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日記のその後

遥か昔、日記を書いているという旨をnoteに記した記憶がある。

大したことは1ミリも書いてないが、読みたい方はコチラから。
このとき、私は3冊の日記をクソ真面目につけていた。

①長男の育児日記(起床時間、就寝時間、その日の出来事をチラホラ)
②次男の育児日記(起床・就寝・昼寝時間、排便について、その日の出来事など)
③個人的な日記(というかメモ)

正直、ヒマがあるときは苦ではなかった。
むしろ日記をつけないと気持ちが悪い!と思うくらいには習慣化していた。
歯を磨くようなものだ(意味不明

余談ではあるが、過去の日記はあの記事を書いてすぐに捨てた。
元彼のプリクラが貼ってあるものをはじめ、夫に出会うまでのものは全て捨てた。
ハタチ前からの私の思い出は、ゴミ袋に入れられ、灰になり、点に召されていったのである。

そうこうしているうちに、ある日突然、日記を書くことがとても面倒になってしまった。

理由として考えられるのは3つ。
1、日記を書いているほどヒマではなくなった
2、過去の日記を捨てたらどうでもよくなった
3、毎日だいたい同じことの繰り返しなのでメモする意味を見失った

そう、先日noteにも書いたが、なかなか忙しい日々を送らせて頂いている。
ので、日記を書くのはたかだか5分程度だが、その時間すら惜しいと思うようになったのだ。
というのは大げさだが、1,2日、日記を書き忘れるともう思い出すのも大変で、特に子供の排便事情とか起床時間とか、そんなものまでいちいち覚えとれるかい!ということになったのだ。

そして日記を捨てたこと。
結局、書いても捨てることになるなら、別に書かなくてもよくね?となった。
むしろ今までの私は「日記書き続ける記録」や日記そのものに憑りつかれていたのかもしれないと、そう思うくらい日記日記日記日記していたのだが、「書いてどないすんねん」という気持ちがついに勝ったのだ。

更に書く内容がないこと。
子どものことで、何ができた、これがこうだったとある程度書くこともある。
私も仕事家事育児の毎日の中でも、誰かと遊んだとか、どこに行ったとか、まぁ書くことがないわけでもない。
しかし日記として2行も3行も書くことがないのだ。
結局無理やりひねり出した文章を殴り書きのように吐き出していく、意味不明なノートが完成するのであれば、書かない方がマシだなと、そう思った。

というわけで、育児日記には2020年12月5日「今日から特別なことがあったときだけ日記を書きます」と高らかに宣言。
一応、思い出について聞いてくる授業などが小学校に上がるとあるらしいので、クリスマスだとか誕生日だとか旅行にいったとか、そういうことはなんとなく書こうと思っている。
といいつつ、この2か月で書いたのは10回。
多いのか、少ないのか、謎ではあるが、まぁとにかく毎日書くというストレスからは逃れられた。

そして自分の日記。
こちらも一旦は育児日記と同日にやめた。
しかし、それではなんとなく寂しい。
せっかく買った手帳(by100均)もムダになってしまう。

ということで、やめたといいつつ、日記は地味に続けている。
「このうそつき!メスブタ!」と思われるかもしれないが、日記といっても、実際は予定を書くメインのカレンダー部分に、一言書く程度だ。
これまでは手帳の後半にある、ウィークリー!な部分にたくさん書いていたので、もはや私のなかでこれは日記ではない。
ストレスもないし、可愛い字で書けるし、一応何があったか忘れなくて済むし、ウィークリー!なページに予定を書きなぐったりできるのが楽しい。

はじめからこうすべきだったのかな、と思うけれど人間は創意工夫したり失敗しながら学び、成長する生き物なので一応人生が折り返しに来る前に気づけてよかったかなと思います。ちょっと何を言ってるのかよくわかりませんね。

とりあえず、日記を書かなくていい!ということだけで1つ、ストレスから解放されました。
これはガス乾燥機を購入して「洗濯物を干さなくていい!」となったときくらいの爽快感がありますね。

そして子供の起床時間とか就寝時間を記入して「昼寝を〇時間したから~」とかイライラすることもなくなったので、それもまたよきかなと。

こうして人間は年を追うごとに、鈍感に、適当に、なっていくんですね。
10代、20代よりも生きやすいもんな、うんうん。

というわけで、今回は「日記をやめるとストレスなくなるよ!」についてご紹介しました(突然のブログ調)!

どうでもいいことなら15分で2000文字書けるのに、なんで仕事だと手が止まるのか、誰か教えてください。

以上

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