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充満する光|遠藤文香

光で満たされた自己と他者の新たな親密圏。

かつて人類が普遍的に有していたというアニミズムの想像力を介して、北海道の壮大な自然とその土地に宿る霊性を捉え、人為と自然の境界が溶け合うイメージを作り上げる遠藤文香。マジックアワーのようなペイルカラーのトーンは、幻想的な美しさを感じさせると同時に、地質年代「人新世」が示すように純然たる自然はすでに存在しないのだと痛感させられる両義性がある。

彼女が希望を託すのは、エーテル(媒介)としての光の存在だ。ストロボによる光を当てることで世界を照らし、世界もまたこちらを照らすという光の媒介作用を、森羅万象との関係を結び直す糸口として提示している。人の手によって分割され、断絶した世界が光で満たされるとき、「あなた」と「わたし」の間にもたらされる福音=イメージとはなんだろうか。

*“when I see you, you are luminous”(2023年7月7日〜7月29日)開催にあたって、「セルフィー」掲載インタビュー(2022年9月収録)を再編集して公開します。

text|酒井瑛作
image|ayakaendo “when I see you, you are luminous" 2023 IG

 
自然に触れる瞬間が救いだった。

――個展“The belief in Spiritual Beings”(2022年9月開催)(*1)について聞かせてください。石や山肌の写真が中心で、色彩だったり質感だったりが前面に出ていると感じました。これまでの動物や自然の風景とは別の関心に移ったのかなと感じたのですが、どうですか?
 
前作《Kamuy Mosir》(*2)では動物や自然のシリーズをつくっていたのですが、そこまで意識は変わってません。以前から石などの無生物は撮っていたし、「前回は動物で、今回は石」という分け方をされることもあったのですが、違いはそこまでないですね。違いがあるとするなら、前回は合成だったりと結構手を加えていましたが、今回はそこまではせず、色彩や形といった対象の声をそのまま引き出すような作業が多かった気がします。

――意識的には、違いはないんですね。
 
定期的に時間ができると北海道の東の方へ行って撮影していて、撮り方も変わってないんです。モチーフを絞ったので、違うように見えたのかもしれません。
 
――モチーフを絞ったのは、見せたいものが変わったとかでもなく?
 
私は、がちがちにコンセプトを決めて撮りに行くタイプではなく、何を撮るかもあまり決めずにどこかへ行くことが多くて。今回は流氷がどうしても見たかったので、たまたま3月の北海道でした。なんとなく行きたい当てはありますが、現地ではいろいろな所をまわっていて、他にも撮ったものはあるのですが、硫黄山(アトゥサ ヌプリ)で撮ったものがはまったので、今回はそこに絞ろう、と。
 
――展覧会のステートメントにあった「この世界のあらゆるものとの繋がりの中にいることを自覚すること」という言葉が印象的でした。その点は変わっていないということですよね。
 
そう思います。撮影しながら、石でも木でも動物でも、「独立した他者」としてある自然に心が動かされる。そのとき、これが何であるという判断すら加わる前に、自他の境界が曖昧な環境と一体になるような感覚があります。何よりもその没入している瞬間に、彼らと対等でいられる感じがするし、その感覚はとても重要なことだと感じています。
 
――遠藤さんにとって自然物や動物は重要なモチーフで、かつそれらに聖性や神性を見出しています。そういった捉え方がどうやってできたのかが気になります。
 
私は埼玉県の浦和で育っていて、自然が多い場所じゃないんですよ。だからこそ、自然に対する憧れが強いんだろうな、と。祖父母の家が兵庫県にあったのですが、小さい頃は冬と夏に長い期間遊びに行って、山を登ったり海に潜ったりをずっとしていたのが、原体験としてある気がします。幼稚園の頃の記憶を遡ってみても、これは何だろう?と植物や虫をまじまじと見ていたことを思い出します。その没頭している時間は私にとって、現実逃避できる瞬間というか、幼少期からかなりの救いだったことを思い出しました。東京藝術大学デザイン科を受験していたとき、いろいろなモチーフを絵の具で描かされるのですが、自然物だけは描くのが上手で、コップとか人工物になるとまったく描けなくなる。昔も今も自然物に惹かれるのは変わらないんだと思います。
 
――昔から自然に関する写真は撮っていたんですか?遠藤さんの写真との関わりはどんなものだったんですか?
 
写真を撮る意識は、これまでですごく変わってきました。中学生の頃におばあちゃんがデジカメを買ってくれたのがきっかけで、毎日学校で友達を撮っていました。学校生活が一瞬で過ぎ去る、尊いものだとわかっていて、この瞬間を忘れたくないという一心で記録のために撮っていました。
 
大学に入ってからもフィルムカメラをずっと持ち歩いていて、楽しい!と盛り上がっている瞬間にこそずっと撮っていたので、楽しむというより撮ることに取り憑かれている感じで。本当はただ楽しむことに集中する時間もほしかったから、撮らないといけないという強迫観念がありすぎて同時に苦しかった。
 
そういうスナップ写真を使って作品にしようとしていた時期もあったのですが、やっぱりただの思い出というところから抜け出せない気がして。私にとってはかけがえのない写真でも、他人から見たらどうかはわからない。編集能力がなかったのもあると思うんですけど。そうしているうちに、コロナが流行って意識が変わったというか。スナップの場合はたまたま行った場所で撮るという感じだったけど、作品のためにちゃんと撮りに行こうという気持ちになりました。

――スナップを撮っていたときは遊びとセットになっていたけど、もう少し意識的に撮ろうと思った、と。
 
そうですね。作品をつくる意識で写真を撮るようになってからは、逆に日常にはまったく執着がなくなってしまいました。
 
*1|2022年9月22日〜10月2日、NADiff a/p/a/r/t NADiff Galleryにて開催。
*2|2021年、東京藝術大学大学院卒業・修了作品展にて発表された。タイトルは「カムイの国」の意。
 
 

導かれるように登った雄阿寒岳。

――過去のインタビューを読むと、作品として写真を取り扱うことに対して試行錯誤がたくさんあったんだろうと思いました。
 
写真ではなくデザイン科だったし、作品にできずかなり悩んでました。はじめて写真と向き合ったということもあって、何をしていいかがわからなかったです。最終的には、カメラもデジタルに切り替えて、修了作品展として《Kamuy Mosir》に至りました。それも突然、北海道に行かなければ!と思ったのがきっかけです。徹夜明けのお昼くらいに急に思い立って、次の日の朝からのチケットを取って、いきなり北海道に行ったんです。
 
――もともと何か決まっていたわけではなく、突発的に。
 
漠然と動物を撮りたいとは思っていたのですが、10月だったので北海道はもう冬。牧場は全部閉まっていて、動物とまったく会えなかった。これじゃ帰れないと思って、小学生のときの高尾山くらいしか登った記憶がなかったのですが、突然、雌阿寒岳(*3)を死にそうになりながら登って、それが作品になっていったんです。つねに突発的にしか行動できない人間で……。
 
――大学時代に撮ることに取り憑かれていたと話されていましたが、それとは別の感覚ですか?
 
どこかに住んで、その地の人間としてゆっくり向き合うというよりは、偶然の出会いによって心が動かされてしまう瞬間にシャッターを切りたくなる。そこはスナップのときから変わっていません。若い頃は楽しい瞬間がいっぱいあるじゃないですか。そのときにシャッターを押さないとって、やっぱり忘れたくない気持ちが強かったです。ただ、いまは日常のことは覚えていたいとは、ほとんど思わなくなりました。大人になったのかもしれません。
 
――いきなり北海道に行って、それが作品になったというのは偶然でもすごいですね。
 
何かに動かされていたようでした。ただ、北海道以外で撮った写真もあって、最後の形にするまでは試行錯誤もしています。ずっと写真が好きだったのですが、大学院ではグラフィックデザインの研究室に在籍していて、平面に落とし込めればわりと何をやってもいい環境だったので、勝手に写真を撮っていたんです。一方で、写真を好きだからこそ仕事にしたくないという思いもあって、修了制作が終わるまでグラフィックデザイナーになるんだろうと、就活もしないまま思っていました。でも結局、個人で仕事をするなかで真面目な人が仕事としてやるものだと気がついて、私にはまったく向いてないとわかりました。
 
昔、絵を描いてる友達に「好きなことに対して失礼のないようにしなさい」といわれたのが、ずっと引っかかっていて。写真が好きだったのに、仕事にしたくないと言ってずっと向き合うことを避け続けていたんです。だから最後の修了制作ではじめて向き合うことにした。なので《Kamuy Mosir》は自分のなかではじめてちゃんと写真と向き合った作品です。
 
――それからストロボを当てた淡い色彩のスタイルが出来ていったんですね。
 
見たことのないものを見たいという欲があるし、写真を撮っているときもつねに見えているもの以上のものを求めている。それでストロボを焚いたり、イメージに手を加えていたりして、暴力的じゃないですけど、欲深いなとは思います。
 
*3|8つの火山で構成された成層火山群の総称。標高1,449m。
 
 
 

不可視の存在への想像力、アニミズム。

――見たことのないものを見たいという欲は、どこからやってくるものなんですか?
 
自然が好きだから自然を撮ろうという単純な欲求からはじまっているともいえるし、何を伝えたいか?と問われたら「自然との繋がり」はとても重要なテーマなんですね。もともとは、家畜や動物園の動物など、人の手で育てられている動物や植物を撮っていました。そういうところに意識が向いたのは、絶対的にコロナの影響が強かった。コロナになってから一時期鬱っぽくなったとき、頻繁に自然を求めて公園に行ったりしていて、自然だけが救いだと強く感じていました。
 
それに加えて、人間社会に思うことが増えたというか。そもそもコロナをはじめとする人獣共通感染症は、人類が地球の隅々まで出かけていって自然を改変したことが引き金で起こっているわけで、そういう視点からあらためて人為と自然の関係性に意識が向いていきました。それにそういった問題以外でも、人類が普遍的に考えてきた問題の根底には、世界の多様なあり方への繋がりがあって、それはアニミズムに通じていたと思うんです。そういう他者に対する向き合い方や態度、想像力というのは、私たちの未来にとって重要なヒントであることは間違いないと思います。
 
――コロナが大きかったというのは興味深いです。八百万の神的な、万物に霊が宿っているとするアニミズムは、北海道で経験したことも大きかったのでしょうか?
 
私が登った雌阿寒岳は、今でもアイヌの神話が多く残っている山で、表情に富んだ美しい山でした。北海道に行くと自然があまりにも壮大で、人間がどうこうできるものだとは決して思えない。山や木、石、天気、すべてのなかに当たり前に「カミ」や精霊が宿っているという感覚がありました。3月に北海道へ行ったときも天気はコロコロと変わるし、1日雪が降ると次の日には頭の上まで積もっていて、当たり前に交通はすべて止まるしで。そんなことがあったら、東京じゃ大騒ぎじゃないですか。でもそこにいる人たちは当たり前のこととして受け入れて、次の日に何もできなくても粛々とやる。そういう目に見えない大きな力を、毎秒毎秒ただ受け入れていくだけという感覚がとても新鮮でした。

――圧倒されるほど壮大な自然を受け入れることと、さきほど「暴力的」とも話されていましたが、写真を撮ること、とくにストロボを焚いて撮ることはまた違ったリアクションにも思えたんですよね。
 
そうですよね。ただ、撮っているものを現実以上のものにしたい、実際に見えるもの以上にしたい、というところが、アニミズムというテーマと繋がる気がします。アニミズムってある意味こちら側の主観に委ねられている部分が大きいじゃないですか。そういう目の前の対象にも精神や感情があると思える、他者に開かれた状態であること。それは「幻視」する感受性と繋がってくるような気がしているんです。現実で見ている以上のものを表現するということは、目の前の対象に想像力を働かせることでもある。
 
それはストロボでも撮影後の編集でもそうですね。そもそも撮られたすべての写真はそのままの現実ではないし、たとえ加工されていないと言われる写真でも、写真家であれば何かしらの調整を施している。私が施す加工もそのイメージの調整の延長線上にあるものだと思っています。例えば、石の写真。硫黄山に行ったとき、地面や石があらゆる色として本当に鮮やかに見えて感動して。でも生の写真を後から見ると、もっと地味で全然違って見えるんです。それもあって記憶と擦り合わせるというか、色素を引き出したり、輪郭や質感を際立たせたりしていました。もちろん普通の人より、色に反応する感覚が強いのもあると思いますが。

――撮っているときと編集しているときの自分は、そんなに変わらないですか?
 
変わっていると思っていたのですが、そんなに変わらないかもしれない。というより、絵を描く、つくるみたいな意識のほうが強いかもしれないです。なんとなく絵を描いたほうがいいんだろうなって思うときはあります。でも私は、せっかちでスピード感が大事な人間だから、その点では写真がすごく合っている。心が動いた瞬間にシャッターを押せば、瞬間的に絵になるから。もちろんその後の作業で時間がかかることもあるけど、反射神経的な速さが自分に合っているから、カメラを使っているのだと思います。写真は、なぜフラッシュを使ったのかとか、いろいろとなぜ?がつきまとうじゃないですか。でも自分の感覚としては、絵を描くように、つくりたいイメージのために使っていて。絵だったら深いことを考えずできるのになという気もしてしまう。
 
――写真はカメラという機械を介しているために、つくるプロセスで別の意味が生まれてしまうかもしれないですね。
 
無意識だったとしても、カメラを選択している以上、掘り下げていけば自分のなかに理由があるとわかってはいても、言語化していくのは難しい。そこが面白いところなのかもしれないのですが。それに、いままで写真畑にいなかった分、いきなり「写真の人」のようになってしまって、写真らしくしなくちゃというしがらみを勝手につくってしまっている気もします。だからもう一回、自由を取り戻したい気持ちがすごくある。大学にいたときは絵も描いたし、写真を切り貼りしたり気軽にたくさん本をつくったり、型にはまらず自分の手を動かして、何でもできる自由さがありました。
 
 

等価に照らされる光に没頭する。

――アニミズムと写真の関係について聞かせてください。つくりたいイメージを具体化する方法のひとつとしてカメラを用いているとのことでしたが、写真でしかできないこともあるとは思います。遠藤さんにとって、アニミズムの世界観を可視化することとカメラを用いることは、どう関わっているのでしょうか?
 
見えているもの以上の世界を表現する喜びがまずあって、対象と出会ったり向き合ったりしていくなかで、彼らの声や情念を引き出す作業として写真があると思っていて。個人が森羅万象の「一象」から意味性や、喜びとしての「カミ」を見出して共有していくことは、個を飛び越えて全体性に繋がっていくような自由があると思います。私たちは独立して存在しているのではなく、共同体として繋がっているのだという意識は、目の前の自然と出会ったり響き合ったりするための感受性を養うところからはじまる気がしています。

――自然と向き合うプロセスがまずあって、そして個と共同体が繋がる感覚があるんですね。
 
写真としては、ストロボを焚いたりして暴力的かもしれないけど、光を当てることですべてを等価に映し出そうとしているのだと思います。撮影しているときの感覚は、自然のなかに自分がいて、自然の一部として彼らに向き合っている感じがする。上からでも下からでもなく、対等でありたいと思っています。

――撮るという行為そのものや、その場での経験がすごく大事なんだなと感じます。撮影しているときは本当に自然に溶け込むというか、同じ存在になっている。
 
撮っているときは「ゾーン」に入っている感覚だから、自分について意識はしないというか、できない。カメラと自分は手に馴染んで連動しているから、本当に何も考えてないんですよ。そういうときに使ったことのないカメラで遅延が生まれてしまうようではダメだなと思います。
 
――没頭するときにカメラは邪魔というか、必要ないと思ったりはしないですか?
 
目の前にある現実を見て没頭しているというよりも、ストロボの光を当てて立ちあらわれてくるイメージに没頭している感じはあります。

――なるほど。現実以上のもの、自然の本質のようなものを見ようとするときにカメラが必要になってくるわけですね。そこから自然と自分の境界がなくなるような感覚が生じてくる。
 
なんというか鬱っぽい状態のときって自我が強すぎる状態じゃないですか。だから何かに没頭して、自我が消える瞬間って幸福なこと。その瞬間がすごく好きで、求めている感じがします。没頭していると同時に、目の前のものにのめり込んでいくこの状態が、今後の自分にとっても重要なヒントになるんじゃないかと思っています。




ayakaendo

1994年生まれ。 2021年東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻修了。 自然と人為の境界について、またアニミズム的自然観をテーマに写真作品を制作発表している。主な展示に、個展「Kamuy Mosir」(2021、KITTE 丸の内、東京 )、個展「the belief in Spiritual Beings」(2022、NADiff Gallery、東京)、「浅間国際フォトフェスティバル 2022」参加など。主な受賞に「写真新世紀 2021」佳作入賞 ( オノデラユキ選 ) がある。

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”when I see you, you are luminous” ayakaendo
2023年7月7日 - 7月29日 Tokyo International Gallery
東京都品川区東品川 1-32-8 TERRADA Art Complex II 2F


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