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掌編『ざわざわ』

※注意
軽いホラー作品です。作中、性的描写や暴力描写がございます。苦手な方はご遠慮下さい。


 僕が初めてあなたに会ったのは雨の日だったね。
 僕は仕事の帰りで広い車の中で快適に後部座席に身を沈めていた。そう、結構良い仕事をしていたんですよ。運転手なんてつくくらいのね。
土地の開発の為、森林の整備をする。この日全ての契約が纏まり、天気とは裏腹に心の中は達成感で一杯だった。

 あなたはその日、誰かを待つように公園のブランコに揺られていた。
袖のない薄紫色のワンピースを着て黒くて長い髪をアップにして雨風に身を任せていた。洋服が雨に濡れてあなたの肌にしっとり張り付いていたせいで、あなたが下着を着けていないのが一目瞭然だった。僕は目が釘付けになった。

 雨風を気にしていないようだったけれどあなたの唇は青ざめていた。それでもうっとりとした表情をして、柔らかそうな頬だけは薄桃色で雨で少しだけ崩れた髪も官能的だった。そう、あなたは放っておけないほど美しい人だった。
 僕はあなたに声をかけた。
 僕の車にお乗りなさい、と。

 すると、あなたは僕を待っていたかのように艶然と微笑み、僕の腕の中に倒れて来たんだ。熱があった。けれど、その熱は男を誘惑する熱さだった。

 僕はあなたを自分のマンションに連れて行った。目的はもう、あなたにも分かっていたね。あなたは窓を開けて夜風を部屋に入れると僕の前でゆっくり服を脱いだ。窓に背を向けて立つあなたの裸体は幻想的なほど美しく輝いていて身震いした。ゆっくりあなたに近づき、そっとあなたの頬に触れると夢心地になって仕事の事など一切どうでもいい、とすら思えた。

 それからは無我夢中であなたを抱いた。恍惚、というのはこういう時の表現なのだ、と我知らず悟っていた。あなたのうっとりとした目蓋。薄く開いた唇。血管の透ける白い肌。その全てが僕だけの為に艶かしく蠢き、僕は狂ってしまいそうだった。やがて、あなたの吐息と夜の風が交じり合い、あなたの中で僕は果てた。

 それからあなたは夜風で乾いたワンピースを身につけ、出て行こうとした。僕は慌ててあなたの細い腕を押さえた。
「抱く以外、しないで」
 信じられないほど涼やかな声であなたは言い放った。僕は、これきりにしたくない、と必死にあなたを口説いた。
「恋人が待っているの」
 あなたは決定的な言葉を告げると僕の胸をそっと押し退け、ドアに手をかけた。それでもあなたを失いたくなくて、もう一度会えるかを聞いた。
「公園で」
 あなたはそう言い残して部屋を出て行った。

 仕事が落ち着いていたから良かったものの、あなたに会えない日々は僕の様子を明らかにおかしくしていて、周囲から心配された。病院に罹った方がいい、とも言われたが放っておいた。理由なら僕が一番判っているからだ。

 そして、とうとうあなたを公園で見つけた。
 あなたに再び会えた嬉しさで僕はその場であなたに駆け寄り、抱きしめた。確かな体温が伝わって来た。僕はあなたに口付けた。あなたは嫌がらず、むしろそうされる事を望み、僕の服をその場で脱がし始めた。

 でもあなたはどんなに夢中に事に及んでも何故か腕だけは宙を泳いだままだった。それだけがどうにも口惜しくて、僕は自分の背中に手を回して欲しくてあなたの腕を掴み、無理矢理背中に持って来させた。その瞬間、突風が吹き、僕の着ていたシャツやアタッシェ・ケースの中身がばらばらと吹き飛んだ。僕は気づかない内にあなたを突き飛ばしていた。仕方がなかった。大切な書類が入っているのだから。

 やっとの事で書類を集め終わった。
 肩で大きく息をして、はっとしてあなたの方を見やると、あなたはブランコに乗って僕の事なんかちっとも見ていなかった。
 なぜだか腹が立って僕はあなたをぶった。するとあなたは怖がるどころか挑戦的な表情を僕に向けたので感情的になった。
 あなたの服を引きちぎり、髪を掴み、無理矢理ブランコから降ろして地面に押し倒した。それでもあなたは抵抗しない。僕のなすがままだった。微笑みさえ携えていた。

 事を終えると、あなたは言った。
「人間は裏切るから嫌いよ」
 僕は笑って、あなたも人間じゃないか、と言った。
「そう見える?」
「もちろん、とても美しい人だ」
 あなたは今にも泣きそうな顔になり自分の体を抱きしめた。
「……どうして私は人間でいるのかしら。あなたは目に見えているのに。いつも私の側にいるのに」

 あなたは僕を見ているようで、その視線は僕をすり抜け、もっと深い深い森の奥を映しているようだった。僕に話しているのに明らかに僕に向けている言葉ではなく、振り返ってもそこには誰もいない。

 その時、不意に僕は体の自由がきかなくなった。
 けれどもあなたを抱きしめ、くちづけていた。僕はあなたの感触が感じられない自分に当惑した。体が動かない。いや、動いてはいる。けれど僕じゃない。知らない誰かが僕の体を使って目の前のあなたを狂わせている。僕の目には見た事もないほど淫らで魅惑的なあなたがいた。あなたをこんな風にさせる奴は一体誰なんだ、と僕は心の中で叫ぶ。何度叫んでも声帯は僕に反応しない。僕はただ自分の瞳からあなたを覗き見しているだけの間抜けだった。

 やがて、あなたは僕ではないものに腕を回した。その感触すらない。
あなたは僕ではないものに突き動かされ、ますます忘我の境地に陥っていった。ざわざわと木々が騒ぎ出し、冷たい葉が雨のように降り注いだ。あなたは一際大きな声を上げ、それは途切れ途切れになり、やがて大きな甘いため息になり、僕ではない僕の体を抱きしめた。

 やっと僕の感覚が戻って来た頃には、あなたは僕の側を離れていた。僕は自分の手や胸や頭を触り、本当に自分なのか確かめた。
「さっきのは私の恋人よ」
 あなたはうっとりと先程の余韻に浸っているかのようだった。そんなはずはない。今あなたを抱いたのは僕だ、と、あなたに言った。
「そんな嘘は通じない」
 あなたは口先でくくっと笑い、あなたの後ろで動く木に誘われるがままに歩いて行くと一本の大木に身を寄せ、その枝の腕に抱かれ、木の中に入って行った。

  私は木の精霊だった。
  恋人は夜風だった。
  けれど私はあなたたちに切り倒されて命が尽きたの。
  そして人間に生まれ変わった。
  もう一度恋人と会うには私が新たな木の精霊になればいい。
  でもエネルギーが足りなかった。
  それには人間との交わりが必要だった。
  あなたはそれだけの人だった。
  でも、私をぶったでしょう。
  私を荒々しく抱いたでしょう。
  あなたには罪が及ぶわ。

 僕はあなたをどうしても手に入れたかった為、あなたとあなたの男をつきとめようとして出会った次の日から興信所に調査を依頼していた。けれど何も分からなかった。あなたのような美しい人を誰も知らないなんて。僕は一瞬、あなたを幽霊かと思った事もあるんだ。本当に幽霊でもいいとさえ。

  そう、幽霊でもいいのね

 あなたの声が風に乗り、木霊するように聞こえた。あなたの声なのに不気味だった。僕はこの時初めて、この世の者ではない何かを抱いた事への恐怖が滲み出て来た。

 あなたの楽しそうな、いたぶるような笑い声が辺りに響いた。
 僕の背に複数の気配がした。しかし恐怖で振り返る事がどうしてもできない。気配はどんどん僕に近づき、背中から何かに押されたような感覚を受け、自分の体を見下ろした。僕の身体からは無数の半透明の手が内臓を突き破って出て来ていた。薄い桃色の刃のような爪を持ったその手は僕の血に濡れて美しく輝き、木は息を吹き返したように活き活きとざわめいていた。


<Fin>

初出 2004-08-05
推敲 2024-07-12

当時、登録していた投稿サイトのテーマが「背筋がゾッとする話」でした。
怖い話は当初苦手だったのでホラーは初めて書きましたが、何とか当時の読者さまに怖がっていただけて嬉しかったです。暑中見舞いの代わりにこの物語はいかがでしょうか。ご一読いただけると幸いに存じます。

幸坂かゆり🐱

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