土ヶ谷の製油所で精製した重油を燃料として新たな客船を走らせることを目論んでいた。

 株主への説明では触れていないが、タービンはレシプロに比べて信頼性が高い構造でも優位にある。
 その他、高温高圧の水蒸気を発生させられるなら、どんな燃料でも問題ない。重油でなくとも石炭でも良いし、極端に言えば、核燃料でも差し支えない。

原子力発電所の基本原理は、まさに蒸気タービンそのもの。

もちろん、明治期に核燃料なる概念すらなかったが・・・。

 重油が手に入らない状況であれば、とりあえずは石炭で走らせることも可能なのである。

 ただ・・・、
 株主の心配は、新しく建造する客船以上に、東洋汽船そのものにあった。
 海運業界の雄である日本郵船に比べて運航する航路数が少なく、会社の規模も小さい東洋汽船が、世界屈指の大型客船を同時に3隻も建造して運航できるだけの体力があるのだろうか?
 株主の心配が杞憂きゆうに終わらなければ良いのだが・・・。

フネを造る前に、たくさんの買い物。

 1905年、三菱長崎造船所において、東洋汽船が発注した2隻の客船が同時に起工された。
 この時点で、同造船所は大小7基の船台を備え、従業員も10,000名を超えようとしていた。まさしく、東洋一の大造船所に発展していた。

2011年撮影の三菱長崎造船所(の一部)
右端に、今では世界遺産である1909年購入の英国製100tクレーン。
その足元には『タービン工場』の看板が見える。

 さりとて、造船所の規模と技術力は必ずしも比例するわけではない。
 船の図面を引けても、実際にその通りに建造できるかどうかは別なのだ。
 幸いというか、長崎造船所においては大型客船を建造できる程度の技術力は身につけつつあった。
 問題は船そのものではなく、それを形づくるための数多の資機材だった。

 前稿『石油と豪華客船②』で触れたとおり、東洋汽船は三菱にタービン機関や鋼材などを欧米から輸入して支給した(”船主支給品”という)。
 これは、建造費用を少しでも圧縮する目的であったが、国内において、これらの資機材を調達できないことの裏返しでもあった。
 「まだまだ登場間もないタービン機関ならさておき、鋼材も?」と思われる向きもあるだろう。
 しかし、国内における近代的な製鉄業が産声を上げて、まだ数十年しか経ていない。ようやく釜石鑛山田中製鐵所の運営が軌道に乗り始め、官営八幡製鉄所に至っては、操業を開始して間もなく、試行錯誤の段階だった。
 信頼できる舶用鋼材は、海外から輸入するしかなかったのだ。
 東洋汽船が海外から購入した材料にかかった費用は、およそ1,514,000円になった。

 長崎造船所が弾いた見積価格は、当時の金額で1隻4,274,000円だった。
 これには材料費も含まれるから、東洋汽船が三菱に支払った金額は、ごく単純にいうと、2,760,000円に収まったことになる。
 さらに東洋汽船は、この豪華客船建造に際して『造船奨励法』の補助金(20円/1t)を受けている。
 浅野が豪華客船建造を決断した背景には当然、この法律があっただろう。

いよいよ・・・。

 多くの資機材を海外から輸入に頼る一方で、肝心の船体そのものは大きなトラブルなく建造が進められた。
 先にも触れたとおり、当時の長崎造船所は7基の船台を有していたが、その全てが建造途中の商船や艦艇で埋まっていた。
 そんな忙しい中で、これまで経験したことのない規模の大型船建造に取りかかることが出来たのも、創業以来数多の困難を乗り越えて着実に技術力を高めていった賜物といえよう。

 初の10,000t超えの大型船だけあり、起工から進水まで約2年を要している。
 しかし、同時建造していた他の小さな船と比べて、極端に工期が長いわけではない。
 初めて取り組む大型船に様々な試行錯誤はあっただろうが、おおむね順調に建造できたといえるのではないだろうか。

 浅野は生まれてくる客船のために『易経』から文字を引いて、一番船に『天洋丸』、二番船に『地洋丸』、そして追加で発注した三番船にしん洋丸』と名付けた。

 巨船の誕生は、間近に迫っていた。

 今回も、こちらの本を参考にさせて頂きました。

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