夏目漱石と 禅 4
夏目漱石「門」 十八より(前回からの続きです)
彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師から公案の出る事や、その公案に一生懸命噛りついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言を与えた末、
「御室へ御案内しましょう」と云って立ち上がった。
囲炉裏の切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、その外れにある六畳の座敷の障子を縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。けれども頭の中は、周囲の幽静な趣と反照するためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
「老師が相見になるそうでございますから、御都合が宜しければ参りましょう」と云って、丁寧に敷居の上に膝を突いた。
二人はまた寺を空にして連立って出た。山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池があった。寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀んでいるだけで、少しも清浄な趣はなかったが、向側に見える高い石の崖外れまで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文人画にでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物を指した。
二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段を上って、その正面にある大きな伽藍の屋根を仰いだまま直左りへ切れた。玄関へ差しかかった時、宜道は
「ちょっと失礼します」と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴れて行った。
老師というのは五十格好に見えた。赭黒い光沢のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊って、どこにも怠のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生以前本来の面目は何なんだか、それを一つ考えて見たら善かろう」
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟何物だか、その本体を捕まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
晩食の時宜道は宗助に、入室の時間の朝夕二回あることと、提唱の時間が午前である事などを話した上、
「今夜はまだ見解もできないかも知れませんから、明朝か明晩御誘い申しましょう」と親切に云ってくれた。それから最初のうちは、つめて坐わるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。
宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室ときまった六畳に這入って、ぼんやりして坐った。彼から云うといわゆる公案なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴を抱いだいて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。
・・・
(引用を終わる)
※
「老師というのは五十格好に見えた。
赭黒い光沢のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊って、どこにも怠のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。」
老師というのは、釈宗演(しゃくそうえん)老師のことである。
五十くらいに見えたというのだが、以前に見たように、この時、老師34歳である。そのくらいの貫禄(落ち着き)があったということだろうが、小説としても、青年僧の老師ではあまり風情がない。四十くらいでもまだまだだ、五十格好くらいにしておかないと、どうも恰好がつかなかったのかも知れない。
「彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。」
漱石が初めて見た老師なるものの表現が見事である。禅マスターには確かにそんなところがある。
「老師が相見になるそうでございますから、御都合が宜しければ参りましょう」
老師のいる正続院と帰源院とでは、境内の中でもだいぶ離れている。宗活師が往来して、手はずを整えてくれたことがわかる。
相見(しょうけん)とは、禅の上で、弟子が師に面会することである。最初の相見のことを、初相見(しょしょうけん)と言い、改まって、これまでの経歴や、どのような目的でやって来たのかなどを尋ねられることがある。
公案は、坐禅に取り組む上での、テーマのようなものである。伝統的な禅の言葉やエピソードなどが用いられる。ただ漫然と坐るだけでは、なかなか禅を掴むことが難しい、それで一種の方便としてそのような課題が与えられるのである。
ただし、僧侶は別としても、一般の人がいきなり公案を授けられるということは、あまりないかも知れない。少なくとも、今の禅院ではそうである。もちろん、それまでに参禅の経験がある人ならば、即、参禅問答ということにはなると思うが。
明治のこの時期、円覚寺に参集してきた人々は、強者(つわもの)揃いであった。漱石さんも、いっぱしの求道者として扱われたもののようである。しかしそれは、時期尚早であった感が否めない。
現代の円覚寺では、ちゃんとそれを心得ている。参禅を希望する者がやって来ても、まず半年なり一年なり通って、坐禅に習熟するように告げられる。その熱心さが認められれば、老師に相見という段取りになるのである。ただし、坐禅会に通って来たとしても、参禅したらどうだと誰かに勧められることは決してない。あくまで本人の志があって望んだならば、ということになる。坐禅だけしたい人は、それだけで、もう十分に善いのである。曹洞宗のような只管打坐のやり方もある。
そもそも公案というのは、禅院の中で修行生活に専念しながら用いる特殊なものなので、もともと一般向けのものではない。関西(特に京都あたり)では、今でも、在家の人にやたらに公案を与えたりということは、ほとんどないようである。もちろん坐禅の仕方や呼吸法などを教えたりはするが。
一般人に公案を授けるというのは、実は、鎌倉を中心とする近代の関東禅に見られるようになった特色であると言ってよい。その始まりは、今北洪川老師が、円覚寺に居士寮を開いて、一般に門戸を開いたことによる。関東では、円覚寺以外でも、居士禅(在家禅)というのが盛んになり、公案を使う流派が一般的になった。それも時代の要請に応じたものであろう。
漱石は、宗演老師から、「父母未生以前本来の面目」を提示された。「考えてみたらよかろう」とは言わなかったはずだと思う。公案は、考えるものではないからである。父母未生以前と付されている時点で、考えることはできないぞ、と言われているのと一緒である(笑)
「本来の面目」は、以前に取り上げた六祖慧能(638-713)の言葉である。六祖以来、千数百年にわたって、禅の人々は、本来の面目(真の自己)とは何かを問い続けてきた。禅の原初からのテーマである。
六祖曰 不思善不思惡 正與麼時 那個是 明上座本來面目
(六祖のことば --- 善をも思わず悪をも思わない、分別を離れた、まさにこの時、明上座よ、あなたの本来の面目は何であるか)
「宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室ときまった六畳に這入って、ぼんやりして坐った。彼から云うといわゆる公案なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴を抱いだいて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。」
さすが文豪である。自らの状況を的確に言い当てている。しかも表現が振るっているではないか。腹痛を抱えてやって来たのに、難しい数学の問題を出されたようだと言う。これを初めて読んだとき、私は感心してしまった(笑)
禅の老師と漱石さんの間には、どうも大きな溝がある。両者はまったく噛み合っていない。
しかし実は、公案を少しばかりやって来た私にも、思い当たる節がある。若い頃の私を、漱石さんは代弁しているようでもある。
腹痛・・・苦しい苦しいという心の内、それを何とかしたいのである。いっその事、その苦しい心の本源を掴んで来い、とでも言ってくれれば良かったのだ。
わが師・鈴木宗忠老師は、初相見の私に、前置きもなく「おまえその苦を抜け」と言われた。これは公案ではないが、しかし私にとってはひとつの公案となった。
釈宗演老師は、子供の頃にお坊さんになった、稀に見る天才禅者である。本来の面目など、簡単に理解したことだろう。そこが天才の盲点になっているかも知れない。他の人でもそうだろう、とどこかで思ってしまうかも知れないのだ。
しかも漱石さんは、準備が出来てやって来たのではない、それ以前のトリートメント(方便)が必要だったのだろう。
宗演老師は、自らの体験から、最高の問題を提示した。それが老師の知っている全てであった。宗活師にしても、志気非凡な優れた人である、彼の持つ最上のやり方を指導した。それは全く正しいものだ。
しかし、漱石さんは一介の凡夫である。そんな最高のものでは、消化し切れない。
漱石の「門」は、そんな問題を提起している。それはまさに、現代人の問題でもあるのだ。はたして、その断絶を埋めるものは何であろうか?
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