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本を読んで、書きたいと駆られ。

本にはあまり興味がなかった。

中学生の頃、朝の時間に「読書の時間」があった。本を自分で選ぶということをしようとも思わなかった私に、母は当時としては珍しいブログ小説が綴られた横書きの文庫本を買ってきた。

高校生の日常が書かれたそれは、ギャグ要素も強く、なにより読みやすかった。シリーズ化されたその本で私は中学の3年間を過ごした。

高校生になると「読書の時間」もなくなり、私はスポーツにどっぷり漬けられた。そもそも本に興味はなかったし、漫画を読むこともなかったので、卒業するまで教科書以外の本を手に取った記憶がない。

当時の私は、「読みたい」と思うことも、「書きたい」と思うこともなかった。文章とは全く疎遠だったのだ。

今では本を読むと、私も書きたいという衝動に駆られる。もちろんこれまで文章に触れてこなかったし、類まれな才能を隠し持っていたこともなく、つらつらと文字を書くことはできないでいる。それでも、本を読めば書きたい書きたいと思うのである。

それは、多分、憧れだ。

人は、生きて死ぬだけで立派だと思う。けれど、自分が生きた証を遺したいとも思う。このままずるずる生きていては、おそらく私は何も遺せない。自分をこの世界に表現できる小説家、芸術家に強く憧れる。私も自分を表現して、形あるものを世界に生み落としたい。だから、書きたいと駆られるのだと思う。

そんな思いを私に与えてくれた一冊を私は覚えていない。きっと衝動的に小説の虜になったのではなく、ずるずると引き寄せられていったのだ。私はそういう人間だ。それでも、お気に入りの作家には巡り合えた。

西さんの作品を読むと、この世界で生きていている自分が美しく思える。綺麗な心だけでなく失敗や過ち、汚れた心もすべて「生」というオブラートに包まれて輝いているように見える。

私はおむつがはずれるのが人より遅かった。当時はすごく気にしていたけれど、今はそれを気にする必要もないし、忘れる必要もない。むしろ、堂々と言えてしまう。

おむつが外れるのが遅くて、大学生になって本を読み始めて、書けない小説を自己満足のためだけに書いた。4年生の時に彼女との間に子どもができて、学生結婚をした。それが私。今もこれからもそれが私なんだ。

後悔することも、失敗だったと思うことももちろんあるけれど、その全てが自分なんだと肯定してくれる。

読む、書く、生きる。

この一連の流れを繰り返して、私はこれからも私の生きる証を模索するのだと思う。

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