僕のミモザ

百のくらいを増やしていくのが好きだ。

198×236、275×415。掛け算するたび、増えていく数字。なんておもしろい作業なんだろう。数字には力があるんじゃないか。その力で、僕は何かになれるんじゃないか。

頭の中が数字でうめつくされるたび、なんともいえない期待感が広がっていく。



大学を卒業して、精密機械を扱う会社に就職した。仕事は目まぐるしいけれど人間関係には恵まれている。臆病な自分がフロアのみんなを管理し、サポートする役割を担っているなんて、人生はどうなるか、分からない。




早朝の誰もいないオフィスは無機質で清潔で、どこを見ても白い。音のない世界にいるみたいだ。

眼下に広がる街を見下ろして、羽があっても急降下とかはできないな、と思う。


フロアの隅にひっそり置いてある花瓶に、花が生けてあるのが目にはいる。


黄色い花で、名前は分からない。

その花を見て一瞬、あの花を思い出した。黄色くて、小さくて、こんもりとした、ミモザの花。


「先輩は、いつも耳のうしろをさわるクセがありますよね」

「え」

「うしろ」

「あ、そうかな」

「あ、ほら」

「…… ほんとだ」

後輩の彼女は、屈託がない。半年前に研修が終わり、同じ部署に配属された彼女。サポートメンバーのひとりとして僕は必要な仕事を教えている。

「ころころとよく笑う」という表現がぴったりな彼女は、見ているとこちらの顔も気づかないうちにやわらかくなる。「チャンスだろ」と、にやつく同僚もいた。


「まだ覚えることがたくさんあるので、早く頼ってもらえるようにがんばります」

応援したくなるような初々しさに、僕は先輩として恥じないよう、自分の仕事に身をいれる。

「何か分からないことがあれば、早めに聞いて。遠慮しなくていいから」


それから少しして、会社の経営陣が交代することになった。体制は大きく変わり、変化についていくのに必死になっている社員は多かった。ひそひそと、ささやきあう声も増えた。


数ヵ月間、毎日のように会話を交わしていた彼女とも、物理的な距離が離れてしまうと接する機会はなくなった。気付けば半年、会話をしていない。


連絡先は知らない。知っていても、連絡はしない。彼女と僕の距離は、平行線のまま。


それでも、ときおり遠くから見かける彼女は元気そうで、ふと目があえば軽い会釈をしあう。


「あれ、なんかいいことあったの?」

同僚からそう声をかけられる日は、彼女と目があった日だと気付いたとき、「僕なんか」という思いが急にわきあがってきて、すぐに襟をただす。


会釈するだけ。そんな関係は、また半年ほど続いた。



長めの打ち合わせがようやく終わり、会社に戻って残りの仕事を仕上げようとオフィスの出入り口を通り抜けようとしたとき、彼女とすれ違った。


彼女の眼は、ウサギのように赤い。


「え、あ、ちょっと」

思わず振り向いて追いかけ、彼女の腕をつかんだ。つかんだものの、次に何をしようかと迷う。彼女は下を向いて黙っている。

「……前に歓迎会の二次会でいったお店、あとからいくから、そこで待っててもらえないかな」

どうして、こんな言葉が出てきたんだろうと思った。頼りがいのある、先輩みたいな言葉。


下を向いたままの彼女に、僕は「…… 少し話そう」と続けた。彼女はうつむいたままなので顔は見えなかったけど、さらに顔を下向かせ、うなずいてくれた。



「理由をはっきりと聞いたわけではないんですが」

彼女はいった。

「仕事がつらいと感じるようになってしまって」

同じ部署の女性とうまくいっておらず、嫌がらせに近いことがあった、と彼女は説明した。話し合えばなんとかなるんじゃないか、と思った僕に気づいたのか「何回か話し合ってはみたんですが」と続ける。


僕は、2人の間だけではなく、直属の上司に相談してはどうか、と話した。


彼女の噂はときどき、僕の耳にも入ってきていたけれど、本当かどうかは本人にしか分からない。確かめる理由もない、と他人事のような意識を持っていたつもりだったのに、先ほどの赤い眼の彼女を思い出すと、僕も泣きたいような気持ちになる。


女性同士のもめごとは、実はいたるところにあるのだろうか。分かりやすい形にあらわれないだけで。


泣き出しそうな僕は、彼女を守りたいとか、かわいそうだとか、助けてあげたいとか。そういう強い気持ちが生まれてこないことを不思議に感じていた。それよりも「分かるよ」ということを伝えたかった。


少し酔っていたようだけれど、彼女は終始、仕事中のように丁寧な口調で、最後には「聞いていただいて、楽になりました。ありがとございます」といった。打ち合わせが終わったあとの、あいさつみたいに。


「ずっと辛かったのに、聞いてやれなくてごめん」と、僕は答える。



弱っている彼女を前に、僕は感情にふたをしようと決める。できることはない。「明日も早いから、いこうか」と促して店を出る。

春とはいえ、夜の空気は芯にからみついて、身震いした。



「先輩」

「ん?」

「うちに、ミモザが咲いてるんです」

「ミモザ?」

「花です。知ってますか?」

「や…… ごめん、知らない」

「黄色くて、わさわさーってしてて」

「へえ……」

「……  その花、見にきませんか?」



それから、彼女から話を聞くことは、もうなかった。半年後に、高校の同級生と結婚したようだ、と噂で聞いた。



あの夜、あんなに近くで「なんにでも、なれるんだよ」といった君は、僕の中で、透明人間になる途中みたいに、薄くなっていく。

本当に透明になってしまうまで、あとどのくらいだろう。

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