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S君のこと

無知がもたらす不寛容について考える。

私はこの歳になってもあまりものを知らず、ぼんやりと生きてきたので、そのせいで自分にはそんなつもりはなくても人を傷つけてきたことがあるだろうと、それくらいの想像力はある。

ここでは、今でも覚えていて、思い出すたびに心の奥がうずくある出会いについて書こうと思う。

それは私が小学校6年生のときのことだ。私は数年前に他県から引っ越してきていて、以前の小学校には、特別支援学級というものはなかった。だから障害のある子どもと交流したことが全くなかった。身内にも家の近所にもいなかった。いや、いたのかもしれないけれど、少なくとも私の眼には入っていなかった。

転校先の小学校には、1クラスだけ特別支援学級があり、週に一度、その子の年齢に該当する普通学級にきて一緒に学ぶ日があった。

私のクラスには、S君という男の子が来ていた。私は学級委員をしていたので、S君は毎回、私の隣の席にきた。授業を受けながらあれこれとお世話をするのだ。

S君は、とても大柄で、私も背は高いほうだったけれど、それでも10センチは彼のほうが高かったし体重もあった。
彼には知的障害があり、あまりまとまった言葉をしゃべることはなく、「ありがとう」とか「あれ」「それ」「ちょうだい」くらいで、あとはボディランゲージと表情でなんとなくコミュニケーションをとっていた。

話は少し変わるけれど、私は親から「人には親切にしなさい、困っている人がいたら助けてあげなさい」という教育を受けて育ってきた。3歳下の弟は、だいたい私が育てたようなものだ。

なので、S君にも親切にしてあげたし、困っているようだったら助けてあげた。当然のこととして疑問に思わなかった。

しかしこの「あげた」というのがくせもので、しなくていいなら本当はそんなことはしたくなかったのだった。学級委員だって子供だ。なのにクラスのみんながS君の世話を全部私に押し付けてくるようになって、それが当然、という空気になっていった。先生も「みんなで手分けしてお世話をしなさい」とは言わなかったので、私は自分の仕事としてそれを全うしてはいたけれど、全然納得していなかった。

そしてS君はS君で私を全面的に頼るようになって、授業中もずっと私の顔を見ているし、校内で私を見つけると満面の笑みで駆け寄ってくるようになった。

それが私にはしんどくてしんどくて。一緒にいる友達が「ほら、S君がきたよ!」といって私の背中を押すのも嫌だった。いつしか遠くにS君の姿を見つけると向こうに見つかる前に逃げるようになった。

   ***

ある日、委員会で遅くなって一人で下校していた。それもたぶん仕事が断れなかったのだろう。夕方のチャイムが鳴るころだった。

私の通学路には県道が走っていて、車の往来が激しいので、児童は陸橋を越えて帰る決まりになっていた。その陸橋の真ん中あたりでS君が欄干から走る車を眺めているのが見えた。

私はとっさに「どうしよう」と思った。陸橋を渡れば、絶対にS君に見つかって、いつものように近寄ってくるだろう。そしてよくわからないことを言いながらまとわりついてくるのだ。それをうまくかわすすべを持っていなかった。

しばらくすればどこかに行くだろうと思って、陸橋の下で待ってみたが、S君はずっと車の流れを見ていて、動く気配がない。誰かほかの人が通れば、その人についていこうと思ったが、そもそも下校時間をとうに過ぎているのでだれも通らない。あたりはどんどん暗くなっていった。帰りが遅くなれば、母に怒られる。

私は、追い詰められて、泣きそうだった。どうしよう。どうしよう。でも、陸橋を渡ることはできない。今なら悪気がないことはわかるのだが、当時は大柄なS君が手を前に出して駆け寄ってくるのが純粋に怖かった。

もうしょうがない。私は禁止されている県道を渡ることにした。校則違反だから自分の中では忸怩たる思いがあったが、その時はS君に見つからないことが第一だった。陸橋の下をくぐって、信号のない横断歩道のところで車の切れるのを待って道路を渡った。

その時、クラスのガキ大将グループが自転車で通りかかって、「あー! 陸橋わたらないといけないんだぞー!」と一斉にはやし立てた。間が悪いにもほどがある。「委員長がそんなことしていいんですかー」「先生に言ってやろー」

いつもの私なら、何か言い返すところだけれど、もうそんな気力はなく、口を引き結んで彼らをにらむだけだった。なんで私がこんな目に遭わなくちゃならないの! その怒りはS君に向いた。

それ以降、私はS君を徹底的に無視した。それまでは嫌でも愛想笑いをしていたのをやめ、先廻りをしてのお世話をやめ、距離を置いた。それでもS君は私を見つけると近寄ってきた。それには「こんにちは」とだけ言って去り、その様子に友達もさすがにけしかけるのをやめた。

   ***

そして卒業式だ。

無事に式は終わり、教室での先生のお話も終わり、三々五々校庭に出て、友達と写真を撮ったり、ちょっぴり泣いたり、おしゃべりをしたりしていた。参列していた保護者もたくさんいたので、その場はごった返していた。

そんな中、S君はもじもじしながら近づいてきた。

1メートルほどの距離まで来ただろうか。それ以上は近づこうとせず、かといってどこかへ行くこともなかった。

私はそれに気づいていたのに、友達とずっと話をしていた。中学生になっても仲良くしてね、春休みに遊園地に遊びに行こうよ、今日はこれから何する?

すると、S君の背後から女の人が現れて、私に「うちの子と握手してもらえないかしら」と言った。S君のお母さんだった。大人の歳はわからないけれど、自分の母親よりだいぶ年上なのはわかった。着物を着ていたような気がするが、記憶違いかもしれない。

「…あ、はい」

いやだとは言えず、私はそういって手を出した。でも、私はその手に卒業証書やサイン帳や卒業記念品やいろんなものを持っていたのだ。

S君は嬉しそうに近づいてきて私の手を握った。私は、ほんの指先だけでおざなりな握手をした。嫌々なのは明らかだ。それでもS君のお母さんは、

「どうもありがとうね」

と言ってS君と一緒に離れていった。

少し離れたところからその様子を見ていた母は、駆け寄ってきて

「どうしてちゃんと握手してあげないの!」

と私を叱った。当然だ。でも私は「だって、荷物あったし…」ともごもごと言い訳をして、結局、握手をしなおすことはなかった。

それ以来、S君には会っていない。中学校は養護学校に行ったと聞いた。町で見かけることもなかった。彼はどうしているだろう。今でもときどき思い出す。

あの時、きちんと握手をしなかった自分をずっと責めている。傲慢な自分が出てしまいそうなとき、しょせん、お前はあの程度の人間なんだぞ、と戒める声がする。偽善者め、と。

私はどうすればよかったのだろう。いい子ぶらずに先生に「できません」と言えばよかったのか。なんでもかんでも引き受けていっぱいいっぱいになって結局周りに迷惑をかけることになるのが私の悪い癖だった。

障害について、もっとよく知っていたら、もう少し寛容になれたし、40年近く後悔することもなかったのだと思う。S君は知ることの大切さを教えてくれた。
彼に会って謝りたいと思うこともあるけれど、それは、自分の罪悪感を軽くしたいという私のエゴだ。

無知はそれだけで人を傷つけることがある。完全に理解することはできなくても、知ろうと努力することはやめたくない。

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