「即」という名のアポリア 第28回


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イントロダクション

 さて、今回は唯識思想を使ってみたいと思います。唯識思想は、前回扱った如来蔵思想と同じく、インド中期大乗の時代に発展しました。唯識思想を説く唯識派と、ナーガールジュナの思想を受け継いだ中観派は、インド大乗を代表する二大学派で、互いに論争を繰り広げることになります。

 7世紀前半に、唐からインドに留学した玄奘をご存知の方は多いでしょう(あの『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です)。玄奘も唯識思想に深く関係する人物です。伝承によれば、玄奘はインドへ旅立つ前に唯識を学んだものの、中国で行われている唯識解釈に疑念を抱き、疑問を解消すべくインドへ旅立ったとされています。玄奘は帰国後、それまでの中国になかった新たな唯識思想をもたらしました。そして玄奘の弟子のいう人がそれに基づいて、新たな唯識の理論体系を整備しました。かくして法相宗という唯識思想を研究する学派が新たに成立しました。この法相宗は日本にも伝わり、21世紀の現在に至るまで存続しています。

 まず唯識派の思想を非常に雑に一言で言うと、「我々が日常の経験を通じて実在すると思い込んでいる『机』とか『椅子』とか『りんご』とか『みかん』とか『自分』とか『世界』といった認識の対象は、認識作用によって思い描かれた『もの』に過ぎない」というものです。我々は「ここに机がある」「ここに椅子がある」「私は存在する」「世界は存在する」という具合に、「机」や「椅子」や「自分」や「世界」が存在すると思って生きています。しかし、そういった「机」や「椅子」や「自分」や「世界」といった認識対象は、認識作用が恣意的に「分別」した「もの」に過ぎない。我々が外界だと信じて疑わない世界は、「机」や「椅子」や「自分」や「世界」といった虚妄なる「もの」を「分別」する「こと」を通じて描き出されたものに過ぎない。そのように言うのです(現代の日本語では「分別」というのは良いニュアンスのことばですが、仏教では現代の日本語と意味が異なり、悪い意味で使われることが多いです。この点については第12回以降に何度も述べてきましたので、ここでは繰り返しません)。

 例えば、『唯識二十論』という唯識文献のしょっぱなには、次のようにあります。

 大乗においては、三種の領域からなるこの世界はただ表象にすぎないものである、と教えられる。経典(『華厳経』)に、
  勝者の子息たち(仏陀の弟子の呼称)よ、実に、この三界は心のみのものである、
と言われているからである。心、意、認識、表象というのはみな同義異語である。ここに心と言われているのは、(それに伴って起こる心作用と)連合している心のことである。「のみ」というのは外界の対象の存在を否定するためである。
  このすべてのものは表象のみのものである。実在しない対象が、(そこに)あらわれるがゆえに。あたかも眼病者が、実在しない網のような毛を見るように。

梶山雄一訳『世界の名著2 大乗経典』中央公論社

 このように、第26回で紹介した『華厳経』「十地品」で説かれている「三界唯心」の思想を用いて、机や椅子やみかんやりんごといった、我々が外界にあると思い込んでいる対象は実在せず、思い描かれた事柄に過ぎないと言っています。『華厳経』「如来性起品」で説かれている「仏の智慧はすべての衆生に浸透している」という思想の流れは如来蔵思想へと展開し、『華厳経』「十地品」で説かれている「三界唯心」の思想の流れは唯識思想へと展開していったわけです。

 この雑文で扱ってきたナーガールジュナの『中論』や、その思想を受け継いだ中観派の思想は、「すべての『もの』は空である」というものです。よって、「机」や「椅子」や「自分」や「世界」といった、我々が外界に存在すると思い込んでいる「もの」が空であると説く点では、中観派も唯識派も同じです。ただ、唯識派は認識は“ある”と説くのに対して、中観派はすべては空であり認識も空だと説く点で異なっているとされます。

 以上の説明はあくまでも、ざっくりとしたイメージを持ってもらうための大雑把なものなので、厳密に言うと問題があります。そもそも「唯識派」と呼ばれた流れは一枚岩の学派ではなくいろんな系統があって、系統によってその主張も異なっていました。多くの唯識文献が現在まで伝わっていますが、文献によって異なる説が説かれていることも多いです。ご多分に漏れず、時代が下ると古い時代の唯識思想とはだいぶ異なるものになっていったりもします。そういうわけで、一言で「唯識思想というのはこういうものだ」とは言えないところがあります。唯識の世界に深入りし始めるといくら紙があっても足りないし、私の能力も足りません。

 とはいえ、幸いにしてこの雑文の目的は唯識思想に深入りすることではありません。この雑文の目的は、『中論』の空の思想がその後どのように変容したのか、『中論』や『荘子』の問題が現代の問題とどのようにつながっているのか、今まで述べてきたようなお話がほかならぬ我々にどのような形で関係してくるのかを少しばかり辿ってみることです。今回はその目的に照らして、これだけはスルーするわけにはいかないと思われる内容に範囲を絞って、唯識についてお話ししてみたいと思います。

アサンガとヴァスバンドゥ

 以上の方針に基づいて今回取り上げる唯識文献は、『摂大乗論』『中辺分別論』『唯識二十論』『唯識三十頌』の4つです。伝承によれば、『摂大乗論』と『中辺分別論』はアサンガという人が書いたもので、『唯識二十論』と『唯識三十頌』はヴァスバンドゥという人が書いたものであり、二人は兄弟だと言われています(アサンガが兄で、ヴァスバンドゥが弟。ちなみに、ナーガールジュナという人の名前が中国で龍樹と漢訳されたように、アサンガは無著、ヴァスバンドゥは世親と漢訳されました)。アサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)の時代以前にも『解深密教』などの古い唯識文献はあったのですが、そういう流れを集大成したのがこの二人だと言われています。

 なお、この二人の生存年代については諸説あります。ヴァスバンドゥの生存年代をめぐっては19世紀末頃から論争があり、西暦320~400年頃だという説、350~430年頃だという説、400~480年頃だという説などがあります。いずれにせよざっくり4~5世紀頃だと考えられています。二人が書いたとされる著作には、古い唯識文献にはなかった要素も含まれていますが、ともあれ今回は、彼らが書いたとされる『摂大乗論』『中辺分別論』『唯識二十論』『唯識三十頌』の4つで説かれる思想に話を絞って見ていくことにします。

「虚妄なるものに対する分別」

 前置きはこれくらいにして内容に入っていきましょう。アサンガの『中辺分別論』に対してヴァスバンドゥは注釈を残しているのですが、その冒頭部には次のようにあります(初めて唯識思想に触れる方には難しくて何を言ってるのかわからない箇所もあるかもしれませんが、内容についてはこれから少しずつ説明していくので、わからなければいったん読み飛ばしてしまっても大丈夫です)。

  虚妄なる分別はある。そこに二つのものは存在しない。しかし、そこに空性が存在し、その(空性の)なかにまた、かれ(すなわち虚妄なる分別)が存在する。[一・一]
 ここで「虚妄なる分別」というのは、知られるもの(所取)と知るもの(能取)と(の二者の対立)を分別することである。「二つのもの」とは、知られるものと知るものとである。(それらは究極的には実在しない。したがって)「空性」とは、この虚妄なる分別が、知られるものと知るものとの両者を離脱し(両者が否定され)ている状態である。「そのなかにまた、かれが存在する」とは、(空性の中に)虚妄なる分別が(存在すること)である。
 このようにして、“或るものが或る場所にないとき、後者(すなわち或る場所)は、前者(すなわち或るもの)について空である、というように如実に観察する。他方また、(右のように空であると否定されたのちにも)なお(否定されえないで)なんらかあまったものがここにあるならば、それこそはいまや実在なのであると如実に知る”という(ように述べられている)空性の正しい相が(この詩頌によって)明らかに述べられた。
  それゆえに、すべてのものは空でもなく、空でないのでもないと言われる。それは有であるから、無であるから、さらにまた有であるからである。そしてそれが中道である。[一・二]
「空でもなく」というのは、空性(がある)という点で、および虚妄なる分別(がある)という点で(空でもないということ)である。「空でないのでもない」とは、知られるものと知るものとの両者については(空であるから)である。「すべてのもの」とは、つくられたもの(有為)――(ここでは)虚妄なる分別と呼ばれているもの――と、つくられることのないもの(無為)――空性と名づけられたもの――と(の両者をふくんで、「すべてのもの」というの)である。「いわれる」とは、説明される(という意味)である。「有であるから」とは、虚妄なる分別が(有であるから)であり、「また無であるから」とは、(知るものと知られるものとの)二つのものが(無であるから)であり、「さらにまた有であるから」とは、虚妄なる分別のなかに空性が(有であるから)、またその(空性の)なかに虚妄なる分別が(有であるから)である。「そしてそれが中道である」とは、すなわち、すべてのものが一方的に空なのでもなく、一方的に空でないのでもないこと(が中道)である。このようにして(ここに述べられたことは)、『般若波羅蜜多経』などのなかに、“このいっさいのものは空でもなく、また空でないのでもない”と述べられているこのことに一致するものである。
(中略)
  それゆえに、それ(すなわち識)が虚妄なる分別であることが成立した。なんとなれば、(識は)そのままにあるのでもなく、またあらゆる点で無なのでもないからである。[一・四abc]
(識は虚妄である。)なんとなれば、そのあり方は、顕現が起こっているのと同じように「そのまま(真実として)あるのでもない」からである。かといって、「あらゆる点でないというのでもない」。迷乱といわれるかぎりのものは起こっているからである。

長尾雅人訳・『大乗仏典15 世親論集』中公文庫

 ここには、ナーガールジュナの『中論』や、その思想を受け継いだ中観派とは異なる空解釈が述べられています。「虚妄なる分別」という新しいことばが登場していますし、その論理も「ある」と言ったり「ない」と言ったりする複雑なもので、一筋縄ではいかない感じです。ただ、最初にちょっと一言しておくと、ここで「虚妄なる分別」と訳されているのはサンスクリット語のabhūta-parikalpaということばなのですが、現在ではこのabūta-parikalpaは「虚妄な分別」ではなく、「虚妄なるものを分別すること」とか「虚妄なるものに対する分別」と解釈すべきだという指摘がありますので、この雑文では「虚妄なるものに対する分別」という訳語を用いることにします(金俊佑「複合語abhūtaparikalpaはkarmadhārayaか」参照。『印度學佛教學研究第65巻第1号』所収)

 ともあれ、ここに書いてあることを少し整理してみましょう。

①「虚妄なるものに対する分別」は存在する。
②でも、知るものと知られるもの(主体と客体)という二つの「もの」は存在しない。
③そして、主体と客体という分別が否定され乗り越えられた空性という状態は存在する。
④「虚妄なるものに対する分別」のなかに空性があり、空性のなかに「虚妄なるものに対する分別」がある。つまり、「虚妄なるものに対する分別」と空性は一体となっており別なことではない。

 まず②をみてみましょう。我々は、「自分」という主体と、机や椅子やりんごやみかんといった客体という二つの「もの」が存在すると思っている。そして、「自分」という主体が机や椅子などの客体を認識するのだと考えている。でも、そのような主体や客体は存在しない虚妄なる「もの」だというわけです。この点は、唯識以前からあった初期大乗の空の思想と同じです。初期大乗の空の思想は、「自分」や「机」や「椅子」や「りんご」や「みかん」といった「もの」が自性を持って独立して確固として存在しているという発想を批判し、「主体/客体」といった具合に現象世界を二つ以上の「もの」へと切り分ける「分別」を斥けるものでした。そういうわけで②は、主体と客体という虚妄なる「もの」は存在しないということです。しかしその一方で、①にあるように、「虚妄なるものに対する分別」という「はたらき」が存在するんだとも言っています。「自分」や「机」や「椅子」は虚妄なる「もの」なんだけれども、我々一人ひとりが、「自分」や「机」や「椅子」といった虚妄なる「もの」を「分別」したり判断したりするという「こと」は“ある”んだと言うのです。そして、③にあるように、「分別」を乗り越えた「空性」というのも“ある”んだとも言っています。

「自分」や「机」や「椅子」といった「分別されたもの」は“ない”のだけれども、「これは『自分』だ」「これは『机』だ」「これは『椅子』だ」といった分別という「こと」は“ある”のだと言っていることになります。

 難しいでしょうか。例えば、お昼寝をしていたら夢のなかに綾波レイという女の子が出てきたとしましょう。この場合、綾波レイという「もの」は“ない”んだけれども、夢を見ているという「事実」は“ある”と言えます。夢の内容は虚妄だけど、夢を見ているという「こと」は“ある”。それと同じことです。

三性説

 まだ話が漠然としていますね。もう少し『中辺分別論』とヴァスバンドゥによる注釈を見てみましょう(「遍計所執性」だの「依他起性」だのといった新たな用語が出てきますが、よくわからなければここもいったん読み飛ばしちゃっても大丈夫です。これから説明していきますので)。

 ただ虚妄なる分別のみがあるのであるならば、いかにして三種の自性をその中にとりいれうるか(ということを説明する)。
  妄想されたもの(遍計所執性)、他によるもの(依他起性)、完成されたもの(円成実性)(という三種の自性)が説かれたのは、(順次に)対象であることから、虚妄なる分別であるから、また二つのものが存在しないからである。[一・五]
(四種に顕現する識としての虚妄なる分別において、)対象は、妄想された自性である。虚妄なる分別ということ(それ自体)が、他によることの自性である。(虚妄なる分別における)知られるものと知るものとが(いかなる意味においても)存在しないということが、完全に成就された自性である。
 根本の真実とは、
  三種の自性。[三・三a]
であって、妄想されたもの(遍計所執性)と、他によるもの(依他起性)と、完成されたもの(円成実性)と(の三種の自性)である。(これらの三自性が根本の真実といわれるのは、)それにもとづいて他の(もろもろの)真実が定立されうるからである。
 それではこの三つの自性において、どういう点が真実であると考えられるのか。
  (三種の自性は順次に、)いかなるときにも存在しないもの、存在はするが真実としてではないもの、真実として存在し同時に非存在であるものである。こうして、(真実性が)三つの自性において考えられる。[三・三bcd]
「いかなるときにも存在しない」ことが、妄想されたものの特徴(遍計所執相)であり、このことが、妄想された自性(遍計所執性)において見出される真実である。(このばあい、真実性というのは、)その(いかなるときにも存在しない)ことに転倒性がないから(であって、実在するか否かが問題になっているのではないの)である。「存在はするが真実としてではない」ことは、他によるものの特徴(依他起相)であって、それは迷乱したものとしてあるからである。こうして、このことが、他によることの自性(依他起性)に見出される真実である。(このばあいも、真実性とは転倒性のないことを意味する。)「真実として存在し同時に非存在である」ことが、完成されたものの特徴(円成実相)である。こうして、このことが、完成された自性に見出される真実である。

同前

 ここで述べられているのは、三性説と呼ばれるものです。これは、あらゆる「もの」の存在のありかたを、遍計所執性・依他起性・円成実性という三つのありかたにわけて説いたもので、唯識思想の根幹をなす説の一つです。まず、遍計所執性からみていきましょう。遍計所執性は、サンスクリット語のparikalpita-svabhāvaということばを漢訳したものです。parikalpitaというのは、「仮構された」「分別された」といった意味になります。つまり遍計所執性というのは、「自分」や「机」や「椅子」といった「分別されたもの」のことです。

 一方、先ほど申し上げたように、「虚妄なるものに対する分別」はサンスクリット語ではabhūta-parikalpaです。abhūtaというのは「誤った」「真実でない」といった意味で、parikalpaは「分別」です。

 ですから、「虚妄なるものに対する分別(abhūta-parikalpa)」によって「分別」された、「自分」や「机」や「椅子」といった「もの」が遍計所執性(parikalpita-svabhāva)です。つまり、「虚妄なるものに対する分別」は「分別すること」であり、それによって「分別されたもの」(「自分」や「机」や「椅子」など)が遍計所執性だという関係になっているわけです。『中辺分別論』は、「虚妄なるものに対する分別」は存在するけれども、遍計所執性はいかなるときにも存在しないと言っていますから、要は「分別すること」(=「虚妄なるものに対する分別」)は“ある”けど、「分別されたもの」(=主体と客体=遍計所執性)は“ない”と言っているわけです。この点は、「虚妄分別」とか「遍計所執性」といった漢訳された仏教用語を眺めるよりも、parikalpaとparikalpitaという原語を見た方が関係を理解しやすいです。

 次に、依他起性について。これは文字通りに言えば、「他」に「依」って生「起」した「もの」、つまり縁起によって生じた「もの」です。そしてこの一節には、虚妄なるものに対する分別(それ自体)が、他によることの自性であると書いてあります。ゆえに、依他起性というのは「虚妄なるものに対する分別」のことであり、認識活動のことだということになります。

 わかりにくいでしょうか。もう一度先ほどの例で考えてみましょう。夢のなかに綾波レイが出てきた場合、綾波レイという「もの」には実在性はないんだけれども、夢を見ているという「こと」は“ある”。ゆえに夢を認識する活動それ自体は“ある”。この夢を認識する活動それ自体は、原因や条件によって成立したものであるから、依他起性と呼ぶ。「分別されたもの」はないけど、「虚妄なるものに対する分別」はあり、その「虚妄なるものに対する分別」は原因や条件によって成立したもの(依他起性)である。ここに書いてあるのはそういうことです。ということは、「虚妄なるものに対する分別」=依他起性=認識活動であり、認識活動は原因や条件によって成立していることになります。そうすると、認識は原因や条件の変化に応じて絶えず変化し続けていくということになります。

 この依他起性=認識活動が絶えず変化していくという点や、認識活動が成立する原因などについてはまた後ほど見ることにします。次は円成実性(完成された自性)をみてみましょう。先ほど引用した箇所には、「知られるものと知るものとが(いかなる意味においても)無であるということが、完成された自性である」「(主観、客観としては)非存在であるような真実としてある」とあります。よって円成実性というのは、主体(知るもの)と客体(知られるもの)=「分別されたもの」が否定され、乗り越えられた状態だということになります。この点については、ヴァスバンドゥの『唯識三十頌』の第20偈と第21偈にそれぞれ次のようにあります。

 それぞれの分別によって、それぞれの物は遍計(=分別)される。
 まさにこの自性は遍計所執であり、それは無所有である。

 しかるに分別は依他起自性であり、縁により生ずる。一方で、その前のを常に遠離しているのが円成実である。

廣澤隆之『『唯識三十頌』を読む』大正大学出版会

 第21偈の「その前の」というのは遍計所執性のことです。ですから、円成実性というのは、依他起性(=認識活動)が遍計所執性を「常に遠離している」状態だということになります。「自分」や「机」や「椅子」といった分別された「もの」=遍計所執性が否定され乗り越えられて、依他起性が遍計所執性から離れた状態が円成実性だということです。ただし、そこで依他起性(=認識活動)が消えてなくなってしまうという話ではありません。なくなるのではなく、依他起性に“おいて”遍計所執性が“ない”状態が円成実性だというのです。もう一度整理してみましょう。

①「虚妄なるものに対する分別(=依他起性=認識活動)」は“ある”。「分別すること」は“ある”。
②でも、「虚妄なるものに対する分別」によって「分別されたもの」=遍計所執性(「自分」とか「机」とか「椅子」とか)は“ない”。“ない”んだけれども、我々はそれを“ある”と思い込んでいる。
③円成実性は、依他起性に“おいて”遍計所執性が“ない”状態である。「これは自分である」「これは机である」「これは椅子である」という「分別」を乗り越えたありかたである。そこに「空性」が“ある”。

「あまったもの」

 そうすると、遍計所執性は修行によって否定され空じられるんだけれども、依他起性=認識活動は最後まで否定されずに残るということになりそうです。ここで、ヴァスバンドゥが『中辺分別論』の注釈で空について語っている箇所をもう一度見てみましょう。

「空性」とは、この虚妄なる分別が、知られるものと知るものとの両者を離脱し(両者が否定され)ている状態である。「そのなかにまた、かれが存在する」とは、(空性の中に)虚妄なる分別が(存在すること)である。
 このようにして、“或るものが或る場所にないとき、後者(すなわち或る場所)は、前者(すなわち或るもの)について空である、というように如実に観察する。他方また、(右のように空であると否定されたのちにも)なお(否定されえないで)なんらかあまったものがここにあるならば、それこそはいまや実在なのであると如実に知る”という(ように述べられている)空性の正しい相が(この詩頌によって)明らかに述べられた。

長尾雅人訳・『大乗仏典15 世親論集』中公文庫、太字引用者

 ここでヴァスバンドゥは空性(空という性質)を、「Aという“場所”にBという『もの』がないとき、AはBについて空である」と定義しています。また、「(右のように空であると否定されたのちにも)なお(否定されえないで)なんらかあまったものがここにあるならば、それこそはいまや実在なのである」とも述べていますから、Bは空だけれども、「あまったもの」であるAは空ではないと言っているように見えます。

 このような空思想は、ナーガールジュナの空思想や、それを受け継いだ中観派が説いた空思想とは異なっています。中観派の思想ではすべては空だとされますから、当然AもBも両方とも空だということになるからです。少し脱線すると、このような中観思想とは異なる空思想は、パーリ中部に含まれている『小空経』という経典に説かれている思想の流れを汲んだものです。『小空経』には、次のようにあります。

 たとえば、このミガーラの母の講堂は、象・牛・雄馬・牝馬については空で、金銀については空で、女や男の集まりについては空で、ただ次の「空でない状態」がある。すなわち、比丘僧伽ただひとつに起因するものである。
 ちょうどそのように、アーナンダよ、比丘は村の観念に心を向けるのではなく、人間の観念に心を向けるのではなく、森林の観念ただひとつに心を向ける。かれの心は森林の観念に跳びこみ、満足し、落ち着き、集中する。かれは「村の観念に起因するような煩いはここになく、人間の観念に起因するような煩いはここになく、ただ次の煩いだけがある。すなわち、森林の観念ただひとつに起因するものである」と知る。かれは「ここに観念としてあるものは村の観念については空である」と知り、「ここに観念としてあるものは人間の観念については空である」と知り、「ただ次の<空でない状態>がある。すなわち、森林の観念ただひとつに起因するものである」と[知る]。このように、XにないものについてはXは空であると理解し、一方、Xに残っている、あり続けているものを「これがある」と知る。このようにして、アーナンダよ、かれには「空である状態」が現実に、紛れもなく、完璧なかたちで生起する。

『原始仏典 第七巻 中部経典Ⅳ』春秋社、太字引用者

 ちょっと難しいでしょうか。ともあれここでは、空ということばが「XがYを欠く」「XにおいてYが存在しない」という意味で使われていることは確かです。ミガーラの母の講堂という場所がXで、「象・牛・雄馬・牝馬」「金銀」「女や男の集まり」がYです。X(ミガーラの母の講堂)には、Y(「象・牛・雄馬・牝馬」「金銀」「女や男の集まり」)が存在しないというわけです。そうすると、Yは存在しないけれども、Xは否定されずに残るということになります。

 ともあれここで確認しておきたいのは、この『小空経』においては、初期大乗や中観思想で説かれるような「すべては空である」という思想は説かれていないということです。修行者が「森林の観念ただひとつに心を向ける」修行を行った結果、「森林の観念ただひとつに起因する」煩いがあり、「森林の観念ただひとつに起因する」空でない状態があると知った状態のことを、「『空である状態』が現実に、紛れもなく、完璧なかたちで生起」した状態であると表現しています。つまり、心の煩いの原因になるような何かが確固として残っている状態であっても、それを空なる状態だと表現するわけです。これは初期大乗や中観思想が説く空とは明らかに意味が異なっています。ここでは、空ならざる「もの」が一切残らないような状態は考えられていないのです。そういうわけで、初期大乗や中観思想が説く空の思想と、『小空経』にみられる空思想は異なっています。

 以前も少し触れましたが、「すべては空である」という思想は古い時代の仏教にあったものではなく、初期大乗の時代に出てきたものです。そもそも古い経典では空はあまり説かれていないし、説かれていたとしても、「すべては空である」という思想が説かれているわけではありません。そして、この『小空経』にみられる「XがYを欠く」「XにおいてYが存在しない」という空思想は、中観ではなく、唯識の一部に受け継がれたというわけです(もっとも、唯識系経典のなかには「XにおいてYが存在しない」という空思想を批判するものもあるので、唯識がおしなべて「XにおいてYが存在しない」という空解釈を採用しているわけではないのですが)。

 ともあれ『中辺分別論』では、「XにおいてYが存在しない」という思想が説かれていることになります。すなわち「依他起性において遍計所執性が存在しないのが円成実性である」「そこに空性が“ある”」と説いているわけですから、最後まで残る「何か」があるという話になり、中観派のように一切を空じる思想とは違いがあることになりそうです。

阿頼耶識縁起

八識

 さて、『中辺分別論』とヴァスバンドゥによる注釈は、「虚妄なるものに対する分別」=依他起性=認識活動がどのように生じるのかという問題について次のように語っています。

 また、その生起する相を説く。
  一つは縁(因)としての識であり、(現象的な面において)享受に関係するものが第二(の識)である。そこ(第二の識)には、享受すること、判別すること、および動かすものとしてのもろもろの心作用がある。
(識は、一方では潜勢的な原因の識として生起し、他方ではそれの結果としての顕勢的・現象的な識として生起する。)アーラヤ識は(その前者であり)、それ以外の(七つの)諸識に対して原因となるものであるから、「縁(因)としての識」である。それを縁として(顕勢的に)はたらいている(七つの)識(転識)が、「享受に関係するもの」である。「享受」とは感受(受)のことであり、「判別」とは観念(想)のことである。識を「動かすもの」とは形成力(行)のことであり、すなわち思考(思)、心の集中(作意)など(の諸種の心作用)である。

同前

 まず、ここに出てくるアーラヤ識(阿頼耶識)というのは、サンスクリット語ではālaya-vijñānaということばで、「蔵」や「場所」を意味するālayaと「識」を意味するvijñānaの合成語です。インドとチベットを隔てているヒマラヤ山脈という、地球上で最も標高が高い地域がありますが、「ヒマラヤ」というのは「ヒマ(雪)」と「アーラヤ(蔵)」の合成語で、「雪の蔵」という意味です。一年を通じて雪に覆われているので、雪が蓄えられている蔵だ、雪の貯蔵庫だということで、「ヒマラヤ」と呼んだわけです。同様にアーラヤ識というのも、「蔵である識」「貯蔵庫である識」という意味になります。

 またここでは、そのアーラヤ識が原因となって、七種類の識が生じると言っています。この七種類の識というのは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識です。眼識から意識までの六つは、第4回で説明した十八界に含まれている六識と同じです。これは古い時代の仏教と同じです。その六識に末那識を加えた七種類の識のことを七転識と呼びます。七転識とアーラヤ識をあわせると八種類となり、八識を立てるということで八識説と言います。それまでの仏教で説かれていた六識のはたらきの奥底には、末那識と阿頼耶識という「こと」があるのだと説くのです。六識の奥に、さらに末那識とアーラヤ識の二つを加えて八識を設定し、アーラヤ識以外の七転識はすべてアーラヤ識が原因で生じるのだと言うわけです。

 仏教徒は、瞑想修行を通じて己の「心」を凝視していった結果、人間がフツーに生きていても意識できない末那識やアーラヤ識を見い出したのです。このことを指して、「西洋では19世紀に無意識が発見されたが、仏教はそれよりもはるかに早く無意識を発見していたのだ」などと言う人もいます。

 さて、それでは末那識とアーラヤ識というのはどういう識なのか。まず末那識は、阿頼耶識のことを永遠に変わることのない「自分」だと誤認し、常にその「自分」に執著し続けるはたらきをします。ざっくり言えば六識の背後ではたらいている「自我意識」です。末那識のせいで、六識は常に「自分」という「もの」が確固として存在すると思い込み、常に「自分」とは何者なのかを把握し続けるという偏りを帯びるようになります。

熏習・種子・識の転変

 次にアーラヤ識について。アサンガの『摂大乗論』には、こうあります(ここも、「熏習」だの「種子」だのといったことばは初めて見るしようわからんという方はいったん読み飛ばしてくださって以下略)。

 どのように考えてその相(アーラヤ識の相、引用者注)を定立すべきであろうか。要約してそれは三種、すなわち自相の定立と、因性としての定立と、果性としての定立とである。その中で(1)アーラヤ識の自相とは、あらゆる汚染せる存在から熏習されていることが基盤となって、種子を保持し備えていることにより、それ[すなわちあらゆる汚染ある存在]が生起するための因相としてあることである。またその中で(2)因性としての相とは、右のようにあらゆる存在の種子を有するかのアーラヤ識が、それら汚染ある存在に対する因性として、あらゆる時に現存することである。またその中の(3)果性としての定立とは、無限の過去以来、その同じ汚染ある諸存在から熏習を受けていることによって、アーラヤ識が[行為の結果として]起こっていることである。
 この熏習と呼ばれるものは何なのか。熏習というこの表現が意味する内容は、一体何なのか。――かの[汚染の]諸存在と同時に生じまた滅することによって、その[汚染ある諸存在を未来に]生ぜしめる原因としてあること、このことが意味されている。(中略)愛欲などの行為者には、愛欲などの熏習があるのであって、彼の心は愛欲などと同時に生じ同時に滅し、かつかの[新たなる愛欲を生ぜしめる]原因となる。あるいはまた、多くを聞いた者にとっては、多くを聞き学んだことの熏習がある。この場合もまた、それを聞き学んで思索することと同時に生じまた滅する心が、かの[聞き思索した]ことを明記することへの原因となるのであって、この熏習を内蔵しているから、彼は持法者と呼ばれる。アーラヤ識にもまた、これらと同様の道理があると見るべきである。

長尾雅人『摂大乗論 和訳と注解(上)』講談社

 まず「熏習」とか「種子」といった用語について。八識説では、アーラヤ識から生じた眼識などの七転識が机や椅子といったような(実体のない)対象を認識すると、その印象はただちにアーラヤ識に取り込まれるのだとされます。人間が何かを見たり聞いたり感じたりした際に生じた認識はその場限りのもので、すぐに消えていくように思うかもしれないけど、そうではないのだと言うのです。見たり聞いたり感じたりしたことすべてが、自分ではそうと意識しないうちにアーラヤ識に植えつけられていき、たった一回でも何らかの影響を後に残すというのです。「熏習」というのはこのように、過去の行為の印象が「心」に残ることです。そして、このようにしてアーラヤ識に熏習されるのが「習気」です(アーラヤ識に熏「習」された「気」分だというわけです)。この習気のことを「種子」とも言います。アーラヤ識というのは、七転識が認識したことが熏習され、種子(習気)として保持されているという「こと」です。アーラヤ識には、過去の認識によってもたらされた無数の種子(習気)が熏習されていることになります。

 さて、先ほど見たように『中辺分別論』は、アーラヤ識が原因となって七種類の識が生じると言っています。つまり、アーラヤ識の種子が原因となって、七転識が生じるということです。保持された種子は消えることなく残り、条件がそろえばいつかまた七転識という形をとってオモテに出てくるのだというわけです。そうやって生じた七転識のはたらきが再びアーラヤ識に薫習されて、種子となる。そしてその種子も、いつか条件がそろえば七転識という形をとって表に出てきて……という流れが延々と続いていくのだというのです。この流れを伝統的な用語では阿頼耶識縁起と言います。先ほど私は、「この依他起性=認識活動が絶えず変化していくという点や、認識活動が成立する原因などについてはまた後ほど見ることにします」と申し上げましたが、認識活動が生じる原因は熏習された種子なのです。認識活動は、熏習された種子という「他」の「もの」に「依」って生「起」するから、依他起性と呼ぶ。そういうわけだったのです。そういえば、私は30歳を過ぎた今でも恥ずかしながら、数学の問題が解けずに入試に落ちる夢や、単位がそろわず大学を卒業できない夢を見ることがあります。蓄えられた種子は消えることなく残り、いつか条件がそろえば七転識という形をとって表に出てくるというのは、ざっくり言うとそういう話でもあります。

 ところで、インド仏教では刹那滅の教義が多くの学派で受け入れられており、唯識派も刹那滅を認めていました。刹那滅の理論では、有為法(原因によって生じた「もの」)は、すべて瞬間瞬間に生じたり消滅したりしているということになります。そしてある瞬間に有為法が消滅すると、その有為法が原因となって、次の瞬間にその有為法と非常によく似た有為法が結果として生じることになります(この点については第9回で述べました)。

 そして八識はすべて有為法ですから、無常であり刹那滅だということになります。つまり、ある瞬間のアーラヤ識の種子は一瞬ですべて滅して、次の瞬間には一瞬前のアーラヤ識とほとんど同じだけどわずかに違うアーラヤ識が生じる。そのアーラヤ識もまたすぐに滅んで、またわずかに違うアーラヤ識が生じて……という流れで、一瞬一瞬滅しては生じ滅しては生じるという刹那滅を繰り返して、種子は引き渡されていく。こうして過去の経験はすべて、一瞬一瞬生じては滅してを繰り返して伝達されていく。そして七転識についても、刹那滅であるという点では同じです。よって阿頼耶識縁起では、ある瞬間に八識が生じる原因は、その意識の一瞬前の八識だということになります。その一瞬前の八識が生じた原因は、そのまた一瞬前の八識です。そこにあるのは、八識という認識が一瞬ごとに生じては消えていく流れだけである。ヴァスバンドゥは『唯識三十論』のしょっぱなで、この流れのことをvijñānapariṇāma(識の転変)ということばで表現しています。

 まさに種々に我と法とを仮説することが行なわれるが、それらは識の転変においてであり、しかもその転変は三種である。

廣澤隆之『『唯識三十頌』を読む』大正大学出版会

 よって、無常な識が刹那滅で延々と転変を続けていく流れだけがある。でも、我々は「これは机である」「これは椅子である」「これはキズナアイである」「これは私である、自分である」といった具合に、実体のない「机」や「椅子」や「キズナアイ」や「私」や「自分」(これらが遍計所執性です)が確固として存在すると分別によって錯覚して、それに執着する。このような世界観なわけです。

 ちなみに、アーラヤ識から七転識が生じ、七転識の印象が習気としてアーラヤ識に取り込まれるという流れはいつ始まったものかというと、「無始」だとされています。この流れをいくら遡っても果てしなく、始めがないということになっているのです。これは仏教で説かれる輪廻説と関わってきます。つまり、いつ始まったとも知れず延々と生まれ変わり死に変わりを繰り返すなかで経験してきた業すべてが、アーラヤ識に伝えられてきたのだということになるわけです。よって先ほども触れたように、種子は無数にあるということになります。これは現代日本人にとっては理解し難い話かもしれません。あえて現代風にたとえれば、こんな感じでしょうか。人間は何十兆もの細胞でできている。その細胞は元をたどれば、何十億年も前に誕生した地球で最初の生物に行きつく。人間を構成する何十兆もの細胞一つ一つには、何十億年にも渡る進化の経験や、生きようとする根本的生存欲(仏教で言う無明というやつです)が遺伝情報という形で“薫習”されている、と。そのように考えれば現代人にも受け入れられるのかもしれませんが、話のスケールがいささか小さくなるし、無理やり近代科学とすり合わせようとしてあやしげなストーリーになっている感は拭えないかもしれません。

 ちなみに、種子は無数にあることになりますから、ある瞬間に転変する種子も多数あることになります。それらによって形成される我々の認識の世界は一つの全体です。多数の種子が集まって縁起してオモテに出てくることで、一つの認識の世界が成立するわけです。これはたとえて言えば、酸素と水素が化合して水ができるようなものです。水は酸素と水素の化合物ですが、酸素とも水素とも異なる性質を持つものです。それと同じで、一つの認識は諸種子が縁起した「事態」であり、諸種子と一つの認識は同じではないわけです。

転識得智(転依)

 さて、先ほど申しあげたように『中辺分別論』では、「依他起性において遍計所執性が存在しないのが円成実性である」「虚妄なるものに対する分別において、分別された(主体と客体という)二つの『もの』が存在しないのが空性である」と説かれていました。修行を通じて依他起性が遍計所執性を離れたり、現象を二つ以上の「もの」に分別することを乗り越えるということはあっても、依他起性としての「虚妄なるものに対する分別」=認識活動が消えてなくなってしまうわけではないことになります。先ほど見たように、ヴァスバンドゥによる空性の定義は、「Aという“場所”にBという『もの』がないとき、AはBについて空である」というものです。Aが依他起性としての認識活動であり、Bが遍計所執性であり、AからBが空じられた状態が円成実性ですから、依他起性としての認識活動が消えてなくなるという話にはならないのです。

 ですので、修行によって八識による認識活動が修行によって消えてなくなるわけではありません。そうではなくて、修行を通じて知慧が獲得されると、識のはたらきは智のはたらきへと転換するのだとされています。これを転識得智とか転依と言います。具体的に言うと、修行を通じて八識は次のように四智という四つの知慧に転換するのだと説かれています(ただし厳密に言うと、以下はあくまでも法相宗の伝統説であり、文献によっては異なることが書いてあるものもあります。例えば、インドから唐にやってきたプラバーカラミトラという人が訳した『大乗荘厳経論』では、意識が成所作智に転換し、眼識~身識は妙観察智に転換するとされています。このあたりは微妙な問題があるのですが、ここでは割愛します)。

アーラヤ識→大円鏡智(いかなる分別も加えることなく鏡のように現象を如実に映す知慧)
末那識→平等性智(自我意識を克服し「自分」と「他人」を平等にみる知慧)
意識→妙観察智(如実に物事の姿を洞察する智慧)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識→成所作智(衆生を救うために様々に行為する知慧)

 四智には、「分別」を乗り越えて世俗的な「物語」を解体し、真如を如実に見て取る知慧が含まれている一方で、衆生を救済するためにはたらく成所作智のような慈悲も含まれています。ですから、この四智には二つのベクトルが含まれているということになります。一つは、修行によって無明や渇愛を滅ぼして世俗の世界を脱するという「向上」のベクトル。もう一つは、世俗の世界を脱して「覚り」をひらいた後で、世俗の世界に戻ってきて人々のために慈悲をもってして関わり教えを説くという「向下」のベクトルです。つまり、第11回第19回で扱った梵天勧請に含まれていた二つのベクトルです。仏教は梵天勧請を受け入れることを釈迦が「決断」することで始まったと伝えられていますが、梵天勧請の時点で存在していた「向上」と「向下」の問題が、唯識が説く「覚り」の風光にも形を変えて受け継がれ続けているのが見てとれるわけです。

唯識思想と実践の問題

 これまでに見てきたのはアサンガとヴァスバンドゥの主要な著作で説かれている唯識思想のほんの一部にすぎませんが、深入りしていくと紙がいくらあっても足りなくなってしまううえに、私に深入りする能力もないのでいったんこれくらいにします。この雑文が扱う問題との絡みで重要なのは、唯識で説かれる空の思想は中観派のそれとは異なっているということです。中観派が「すべては空である」と説くのに対して、先ほども申しあげたように『中辺分別論』は「AにBがないとき、AはBについて空である」と説いているわけです。つまり、依他起性としての「虚妄なるものに対する分別」が消えてなくなると言っているわけではないということです。

 なぜ今回取り上げた唯識文献では、ともかくも依他起性が“ある”ということになっているのかというと、実践と密接に結びついた理論体系であるという性格によるものではないかと思われます。依他起性としての「虚妄なるものに対する分別」は、「迷い」から「覚り」へと己の「実存」を根本から転換する修行を実践する「主体」として“ひとまず”認められているように思うのです。現象世界はすべて空なる「もの」であり幻のような「もの」なのだと言うのは簡単なのですが、そう言っただけで迷いの世界から脱出できるなどということはないし、そのように頭で理解しただけで「覚り」がひらけるなどということももちろんない。「虚妄なるものに対する分別」は厳然としてはたらいている。だからこそ、修行を実践する軸として、“ともかく”依他起性としての「虚妄なるものに対する分別」は“ある”のだと言う。そういう話なのではないかと思うのです。

 実践と密接に結びついた体系であるということは、遍計所執性・依他起性・円成実性の三性説にも現れているように思われます。この三性説は、第19回で紹介した『中論』の二諦説と対応させて考えることができます。第19回で述べたように、『中論』では究極の真理である勝義諦と、ことばによって説かれる世俗諦の区別が説かれています。でも、勝義諦と世俗諦がどのような関係にあり、どのようにつながりうるのかは、『中論』では述べられていません。

 唯識の三性説では、分別に基づいた遍計所執性という俗なる世界と、円成実性という勝義の世界との関係が二諦説よりも明確です。先ほど申し上げたように、依他起性が遍計所執性を「常に遠離している」状態が円成実性です。ですのでここでは、依他起性が俗なる世界と勝義の世界を媒介しているわけです。依他起性・遍計所執性・円成実性の三性というのは、依他起性を異なった観点から見たものなのです。依他起性としての認識活動は、常に現象世界を二つ以上の「もの」へと「分別」し、“本来的な”ありかたである円成実性から遍計所執性へと堕落する傾向を孕んでいる。だから、そういう迷いから抜け出す修行を実践しようという話になってくるわけです。このように三性説には、実践への志向を見い出すことが可能だと言っていいのではないかと思われます(もっとも唯識文献でも、時代が下ると修行の実践や己の実存の問題よりも理論的整合性を重んじるような傾向が見られるようになるのですが)。

唯識派とサーンキヤ学派

 一方で、阿頼耶識縁起の流れは無始であり、その流れは(「覚り」をひらかない限りは)ずっと続いていくのだという話ですから、アーラヤ識は結果的にバラモン教やヒンドゥー教のアートマン(自我)に接近している面があるように見えなくもありません。良いか悪いかはひとまず置いておいて、「結局のところ最後まで否定されぬ“何か”がある」という点では、如来蔵思想と同型であるようにも見えます。

 先ほど、ヴァスバンドゥの『唯識三十頌』にはvijñānapariṇāma(識の転変)という概念が登場すると申し上げましたが、実は、この「識の転変」と相通じる主張をするバラモン教の学派が当時のインドには存在していました。それが第10回で紹介したいわゆる「六派哲学」と呼ばれる学派の一つであるサーンキヤ学派です。

 サーンキヤ学派は、プルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本物質)という二つの宇宙の根本原理を立てて、二元論によってこの宇宙について説明しようとします。サーンキヤ学派によれば、プラクリティはサットヴァ(純質)・ラジャス(激質)・タマス(暗質)という三つの要素から構成されています(これらを三グナと言います)。これら三グナは、元々は平衡状態にありました。ところが、プルシャが三グナを「観照」することによって、三グナの間で保たれていた平衡が崩れてプラクリティが展開し、宇宙が形成されていくことになります。よって、現象世界に見られる「もの」はすべてプラクリティが展開した結果であり、三グナによって構成されていることになります。

 かくして世界が展開し始めると、まずbuddhiが生じます。このbuddhiというのは、精神や認識のはたらきの根源をなす「もの」です。ただ、プラクリティ(根本物質)から展開した「もの」ですから、純粋に物質的な「もの」で、身体のなかにある器官だと考えられています。このbuddhiがさらに展開すると、「自我意識」(ahaṃkāra)が生じます(この「自我意識」もやはり物質的な「もの」です)。「自我意識」には自己へ執着するという特徴があり、常にbuddhiを「本当の自分」だと誤解するのだとされます。プルシャではなくbuddhiの方を「本当の自分」だと思い込んでしまうのだというわけです。このあたりは、唯識思想で言う末那識が、アーラヤ識を「本当の自分」だと錯覚してしまうというのと話が似ています。

 この「自我意識」からさらに展開して世界を構成するいろんな要素が形成されていくことになるのですが、この雑文では省略します。ともあれ、プルシャは本来的に清らかであり永遠に不変であり、みずから認識活動を行うこともありません。我々の日常的な認識活動を行っているのはプルシャではなく、buddhiの方です。プルシャとプラクリティは結合しているため、月が太陽の光を反射することによってものを照らすように、buddhiはプルシャの「知性」を反映して机や椅子やりんごやみかんといった「もの」を認識することになります。この結合のせいでプルシャはその“本来的な”清らかさを顕現させることができず、プラクリティが展開を続けていく流れに束縛されている。そのため、輪廻し続けて迷いの世界をさまよい続けることになります。プルシャは、プラクリティが活動を続けている限り、解脱することはできません。そういうわけで、プラクリティが活動をやめて、プルシャがプラクリティから分離することで解脱を実現することができるというのです(なんだかプルシャというのは如来蔵に似ていると思った方もおられるかもしれません)。

 さて、先ほど述べたように、ヴァスバンドゥは『唯識三十頌』でvijñānapariṇāma(識の転変)という用語を用いています。そしてサーンキヤ学派は、プラクリティが展開することをpariṇāmaと呼んでいるのです。サーンキヤ哲学で言うプルシャをプラクリティのなかに取り込んで、プラクリティ全体を物質から認識に置き換えるとあら不思議。プラクリティの展開が識の転変に置き換わって唯識思想みたいになっちゃうんです。こういうこともあって、唯識派とサーンキヤ学派は、相互に影響を与えあっていたと言われています。

 唯識派もサーンキヤ学派も現象世界を迷いの世界として捉えますので、現象世界のどこかに「自分」が存在するとは考えないし、末那識だの「自我意識」だのbuddhiだのといった「自分」という観念を生み出す作用が「自分」であるとは考えません。我々が常識的に考える「これが自分だ」という固定観念を認めない点では共通しています。

 ただ、サーンキヤ学派の場合は、「私」という観念を生み出す「自我意識」やbuddhiといった見えない作用をさらに超えたところに、プルシャという永遠に不滅の「本当の自分」があるのだという話になります。それに対して唯識派は仏教の学派であり無我説をとりますから、そのような「本当の自分」がどこかに実在するとは認めない点では異なっています。とはいえ、アーラヤ識の転変の流れは無始であり、その流れは(「覚り」をひらかない限りは)ずっと続いていくのだという話なのですから、アーラヤ識は結果的にバラモン教やヒンドゥー教のアートマン(自我)に接近している面があるように見えなくもありません。

 繰り返しになりますが、サーンキヤ学派はバラモン教の学派です。それに対して仏教は、バラモン教の権威を承認しない宗教として約2500年前に新たに生まれたものであり、インドでは言わば「非正統派」です。ですが前回も申し上げたように、中期大乗の時代に発展した如来蔵思想にはウパニシャッドで説かれる梵我一如に通じる面があります。同じく中期大乗の時代に展開した唯識思想も、仏教の世界で「外道」と呼ばれるサーンキヤ学派から影響を受けているわけです。元々バラモン教に対する「アンチ」として登場した仏教は、時代が下るにつれてバラモン教やヒンドゥー教から影響を受けるようになっていくわけです。

如来蔵思想と唯識思想の統合

 ともあれ、衆生のなかに仏としての性質があると説く如来蔵思想と、現象世界のすべてを認識へと還元する唯識思想は、いずれも仏の法身や現象世界の根本が己のなかにあるのだという発想をする点では相性がいいところがあります。そのため、中期大乗の時代には、如来蔵思想と唯識思想を統合しようとした『楞伽経』という経典も生まれました。『楞伽経』には、如来蔵とアーラヤ識は同義語であり、同じ「もの」の異なる面を言い表しているのだと説いた次のような一節があります。

 如来の母胎の名で呼ばれるアーラヤ識が働きを止めその本来の在り方に転じない限り、現に働いている七識が消滅することはありえないでしょう。その理由は、アーラヤ識を因とし対象として七識が働くからです。(中略)如来の母胎は、[アーラヤ識として]現われ、五法[現実の基本的な五つの特性、名・相・分別・如・正智]、三性[分別性・依他性・真実性]、[法と人との]二無我を洞察するとき[アーラヤ識としては]消滅します。
(中略)
 そういう訳ですから、君も、そして他のボサツ大士たちも、この、如来の母胎がアーラヤ識なのだということを徹底して知る修行が必要です、私から聞いただけで満足しているようではいけません。

常盤義伸『ランカーに入る』禅文化研究所

 如来蔵思想では、仏の法身が煩悩に覆われていて、まだ顕現していない状態を如来蔵(この日本語訳では「如来の母胎」)と呼びます。煩悩に覆われた仏の法身が衆生のなかにあるというのが如来蔵思想です。ですので、アーラヤ識と如来蔵が同じだというのであれば、迷いの世界をさまよっている衆生の「心」であるアーラヤ識と、衆生のなかにある仏の法身は、(まだ顕現していない)煩悩に覆われた如来蔵を媒介にして重なることになります。よって、“本来的には”「衆生心=如来蔵=法身」であるという図式ができあがることになるのです。

 このように如来蔵思想と唯識思想を統合しようとする流れは、その後中国でも発展を続けて、如来蔵思想と唯識思想を巧みに統合した『大乗起信論』という書物が生まれ、その後の中国仏教のみならず、東アジア仏教全体にものすごく大きな影響を与えていくことになります。この『大乗起信論』は、日本仏教について考えるうえでも非常に重要な書物ですので、中国仏教篇で取り上げることにします。

 インド中期大乗についてはこのくらいにして、次回から後期大乗に入っていきたいと思います。

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