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【与太話】他人と暮らすのが楽しくなるまでの話

はじめに

カイト氏とはお試し同居期間を含めると丸2年ほど同居しています。もうそんな経つか!早いな!

就職を機にひとり暮らしを始めて10年弱、気楽さ・静かさ・誰に気を遣うことなく誰にも怒られない生活が大層気に入っていました。家事は自分が困らない分だけ、片付けは誰か訪ねてきたときに誤魔化せる分だけ(笑)できておけばいいし。

なのでいよいよ結婚も視野に入れないといけないなぁと思った当初はそもそも他人、それも長く知り合ったわけでもない異性と一緒に生活なんて無理だろ?!
さらに特別したくもない性行為というオプションが当然あるものとして相手探しをしないといけないなんて!とそこでいつも考えるのを一旦やめていました。「普通」「世間一般」って意外とハードル高いぞ、と。

今回はそもそもなぜ私が他人とそんなに距離を詰めたくないのか、ルーツ的な部分を今まで事あるごとに出てきた毒母のエピソードに絡めてまとめます。
また、そこからどのように今の生活に順応できるようになったのかを個人的な体験談として記していきます。

※注意
幼少期の家庭環境やそれ以降の性被害体験の影響で、性嫌悪があったり性的なやりとりがダメになったりすることが少なからずあるんじゃないかなと思います。
私の体験は子供同士の話で記憶も曖昧なので、それほど大袈裟なものではありませんが念のため、家庭内のトラウマや性被害体験に掠った程度の内容があります。苦手な方はご注意ください。


①性的な行為=愛情からくるって考え方に疑問

度々話題にあげていますが、私はドがつく田舎の限界集落出身です。それでも子供のころは登校班(今もあるのかな?)が作れるぐらいは年齢の近い幼馴染がいました。

親同士も幼馴染だったり家ぐるみで付き合いがあるので、「将来うちに嫁にこんか?」「○○と結婚せんか?」という親からの冗談も日常茶飯事でしたが、なんとそれを真に受けたのか(笑)、勝手に私を許嫁扱いしてくる男児がいたんですよね。

質が悪いのは、彼が小学校低学年ながら中途半端に「好きな子には触りたい」「恋人同士はキスをする」「大人にバレると面倒くさい」と知っていたこと。結果、2人きりになった隙に一丁前に愛の言葉を伝え、私にも言わせ(強制です笑)、隠れてぶちゅーっとキスをするという奇行をことあるごとに繰り返していました。

それでも相手が小綺麗なお坊ちゃんならまぁ良かったのですが(良くはない)、残念なことに彼は年齢の割に口元が緩く、小学生にしてヨダレまみれ。うーん、思い出しても気持ち悪い。仮に好きでも流石にヨダレつきのキスはご遠慮願いたいところ。彼には弟がいたのですが、いつ知ったのか弟も兄の目を盗んで真似するようになりました(彼も当然、口元は緩かったです)。

逃げるとより面倒だし、大人に言っても子供のすることだからとマトモに取り合ってもらえないどころか冷やかされそうな環境だったので、彼らが飽きるまで黙っていました。幸い、短期間で見向きもされなくなりました。

今でこそ、性教育は低年齢から始めるべきという話をよく見かけますが、当時は正しい知識も配慮も全く知らず「”大人みたいなこと”がしてみたい」という好奇心を満たせる手頃な相手さえいれば、親の目を盗んで…がよくあることだったのかなと思います。特に田舎だと田んぼに落ちてたエロ本が貴重な情報源だったり。
こういった話、やられた側は結構ハッキリ覚えているし人によっては深いトラウマになるので、正しい性教育が早いうちからできるように啓蒙が進めばと個人的には感じます。

というわけで、この体験から私は
・一方的に好き=触ってOKの意味が分からない
・特に素肌(や粘膜)の触れ合いは綺麗だと思わない

の2点がインプットされたのでした。

思春期に入ると第二次性徴で身体的な変化が出てきますが、私の場合は元々が貧相な体形だったこともあり外見で目立った変化はほぼありませんでした。もはや母親ですら嘆くレベル(笑)。
今でこそ誤魔化す手立てはいくらでもありますが、当時は授業前後の着替えが週に何度かあり、女の子同士の比べ合いなんてのもあって苦痛でした。汗っかきだし、体臭で不快にさせないかも気を遣ってました。

・いわゆる”女性的な身体”でないコンプレックス
・他人に粗末なものは見せられないなと思う気持ち

はこのあたりでハッキリ自覚していたと思います。

そんなこんなで10代終盤には同性の恋人ができた時期がありました。私は前述のとおり体形や容姿にコンプレックスを抱えていましたが、お付き合いしてくれた方もベクトルは違えど同じように、もしくはさらに深い悩みがあったようです。
結果、会うたびに性的な接触をすることでお互いに自尊心を満たし、共依存的な関係になることが常でした。
学生だったのでもっと健全なデートはいくらでもできたはずなのに、部屋にこもって「まだ求められている間は大丈夫か」と思えることを糧にしていました。

一方で、同性同士の恋愛なんて長続きするはずがなく、学生時代限定の関係で終わるんだろうなとどこか冷めた感情も常にありました。いつも最後は何かのきっかけで将来のビジョンが悲観的になり、喧嘩別れしてしまう…というパターン。
この”恋愛ごっこ”が、子供の頃にされていた好奇心のみのキスと同じようなことじゃないかと感じ、自己嫌悪にもなっていました。

・あくまで私の中では、性的な行為≠純粋な愛情表現と思ってしまった

以上のことから、稀に好意を向けてもらっても性的な接触がしたい!という欲求が見え隠れしだしたあたりで、それ以上踏み込んだ関係になる気が起きないという現在に繋がっていきます。
この影響かは分かりませんが、ボディタッチや歯の浮くようなセリフが全く響かない代わりに、蘊蓄や知性を感じるユーモアで盛りあがれるとポイント高いな!と感じます(笑)
この感情にも名前があるんですよね確か。世界は奥が深い。

ここまでは他人との性的な行為が私の人生にとって必要なことではないなと思うまでのお話でした。
ここからは結婚という信頼関係に基づく契約が自分にできるとはとてもいえないと考えるきっかけになった幼少期からの背景です。


②仲がいい家族は存在するのかって疑問

今なら客観的に見て「仲がいい」の定義に当てはまりそうな家族はたくさん知っていますが、子供の頃の私にとっては特に仲がいいとは思わない自分の両親と祖母が「家族」の全てでした。

うちの両親はそもそもマトモに会話をしません。
母親が一方的に愚痴ったり詰ったりして、「どう思ってるの?」の代わりに語尾に「なぁ?」とつくと父親が「あー」「まぁ」と一言二言。母親はさらにヒートアップ。冷めるまで繰り返す、それだけです。
祖母に対しての母親の態度はもっと悪くて(嫁姑なのに今考えればすごい)、聞こえるように「ゲスが!」と悪口を言うのが日常茶飯事でした。差別用語で罵るのが彼女の常套手段だったので、私が探し物をしていると「メクラ」、話しかけられて聞き返すと「つんぼ」、人に対して使っちゃいけない言葉はほぼ母親に刷り込まれました(笑)。

こういう状態が24時間365日ずっとかというとそうではなく、それなりに機嫌がいい日は猫可愛がりしてくることもありました。但し、何かの拍子に怒りスイッチを押してしまうとヒステリックモードに入って上記の通りになるので、できれば家の中では静かに、物心ついてからはちょっと距離をとって過ごしていました。

成績がつくようになる小学生からはいかに「うちの子自慢ができるか」が母親の命題だったようで、私の学業・クラブ活動・習い事…等々とにかく人より抜きんでていないと気が済まないようでした。
少しでも何かに劣っているとぎゃあぎゃあ怒られるので、面倒だなと思った私はどうしても誤魔化せないテストや大会の結果なんかを除いて、ほどほどの努力で適当な成果をでっちあげることに全力を尽くすようになりました。

幸い、高校受験まではド田舎の狭いコミュニティが競争相手だったこともあり、上記の作戦はなかなかうまくいったように思います。勉強するという口実で自室にこもっていれば邪魔してこないと分かってからはいろいろ捗ったので、顔色ひとつ変えずに嘘を吐くのも上手くなりました。

結局、大学まで実家暮らしで毎期ごとに悲惨な成績が送られてきていましたが(一応ギリギリ4年で卒業)、高卒の母親は成績表の見方なんてちゃんと知らないので適当な説明で納得させたのはいい思い出です。

やや話が逸れましたが、私の中では
・仲のいい夫婦像はフィクションの中にしかない
・家族団らんってなんぞや
・母親を見てると子育て=ただの苦行
・なるべくしてなった捻くれ思考、嘘つき癖(これは実家を離れてだいぶ改善しました)

なにより、
・両親の遺伝子が半分ずつ自分にも受け継がれているんだよなぁという事実

以上が別に結婚して家族が増えたところで幸せとは言い難いという考えの根底になります。

今振り返ってみるに、母親は死産・流産経験後の高齢出産ひとりっ子である私を必死により良く育てたかったのだろうことは想像がつくので、今もそれなりに元気で生きている私を見れば子育てに失敗したとは思っていないでしょう(育ててくれたことへの感謝はあります)。

が、明らかに子供の目から見ても夫婦と家族の関係構築には失敗していて、少なからずそれぞれの人格形成に影を落としているのは否定できないなと思います。

いちばんひどい荒れようだった時は、母親が運転している車内であんまりにも怒られるので、私も腹が立って走行中にシフトレバーを蹴っ飛ばしニュートラルに入れたことがあります。田舎の誰もいない道でよかったね。その時はちょっと減速しただけですぐに復帰しましたが、運が悪ければ心中するところでした。その後は当然、数日ブチ切れコース…。

結局、この件以降は”触らぬ毒母に祟りなし”を信条とすることにしています。母親も年齢的に怒る体力が落ちてきたようだし、就職を機に近県へ避難したことで顔を合わせる機会がそもそも少ないのが有難い。
というわけで、ひとり暮らしを始めてからはホームシックなんて頭に浮かぶことなく、他人の発する気配に一喜一憂しなくていいことを満喫しまくっていました。


③「普通の結婚」じゃないことに救いを見出す

実家とは距離を置いたとはいえ、母が次に目指すのはいかに娘がいい結婚をしたか、孫がいかに可愛いかを自慢しまくることであり、既にその件は前々からプレッシャーをかけてきていたので、より円満に決別するには結婚が近道なんだろうなと仕方なく婚活みたいなことを始めました。

とあるネットニュースの離婚理由に「兄妹みたいな関係になりすぎて、子供が欲しいのに身体の関係が持てなくなってしまったから(ざっくりです)」というのを見て、えーめちゃくちゃ羨ましい!!!と思ったと同時に、世の中には性行為がしたくなくて悩む人がいればしたくてもできなくて悩む人がいるんだなぁ…と視野が広がりました。

それからアセクシャルやデミロマンティックという分類、友情結婚という形を知り、劇的に道が開けた訳ですが、誰かと一緒に暮らせるのかは未知のままでした。
ただ、それまでの人生経験で、やみくもに他人と距離を置きたがる私の性格にも多少変化があり、結果として他人と同居し「家族」を名乗ることへの抵抗が減ったきっかけになりました。

その要素をひとことで表すなら、大学〜社会人として新たに出会った周りの人間関係にかなり恵まれていた、です。

特に大学の同期の女性陣はどんな育ち方したらこうなるの?というぐらい人徳の高い子が多く、その仲間に入れてもらえただけでも有難かったのですが、男性陣は先にそちらに狙いを定めるので私なんか全く眼中に入らず(笑)、恋愛感情から繋がる欲求への嫌悪感をほぼ感じずに過ごせたという副産物的な効果がありました。

しっかりした子には仲間内でそれなりに誠実な彼氏ができるもので、彼らとも交流を深めるうちに「どうせこいつもあわよくばセックス目当てだろうなぁ…」みたいな穿った見方をして、男性を極端に避けることなく付き合える友達が増えました。
男女問わず大人数で夜通し飲んでゲラゲラ喋って、疲れたら雑魚寝して朝になったらグロッキーなまま授業に散っていく…という”この状態で性的にみろってほうがお互い無理だわ”な経験ができたのも大きかったです。

また、社会人として一緒に働きはじめた女性の先輩方が人生経験豊富で、私と似たような家庭環境なのにご両親とも上手く折り合いをつけて独身のまま一緒に暮らしておられたり、はたまた結婚には早々に見切りをつけバツイチライフを満喫しておられたり(詳しくは聞いていませんが、子供をつくるか否かの段階ですれ違いがあったそうです)、様々なモデルケースを見せてもらいました。

これはたまたま配属された部署が入ってみたら激務すぎる課だった偶然によるもので、そこで働く女性陣は新たな家庭を築くこと<自分の人生を楽しむこと、にシフトされている方が多かった印象です。40~50代の面倒見がいいお姉様方にあちこち連れ出してもらい、一緒にバリバリ働くことで自分からわざわざ母親の理想に囚われなくていいのかも、と考えを柔軟にすることができました。

最悪、自分が生きていくのに充分かつ実家で何かあった時に多少援助できるほどのお金さえあれば、自立した人間同士で文句を言われる筋合いはないでしょうし。

そう考えると、仮に友情結婚という「普通」じゃない形に収まったとして誰に対しても後ろめたく感じる必要はないし、最終的に結婚しなかった、離婚した、等々どんな結果になっても自分の人生を楽しく生きるのは自分次第だなと思えるようになりました。

まとめると、
・自分と同じような境遇(この場合はセクシュアリティ)で悩む人はどこかにいる
・男女間の”友情”も成立することがある
・別に結婚することが全てではない
・あくまで自分の人生、他人に囚われても意味がない

このマインドを持てたことで、ひとまずいろんな経験を積んでみよう!どう転んでもそん時はそん時、とかなり楽になりました。

その後は別記事に書いたようにラッキーが重なりまくった出会いに恵まれ、結婚して今に至る訳です。詳しくはこちら。

他人との同居生活で個人的に意識しているのはさほど難しいことではありませんが、少なからず今までの経験が生きているなと感じる部分があります。

・経済面、生活面、その他気になったことの確認は都度しっかり会話して行う
→両親を完全な反面教師にした結果です…。一方通行でない報告連絡相談が家庭の中でも必要最低限だと思います。

・「たかが雑談」に気負うことはない
→より相手と仲よくなりたければ…の話ですが、いつまで経っても沈黙が気まずい、みたいな雰囲気は避けたかったので最初からフランクに接することを心がけました。シラフでも雑談の8割ぐらいは翌日覚えてないです。多分。

・最後は結局、自分軸で考えるしかない
→他人同士、得意不得意もあるし気になるポイントも違うので、相手が自分の生活を良くしてくれると期待しない。仮に助けてくれたら有難う!なるべく迷惑かけないからお互い様ね!の精神で。
私がやってあげなくちゃ、からのなんで私ばっかり!が重なると爆発します(母親はこのタイプ)。

おわりに

こうした経緯があり、記事の最初にあるようにひとり暮らし大好きだった私が、他人との暮らしにもそれなりに気楽さを感じられるようになりました。
個々の部屋もあるので別々に過ごす時間は静かだし、最低限の「不快にさせない」を守れば気を遣うといってもそこまで負担はありません。

私と実家との関わり方は、お互いの健康状態や生活環境の変化によってまだまだ先行き不透明な部分があります。
いつか何かしらの結論を迫られるとき、解決には至らなくても話せば「大変だね〜」と言ってもらえる相手がいる環境はそれだけでとても有難いことなので、大事にしていきたいです。

尚、年齢が近づくにつれて当時の父親にも母親にもそれぞれ似ている性格が多少なりと出てきたことも自覚しています。
個々の性格が原因の全てではありませんが、それがいかにして機能不全家族を招いたか、を自分への戒めとして整理できたところで、このお話はおしまいにしたいと思います。

同じように悩む方へ、何かの参考になれば幸いです。

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