2190日の恋
色のない世界は、どんなふうに見えるんだろう。
そう思いながら、路肩にジッと息をひそめるクリーム色の軽自動車の運転席で、ゆっくり藍色がかっていく空を見ていた。
昼に食べたはずの「かき揚げ蕎麦」が、まだ胃に残っているのを感じる。左手にはめた腕時計が「17:00」を示したのを確認して、車にエンジンをかけた。
ゆっくりと加速する車のアクセルは、朝より踏みやすい。「今日もおつかれさま」とつぶやいてみたけれど、車の中は僕1人なので当然返事は返ってこない。
働きはじめて4年がたち、ひとりぼっちの空間で、ひとりごとをいうのにも慣れてきた。
会社に戻ってくると、受付の佐々木さんが声をかけてくれた。
「おつかれさまっ! 外は寒いでしょ~」
佐々木さんは今年52歳になる小柄だけどふくよかな女性だ。いつも豪快な笑顔で、バシバシッと人の背中を叩く癖がある。
一度、淹れたばかりの熱いお茶を飲んでいる課長の背中を、そうと気付かず叩いてしまい、そのときはさすがに自分の不注意にシュンとしていたけれど、佐々木さんの魅力はそんな失敗もできるところだ。
ある程度の仕事の疲れは、佐々木さんの笑顔が「ペリッペリッ」とはがしてくれる。僕と同じように会社の玄関先で、薄く黒い影のような疲れを佐々木さんにはがしてもらっている同僚も少なくないと思う。
帰り支度をしながら、僕は少し緊張してスマホのロックを解除する。今日は約束の日で、きっと1時間後に僕はもっと緊張しているはずだ。緊急のメッセージがきていないかと思ったけれど、来ていたのは宅配便のお知らせだけだ。
19時に目黒駅前で待ち合わせていた。
改札横のシャッターをおろした販売店の横で、僕は自分の足元を見ていた。黒いコートに黒いスーツ姿。シルクハットをかぶったら似合いそうだ。カシャカシャカシャと左右に振り子のように揺れながら歩く、いつも同じ薄い笑みを浮かべたロボットみたいな人間。
そんなことを考えていたら
「おつかれさまですっ」
と声がした。
顔を上げると、ロングヘアを肩上までカットし、さらりと毛先をゆらした彼女がいた。
「お久しぶりです」
彼女はいった。
「忙しかったんですね」
駅前のビルの地下にある緑色の看板のお好み焼き屋。注文した豚玉のカップの中身をかき混ぜながら、彼女はいった。
すぐに目の前の鉄板から白い蒸気があがり、食べ物を前にしていることに気付いた胃が「きゅう~」と小さく鳴る。
「いや、全然」
僕は答えたものの、彼女と顔を合わせることができなくて鉄板を見つめ続ける。半年会っていないだけなのに、まるで初対面の相手のように感じてしまう。
「豚玉で、大丈夫でした?」
彼女がそう聞いてくれたのは、豚玉を頼むのは不本意だ… と思わせるような顔をしていたからだろうか。本当は「食べられれば何でもいい」という気持ちが、そんな表情をさせているのだけれど「おいしいもの食べにいこう」という口実が使えなくなるので、なんともいえない。
「あ、全然大丈夫」
僕の答えを聞いて、うんうんと小刻みに首を縦にふる彼女。全然大丈夫というより「大丈夫。豚玉好きだから」と答えたほうが100倍良かったことにあとから気付いた。
会話が少し途切れる。
ビールを胃に流し込むふりをして、彼女の様子を伺う。彼女は店の入り口奥にあるテレビのほうを向いていた。テレビから音は聞こえない。
僕は何か話さなければと思うけれど、何も言葉が出てこない。肩上でさらりと髪をゆらす彼女は綺麗すぎて、僕は緊張している。
「先輩って。セミ、さわれるんですね」
髪の毛が焼けこげそうな夏の昼間。大学からの帰り道、道にころがったセミが「まだ生きてやる」といわんばかりに大きな声をあげていた。
踏まれないようにと拾い上げ、道路わきの植木にそっと移動させたところに声をかけられ、振り返ると彼女がいた。
彼女は僕の2つ下で、大学の後輩だった。
友人の彼女と友だちで、学内のイベントで顔を合わせ、あいさつを交わした程度の関係だったのが、偶然顔をあわせる機会が多く世間話くらいなら交わす関係になっていた。
「虫全般、さわれます?」
横にきた彼女は促すようにゆっくり歩き始めたので、僕もつられて歩き出す。
「うん、さわれるやつは多いかも」
「へえ… トンボも?」
「うん」
「ふーん。バッタも?」
「うん」
「ダンゴムシも?」
「あ、それはダメだ」
「なんで」
少し大きく目を見開いた彼女は、僕の答えを待たずに大きな歯を見せて笑った。
僕はつられて笑いながら
「いや、なんか、足とかちょっと…」
というと、彼女は「足…?」と笑う。
彼女の笑い方は大げさだけれど、なぜか少しも嫌な感じがしない。昔から僕を知っているような、そんな笑顔。僕は昔からその場の空気を読むのが得意なほうだったけれど、彼女といると空気などはどうでもいい。そんな気分になった。
いつもは20分かかる最寄り駅までの道のりは、あっという間だった。
「じゃあ、私反対方向なので」
改札をとおると、彼女はそういった。
「お、おつかれ」
僕がそう返すと、軽くうなずいて彼女は前に向き直る。
背中越しに名残惜しさを感じた僕はあわててその気持ちをかき消し、駅の階段を降りることに集中した。
「新しい笑いやな」
誰かの声がしてハッと我にかえると、さっきまで音が出ていないと思っていたテレビから音が聞こえている。
誰かの声は、テレビの中にいるお笑い芸人の声のようだ。
気付くと、目の前にいるはずの彼女がいない。「え」と思い、左を向くとすぐそこに彼女がいて、僕を見つめていた。
一瞬「ひっ」と心臓がとびはねて、全身がかたまった。
彼女はそのまま僕を見つめ続けているので、僕は彼女から目を離して顔を前に向け「え、どうしたの?」と声を絞り出した。
彼女も前に向き直ったのが、視界のすみに入ったことで分かる。
「先輩、もう無理しなくていいですよ」
驚くほどはっきりした声だったのに、なんといったか理解できない。
「え…」
戸惑って彼女のいるほうを向くと
「もう私、大丈夫です」
と彼女もこちらを向いた。さっきとはうってかわり、ひどく弱々しい声だった。
僕は何もいえなくなって、とうに焼き上がり、ソースとマヨネーズをかけられるのを待つ豚玉を見つめる。
青のり、忘れずにかけないとな
本当に考えなければいけないことは別にあるはずなのに、そんなことを考えた。
店を出ると、駅はすぐそこだ。彼女は何もいわない。一刻の猶予も、もうない。
「本当は」
僕はいった。
いってから、地下にあるお好み焼き屋から、地上に出る階段の途中でいうことじゃないなと気付いた。
でも、もうあとに引けない。
振り向いた彼女の瞳は大作映画を観たあとみたいに、赤みがかっている。「え、泣いてた…?」と思ったものの、もう「本当は」といってしまった手前、そこにふれることができない。
いったんそのことは無視して、のどをごくりとならしたあと、僕はいった。
「好きだから、会いたいんだ」
緊張と安堵のミックスで、暑いのか寒いのかも分からない。頭の中につめこまれた多種多様な感情で少し吐きそうになりながら、僕は彼女の顔を見上げた。
きょとんとしたように見え、そのあと少しゆがみ、赤みがかった目がさらに赤みを増した彼女。僕は「泣いている」という事実を思い出し、いそいで階段を上がって近づき「ど、どうしたの」と聞いた。
2人はまだ、地上に出ない。
「本当は」
彼女はいった。
「ずっとそういって欲しかったのに」
後ろに回された手。不安定な階段の途中で僕も同じように抱きしめ返しながら、お好み焼き屋でしみついたソースのにおいを感じ、うれしくなった。僕もきっと、同じにおいがしていてほしい。
2週間後、彼女からLINEがきた。
今年の秋に結婚するのだという。
半年前に知り合った恋人とは趣味が合うようだ。
「男と女はね、ただ惹かれ合うだけじゃ何も始まらないのよ。始まるには、タイミングってもんも重要なのよ」
佐々木さんが、いつか言っていた。
そのときは「正解のタイミング自体がわからないじゃないか」と思ったけれど、見逃していたのだと今なら分かる。
僕へのサインは、ずっと宙に浮いたままだったんだろう。
クリーム色の軽自動車は、今日も僕を連れまわす。誰もいない車の中で「おつかれさま」という声が、沈んでは消えていく。
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