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デフォルトで削除|Jon Uriarte “Delete By Default”

インターネットやクラウドサーバーにアップロードされた画像は、どのくらい先まで残り続けるのだろうか。少なくとも今の自分は、そんな疑問を抱く間もなく、撮って出しの勢いのままSNSの投稿ボタンを押す。何を得て、何を失っているのか、よくわかっていない。

この記事では、日々大量にアップロードされ、インターネットの網目を流通する、ネットワーク化された画像が与える環境への負荷を念頭に置きながら、これまで続いてきた写真とその周辺文化の存在意義の問い直しを試みている。ここで提案されるのは、デフォルトで削除する=画像に有効期限を設けること、だ。これまで記録媒体として捉えられてきた写真は、今やコミュニケーションを促進する媒体へと姿を変えている。例えば、InstagramのStories、Snapchatの後釜として(?)定着しつつあるBe Realといった「消えるSNS」。われわれは一体何を求めて削除が前提となった機能を使い、そしてそれはどんな結果をもたらすのだろうか。

資本主義のスピードに合わせて(もしかすると人間を置き去りにして)様態を変えつつある現代の写真を理解するためには、ほとんどルーティンと化した日常の行為から見直してみる必要があるのかもしれない。

text&translation|酒井瑛作
image|松田瑞季 “SI→WA” IG


元記事:Jon Uriarte “Delete By Default” Unthinking Photography



資本主義後期の影響を受けながら、生きて抵抗するためには、批判的な想像力を必要とする。
 
気候変動や相次ぐ経済危機、戦争や困窮の時代において、哲学者のマリナ・ガルセスは、それらの本当の意味合いと、そこから派生する物語をどのように切り分けることができるのかを問いかける。現状が成り行きのまま不可避の未来となる時、そこには遵守するか否定するか、ユートピアかディストピアかのどちらかしかなくなることに警鐘を鳴らす。そしてガルセスは、「想像の生態系」の必要性を説いている。
 
それは3つの側面からなる批判的かつ解放的なプロセスで、まず自分自身にとって見知らぬ者になるために他者を取り込むこと、次に過去や未来に逆らって生きることをやめて時間の流れのなかで生きること、そして最後に知らないことを学ぶことだ。
 
1つ目は、他者を受け入れるだけではなく、他者がある共通世界を共有されたものとして認識できる可能性を開き、そうすることで自分自身にとって見知らぬ者になることを示唆している。2つ目は、過去の未来像を追い求めるかわりに、いつか想像しうるある共有する時間のなかにいることを学ぶことを意味している。3つ目は、知っていることと知らないことが衝突することなく出会う閾値を提案している。それは飽和した関心を持つわれわれが、知らないことを学び、それゆえに「予告された黙示録の時代において、解放に向かう批判的かつ想像的なコミットメントの出発点」となるような疑問を投げかけることができる地点である。
 
写真は、代替案がどこにもないかのように思える今日の不安な現実に寄与している。写真のデジタル化とネットワーク化以降、その物質性、流通、価値、人間的・非人間的な利用といったものの核となる要素の多くが根本的に変化したとはいえ、その変化のほとんどは後期資本主義システムによって発展してきた搾取的で累積的なゴールを目指すことで駆動されてきたものだった。最初のデジタル画像の起源は、その良い例となるだろう。1957年当時は、ほとんどすべてのデジタル入力データは手作業で処理されていた。機械が処理できるようにするためには、パンチカードや磁気テープの文字を目視で確認する人間が必要だったのだ。
 
「問題は、通常人間が視覚的に処理してからデータ処理システムに供給する情報を、コンピュータが直接利用できるようにすることである」
 
ピクセルを発明したラッセル・A・カーシュを始めとするエンジニアやコンピューター科学者たちは、「入力プロセスにおける人間の介入を減らす」ために、機械がどのように「見る」ことができるのかを研究した。カーシュの生まれたばかりの子どもの写真は、初めてスキャンされた写真のひとつとして公開され、マスメディアにおける新技術の詩的なメタファーとなるような、写真史上の画期的な出来事となった。
 
しかし、その画像は彼らの研究論文には掲載されなかった。この決断は、表現的な伝播性とその物質性の根底にある複雑さとの間に存在する葛藤を、史上初のデジタル画像の発表が正確に示すであろうことを仄めかす。機械的な視覚リテラシーの発展がもたらすであろう広範かつ多面的な意味合いは、赤ん坊の魅力的な物語と科学的好奇心という人間中心主義の原動力によって、すでに影で覆われていた。
 
カーシュと彼のチームは、写真それ自体が見るという行為にあらかじめ付加している記号化の作用を考慮に入れないまま、考察するための最初の対象として複数の写真を選択し、画像処理の分野を確立した。彼らは写真を従来のフォトジャーナリズムが主張するような透明なメディアとして利用していた。しかし彼らの意図は、ジャーナリズムの恩着せがましい決まり文句のように、世界をありのままに見せたり、見えないものに声を与えたりすることではなかった。画像処理は、コンピューターの計算能力を合理化し向上させ、ある種の活動から人間を排除するのに十分な視覚リテラシーを持たせるために、もともと開発されたものだった。
 
デジタル技術と並んでインターネットは、イメージを通じてわれわれの生活の方法、仕事の方法、そして人間関係のあり方を一変させたもうひとつの大きな力だ。軍事研究プロジェクトとして誕生し、欧州原子核研究機構(CERN)の科学実験を共有するために発展して以来、インターネットの目的は一貫して情報の流通を促進することにあった。
 
インターネットに初めてアップロードされた画像は、音楽グループ「Les Horribles Cernettes」のもので、その目的によく合致している。この画像は、撮影者の重要な一瞬を切り取るような技術力を披露していないことは明らかだし、デジタルフォークロアの美学にとって初期の一例というだけであって、何も記録されてはいない。インターネット上の最初の画像の重要性は、インターネットそれ自体のコミュニケーションの可能性、関わり合いの可能性、そして1992年にグループのコンサートに参加したいと感じたかもしれない視聴者たちの感情的な反応を誘発する可能性に依っている。そしてそういった反応は、視聴率や認知度といったものへ引き継がれ、数年後にはソーシャルメディア企業によって残酷なまでに利用されることになった。
 
最近、衰退し始めたように見えるソーシャルメディア時代は、1990年代末の.com時代に次いで、インターネットのマネタイズに成功した2番目の試みと考えることができるだろう。その間により短期間ではあるが、同じように熱狂的な動きがあった。それは例えば、最近のクリプトの狂乱や、画像をレア商品に変える涙ぐましい努力。それらは、ウェブ上で富を蓄積するメカニズムを作り出すことに成功している。インターネットのトラフィックの大半が視覚的なものであることを考えると、ネットワーク上の画像が今日のわれわれの生活において果たしている役割を否定することはできない。
 
ソーシャルメディアのプラットフォームは、写真や動画の使用に関して、自分を表現し、互いに交流するためのツールとして使うことを推奨しており、記憶のためのツールとして使うことはあまり推奨していない。瞬時に写真を共有できるカメラ付き携帯電話のアプリは、写真が記録することや記憶に残すこと、芸術的に表現することよりも、社会的なコミュニケーションツールとして使用されている現在の視覚的行為から、大きな利益を得ているのだ。これまで写真主導のソーシャルネットワークでは、キュレーションされた自分自身の画像を作成し、他人に共有することが主な目的であったことは間違いない。しかし、最近のプラットフォームでは、それが変化しつつあるようなのだ。
 
慎重に構築されたオンライン・アイデンティティを貪欲に利用する企業に対する批判が当たり前となり、よりカジュアルで一時的なイメージの利用が好まれ始めている。押し付けられた道徳的な制約、競合他社を模倣した突然の機能変更への物議、恥知らずなマネタイズ戦略への反発などにより、いくつかの最大手プラットフォームは苦戦を強いられてきた。一方で、アルゴリズム的に加速されたビジュアルメディアの底無し沼を選んだ企業は、より多くの注目を集めている。開かれた公開メディアは、特定の家族や友人に向けてというよりも、すべての人に向けて最大の範囲に届くことを目的としている。反対に、個人的な交流は、グループや個人のプライベートなチャットを通じて行われることが多く、特に若い世代では画像も重要視されている。表現ツールとしての写真の機能は、アイデンティティの形成(以前は記憶の保持)から、コミュニケーションの促進へと移行しつつあるようだ。写真というメディアは、常にこの3つの役割を内包しており、そのパワーバランスは時代とともに変化してきた。
 
コミュニケーションへの傾倒は、消費者向けメモリデバイスの開発と大量導入によるデジタルストレージの安価化を促進し、コミュニケーション用途での使用を指数関数的に増加させた。同時に、いわゆるクラウドと呼ばれるサーバーにデータを無料またはわずかな費用で保存するという、大手ハイテク企業による毒々しい提案によって、デジタルストレージはバーゲン状態となっているかのようである。携帯電話というほとんどの人が常に持ち歩くデバイスで画像を作成し、共有し、保存することが簡単かつすぐにできるようになった。そして膨大な量の画像が生まれ、それらを理解するために人間は自動化されたシステムに頼るようになる。
 
このような絶え間ない規格外のスケールの成長は、さらなるインフラやエネルギー源を必要とするため、深刻な環境問題に発展する。近年の科学的な研究では、クラウド上に残存する有り余る画像がいかにCO2排出量を増加させるかが明らかになっている。解像度やライブストリームの帯域幅は、ストレージの容量とともに、何年も前から一貫して拡張され続けてきた。画像やスクリーンサイズ、処理能力、ストレージ容量が大きくなり続けることは、マーケターたちにとっては無限の可能性を秘めていることらしい。しかし、そのような大量生産技術がもたらす影響に疑問の声が上がり始め、消費文化の枠を超えた新しいアイデアや環境に配慮した実践が生まれつつある。地球の資源は転換期を迎えており、場合によっては不本意であっても新しいシナリオを認識することで、行動を起こさざるを得なくなっている。
 
ここで、マリナ・ガルセスの「想像の生態系」に立ち返ることは、典型的な社会問題/解決策の二元論を越えて批判的に考える方法として有効かもしれない。わたしは、搾取のロジックによる影響からわれわれすべてを救うような特効薬を求めているわけではない。少なくとも異なる種類の写真、おそらくより環境破壊の少ない写真を想像する可能性を提供できるような、代替的な視覚文化やイメージの物質性について考えてみたいのだ。そのためには、特にネットワーク化されたイメージの役割について考えるときには、社会が企業の搾取に対応して一般的な視覚的実践を変化させてきた方法を振り返ることが重要だろう。写真を、記録や保存のための手段ではなく、主にコミュニケーションのための手段として再考することで、探求すべき異なる視点が開かれる可能性がある。
 
ガルセスの原理を応用して、写真を批評的に捉え直すにはどうすればいいかを考えると、最初のステップである「自分自身にとって見知らぬ者になるために他者を取り込む方法」がもっとも重要かもしれない。(人間によって生み出された)デジタル写真の現在のデフォルトの役割が、現実の記録や記憶の保存ではなく、情報やアイデア、メッセージを伝えることだと仮定すると、われわれはこのメディアが背負っている義務から解放させることができる。それは、世界を分類し記述するためのツールという主だったモダニズム的な機能を捨て、他のコミュニケーション手段とともに、コミュニティ的な機能を受け入れることから始まるだろう。会話に触発されて写真は生み出され、共有されることを目指すが、永遠には保存されない。技術的な発展によって、写真はデフォルトで削除されるようになり、デジタルデータの保存に対する新たな抵抗が可能になるのだ。
 
ビクター・マイヤー=ショーンベルガーは、著書『Delete: The Virtue of Forgetting in the Digital Age』でこう述べている。
 
「デジタル的に記憶することは、われわれ人間が進化し、発展し、学習する機会を否定し、永久の過去と無知な現在という、同じように厄介な2つの選択肢の間で無力に揺れ動くままにさせる」

 マイヤー=ショーンベルガーは著書で、データの体系的な保存とマネタイズがもたらすプライバシー侵害や風評被害、時代遅れで誤った情報といったものの影響について検証している。デジタルの時代が、デフォルトを忘却することから記憶することにシフトさせ、結果的に人間の抽象的な思考、知識の交換、そして能力の開発が損なわれていると言うのだ。これに対して彼は、技術的な解決策を提示する。それは、すべてのデジタルファイルが保存される際に、有効期限の設定を求めることで、ファイルの目的や望ましい寿命について管理者に決めさせたり、考えさせたりすることだ。規定の時間が経過してファイルが自動的に削除されれば、保存スペースが節約され、記憶も解放され、ガルセスの提案通り「知らないこと」を学ぶことができるようになる。
 
マイヤー=ショーンベルガーの著書が出版された2009年は、Facebookが新しいプライバシー設定を導入し、特に指定がない限りすべてのステータスアップデートを公開するようになった年だ。当時、個人データは、市民の自由運動家やその他の組織がその分かりきった問題(EU議会では「忘れられる権利」が承認されるまでには、あと5年かかると言われていた)について警告する中、成長するハイテク企業によってほとんど気にかけることなくオンラインで共有されていた。
 
たとえ彼らが、個人データ管理の影響について懸念することが正しかったとしても(アルゼンチン、ケニア、マレーシア、英国、米国、南アフリカといった国々の選挙キャンペーンで、Facebookによる影響が関わっていることは明らかだが)、すべてのデータが保存されたまま、あるいはアクセス可能なままであるとは限らないことが分かってきている。ほとんどの場合、保存とアクセスは、データの潜在的な文化的価値を認識せず、収益性によって削除、更新、制限の決定を行う企業によって管理されている。これに対して、公的機関やInternet Archiveのような独立した組織は、廃棄されたインターネットの断片のうち、残す価値があると思われるものを取り出し、保存する有益な作業を行う。とは言え、不用意に消去されたデータを考慮しても、常に生成され続けるデータは膨大であり、すぐに扱いきれなくなる。このようなデータ量の容赦ない増加を受け、保存組織の中には、すべてをアーカイブすることから、厳選されたものをアーカイブすることに当初の戦略を変更したところもある。これは非常に重要な決断ではあるが、それでもデータ生成それ自体に影響することはない。

彼の著書が出版されて以来、いくつかの進展によって、デジタルファイルの有効期限を検討するという彼の提案はより有効となっているように思われる。この本は、デジタル時代がもたらす環境への影響や削除することでそれらを軽減できることを想定してはいなかった。彼の提案では、忘却という大きな枠組みのなかでのイメージの役割についての分析が含まれていたが、写真と記憶の関係にまつわるより抽象的な対立については議論されていなかった。
 
この本は、消える写真を流行らせたアプリ「Snapchat」から2年先行していた。同社の共同設立者の一人は、ブログの最初の投稿で「Snapchatは、従来のkodakのような一瞬を切り取るものではありません。綺麗に見えるもの、完璧に見えるものだけではない、人間の感情をフルに使ってコミュニケーションするものなのです」と述べた。
 
写真や短い動画を消すというアイデアは、その後他の企業でも採用された。しかし、Snapchatが主張する1ヶ月の保存期間を過ぎても、そのほとんどをサーバーから削除していない。それらのデータは、アテンションエコノミーを継続させ、マシンビジョンのアルゴリズムをトレーニングさせるためには、資源としてあまりにも貴重なのだ。
 
ファイル自体のメタデータに時間制限の機能を組み込めば、企業が真逆の主張をしながら黙って画像を保存することを避けられるだろう。デジタル写真をデフォルトで削除するように設定することで、監視に抵抗し、プライバシーを強化し、日常の社会的交流におけるマネタイズを回避するためのメカニズムを提供できる。そして、研究分野でありながら一大産業になりつつあるコグニティブ・コンピューティング、いわゆる人工知能の開発のために、昨今横行しているデータ抽出を制限することもできるかもしれない。ユーザーが生成した膨大な画像のコレクションは、写真を認識し分類するだけでなく、そこから新しい画像を合成するツールを作成するための不可欠な材料となる。マリナ・ガルセスが言うように、過去の未来を想像することはできても、「時間の流れ」を想像することはできない技術なのだ。
 
画像保存の際に有効期限の設定を義務付けることで、その重要性の影響を考慮できるだけでなく、保存する主体に一定の権限を与えることができるようになる。マイヤー=ショーンベルガーは、このアイデアをより柔軟にする別の機能性も示唆している。有効期限は時間の経過とともに画像の関連性が変化した場合に更新できる、間もなく削除されることについて再考する機会を与えるアラームを設定する、などだ。もちろんデジタルメディアの基本的な機能の一部と、すべてのファイルフォーマット(特に私的な利害関係者によって作成・管理されるもの)で、この機能が採用されているかどうかを証明することはできない。そう考えると、記憶や表現のためのツールとしての視覚文化の役割は、優勢ではないだけでまだ利用できるものだと考えてよいだろう。
 
デジタル写真をデフォルトで削除するように設定することは、非常に複雑な技術的努力を必要とするが、もっとも重要なことは、従来の写真文化の一部を忘れ、再考を求めることにある。それはある媒体を保存することの意味を問い直し、ある規範的な歴史的慣習を永続させることではなく、その変化する性質を認め、批判的に調査することを提案するものである。その主な特徴である耐久力を捨て、循環、効果、相互作用の方にバランスを取るのだ。
 
そうなると、デジタルの視覚芸術が近年取り組んでいる、作品の寿命との関係においてその存在を永続させ、さらに商業化しようとする技術的な試みについて再考を迫ることになる。写真というメディアを、これまで常につきまとってきた「死」の連想から切り離し、ライブ・パフォーミング・メディアとして捉えることが求められているのだ。「死」は、写真が不動のものでもなければ、バルトの言う指示対象の発露でもない時代においては、時代遅れの例えとなっている。そのうえ、この分野で新しい技術開発が発表されるたびに主張されることに反して、写真そのものが死んでいるというわけでもない。写真それ自体のなかには多くの故人の習慣や概念を含んでおり、他のテクノロジーと融合しながら存在しているため、しばしば定義することが困難になることがある。そしてそういった事態が、この20年間で生産手段のデジタル・リベラル化(わたしはあえて民主化とは呼ばない)に後押しされ、これまでの歴史上でもっとも鮮明なものとなっているのだ。
 
写真とは、それ自体とその生産条件、そしてその周囲の環境のアマルガムを再現するものであり、ほとんど制御できない、絶え間なく変化する生きた人工物である。それはむしろ、ネットワークや生物の中でしか自己を複製できない、ウイルス的な存在を思い起こさせる。もっとも小さく、もっとも多くの種類の生物体の一つであるウイルスに似ていると考えられるだろう。生物に帰属する機能のうち2つー互いに関連し、再生するーを実行することすらできる、生物とは何かという概念に迫る主体。生命進化の根源的な要素であるにもかかわらず、多くの人が知らないまま、病いにだけ紐づけられるものののことだ。
 
写真、拡張写真、ポスト写真、画像、ネットワーク化された画像、コンピューテーショナル・イメージ……。矛盾していて、掴みがたい、同意するには難しい用語たち。デフォルトで削除することを取り入れることで、この媒体は、日常的な行為主体から文化的な組織まで、あるいは、そこから利益を得る企業まで、さまざまな分野や媒介者にまたがる記憶の保持者としての地位を見直さざるを得なくなる。写真は、自らの存在意義(raison d'être)を問うような別の可能性を探求するために、「想像の生態系」を維持し続ける必要があるだろう。
 
 

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