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家族の話①
結婚して、男児2人を出産した私は、現在家族4人で暮らしている。
が、生まれてから大学に進学するまでは両親と兄、そして母方の祖母と一緒に生活をしていた。
ウチの実家はごくごく平凡な家庭だった。と思う。
が、母はその時代には珍しい、フルタイムの会社員だった。
なので物心ついた頃から、私の世話は祖母がしてくれていた。
言わずもがな、私は超おばあちゃん子になった。
祖母が行くところにはどこへでもついていき、祖母がいないと泣いた。
趣味で日舞を習っていた祖母だが、私があまりにも泣くのでやめてしまったというエピソードもあるくらい、私は祖母が大好きで、祖母もまた、私を溺愛していた。
そんな祖母が病気で倒れたのは、高校1年生の冬だった。
その日はテストが終わったか何かで、友達とカラオケに行っていた。
ら、携帯が鳴った。
ババ友とのウォーキングを終え、暑い暑いといいながら洗濯物を取り込みにまた寒いところへ出たときに、頭の血管が切れたらしかった。
「頭が痛い、助けて」と言われたが、私は電車で1時間くらい離れた高校に通っていたので、すぐに飛んでいけるわけでもなく、とりあえず電車に飛び乗って、帰宅した(その時ホームを走っていて2000円落とした)。
母が会社から急いで戻り救急車に乗ったらしく、帰った家の中はしんとしていた。
その後、病院に行ったときのことは今でも覚えている。
明るく元気な祖母のことだから「ちょっと調子が悪くなっちゃったわ~ごめんね心配かけて」とベッドの上でピンピンしていると思っていたが、病室にいたのはまさに「死にかけの人間」だった。
私が病院についてしばらくしたら突如嘔吐もし、高校生ながら「あ、この人死ぬのかな」と思った。
医師には「寝たきりになります。最悪ボケます」と言われた死にかけの祖母は、あの日から15年経った今、元気に韓国ドラマを見て笑っている。
残念なことに半身不随となったが、マジで根性がすごい(語彙力)ので、リハビリを頑張り、トイレや食事、着替えなどは自分でできるようになった。
あの日、私が寄り道をせずに早く帰っていたら。
洗濯物を取り込んであげていたら。
そもそも祖母が持病の高血圧の薬を、日頃からしっかり飲んでいたら。
後悔はたくさんあるが、そうやっても先に立つものではないので、とにかく祖母を大切にするようには心がけている。
大学進学で実家を離れたときも、月に1度は顔を見せに帰ったし、今も、近距離なので週に3~4回は会うようにしている。
60代だった祖母も、もう80代になった。
大病というより、寿命が近づくお年頃だが、最期まで幸せに生きてほしいし、なるべく長く、一緒にいたいと思う。
そして子どもたちの記憶にも、少しでも長く、濃く、残ってくれればいいなとも、思っている。
別れのときがきたら、いくつになっても私はきっと受け入れることができないだろうけど。
でも、やっぱりいつかはやってくるものだから。
今度こそ、後悔のないような、そんな時間を過ごせますように。
終わり
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