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読書会:『何のために「学ぶ」のか』

読書会に向けた一人読書会。今回の課題図書は、

 外山滋比古ほか6名(2015)『何のために「学ぶ」のか』ちくまプリマー新書

重要だと思ったところと、気になったところをあげていく。


自分の頭の中が、他人が考えた知識、本に書いてある知識で満杯になることが、そんなにいいことだろうか?/心ある人は自分の責任で、自分の力でものを考えて行動できる人間でなければいけないと気づくことになる。

外山pp.16

そもそも未知なものに対しては、借り物の知識などでは役に立たないのが当たり前だ。/新しい考えをしぼり出す力が必要となる。

外山pp.25

短くわかりやすい話が投稿される。何か起きた時にこれはこうだと(聞いたことのある)答えを投稿しまくる「成功者」をみて、仮面や本性がわかる。またこういう話をまに受けてしまう人がいると心配になってしまう。こういった言葉を知ってほしい。

その分野で成功した人でも、学問的に認められた人ではなかったりする。専門外のことまであてにできない。つまり素人の言葉と変わらないことも少なくない。それと成功者で、御意見番になっている人。それじゃ誰もものを考えなくなる。地盤沈下の一因になる。


いつまでも自分自身の力で考えられなければ、人間としてこの世に生まれてきた意味は小さい。/新しい人間力を身につけ、素晴らしい人生を切り開いていってほしい。そう考えることのできる人を、未来は待っている。

外山pp34/36

基礎は教わるけれども、基礎を網羅したときに自分の適性が見つかる。好き嫌いがなくなった時に本当に好きなものがわかるのと同じように。基礎を身につけて適性を見つけていたら、しっかりした土台の上に、自分オリジナルの建物を建てていける。砂上の楼閣ではない。そうしていきたい。


木の命に入り込み、木に協力してもらうのだ。これは学問でも同じである。対象への愛情がないところに学問というものは育たないと私は思う。

前田pp55

以前、手の技術の仕事をしていた。また、木工でオブジェを作ったりもした。それで僕は、「素材さんのいうことを聞かないとだめだ」と思っていた。強引に、自分が思うように仕向けてもうまくいかない。

しかしその前に、それがわかるくらいそれに接していないと無理だ。学びであれば、自分を動かす本と出会い、それを何度も読む。そういうふうにしていれば、私は何に互換性が高いのか、わかってくる。


今、あらゆる情報は断片化され、タグ(分類指標)を付けられ、整理されてメディアから提供される。/目の前にある世界には、何のタグもついていなかった。

今福pp.94

殻を破らず、一つの守備範囲の中でだけ物事を考えているかぎり、そこからは決して真に新しいものは生まれない。以前に誰かがやったことの反復でしかない。

今福pp.96

自分のオリジナルと基礎の土台と重なる。それとまた別で、思うことがある。自然は何も言っていない。おいしい野菜だとかは、人間が言っていて、野菜は何も言っていない。人間が付け加えたコピーなどだ。

いいものは良いのだけれど、そのコピーに夢中にさせられていては、自分が乗っ取られている。敵味方のような見方をするのなら、敵という負荷を生んでいる分人々を困らせている。後で出てくるが、知っていることではなく、それをやる能力を持っていたらいいと思う。


ポイントはただ一つ。「自分で自分に無理めの課題を設定してそれを超える」。

茂木pp.109

よく継続は力というけれども、反論したいわけではないが、僕はそこそこ飽きずにやり続ける。その割には、下手の横好きが多い。その理由が少し前にわかった。要はこの言葉と同じなのだが、マキシマイズ。

筋肉トレーニングと同じように、昨日の自分を超えるつもりでやらないと力が上がってこない。慣れてはくるのだけれど。それだったら時間を短くしてでも、とにかく集中して、頭を加熱させないといけない。これだった。


最近は「自分の好きなことを仕事にしなさい」という風潮だが、/世の中は挫折した人間であふれてしまう。/「世の中で大切なことをする」と考えた方がよい。特別に好きではないけれど嫌いではない、これだったら私は結構やれるし、それなりに社会の役に立っているなあ、と思えるものを見つけていくことが、

本川pp.134-5

学問をしていることで、私たちの生活がどうなっているのか、今の生き方はこれでいいのか、という世の中とは異なった見方、世界観をつかむことができるのだ。これこそが学問なのだと思う。

本川pp.147

好きなことも、画面に映り好きにさせられた(影響された)ものも少なくないと思う。鏡を破壊して冷静になったら何が残るか。そう思うと、この話のように、好きなことをやれという風潮に、単純すぎると感じてしまう。何か決定的に説明が足りないと。

僕はこう思っていた。アナログであっても、最後のゴールテープを切れるものをやれと。場合によっては力を合わせるけれども、考えの段階では特に、「自分一人でやれないのなら」それは「自分(その人)のやることではない」と思っている。

ただ、力を合わせなければやれないこともあるので、まずはのところだが。しかし方向性としては、その自分一人でもやることの先に協力してなすことができるものがあるだろう。それが適性だと思う。

特に、頭を使っていくと決めた者は、知っているかどうかではなく、学問のフィルターを通して考えることができることが力だと思う。今は、啓発や啓蒙の運動がかなりされていて、ネットで知識を得ると、逆に基礎学問のフィルターを傷つけてしまう。自分で世界を測るための道具が学問だと思う。その能力を手に入れることを端折って知ったものは、自分で世界を考える学徒には無関係の話、または研究対象だ。


自分が生きる世界を絶えずつくり替えていかなければならないということ。/これこそ人間だけが持っている自由であり、人間が自由である明かしなのだが、見方を変えれば、その自由に閉じ込められているともいえなくはない。

小林pp161

好きだから、嫌いだからで終わってはいけない。 学ぶためのもう一つのポイントは、全体を見ること。それと同時にどこか一点を見なければならない。

小林pp.165

学ぶことは、自分をつくり替えることであり、世界をつくり替えること。

小林pp.173

なぜ学ぶかと考えると、僕はこう思う。一回生き終わってみたら、自分に必要だった知識などがわかる。しかしそれではもう遅い。そのため一通り、現代の人類が使っている物差しである基礎学問を一通り通ることが重要だ。そこからが人生の本番。擬似2周目からはじめることが、人生を手に入れることを確実にする。

またそれを全体的に眺めれば、学ぶ理由は死ぬ時に実感できる。食べ物一般部門で好き嫌いがない方がいい、その方が本当に好きなものがわかるから、と同じように、基本的に何でも、一般部門で好き嫌いは無い方がいい。そうしたらこの世はデフォルトいいところと考えることができるのではと思う。そうなってみたら、色々と意識できるものも違ってくる。


今の時代のしんどさは、「自分がここにいるという事実」を肯定しづらいという、非常に抽象的なものなのだ。

鷲田pp.183

身分制度があったので、生まれたとき既に人生の軌道が描かれていた。/つまり自分の生涯のかたちはおおよそ見えていたのだ。/あらかじめ役割が与えられて生まれてきたから、自らの役割を果たすことが人生の目的だったのだ。

鷲田pp.186

(近代社会は)だれもが、自分はどういう存在でありそれを意味のあるものとして肯定できるか、という問いに向き合わざるをえない。

鷲田pp.187

ただのサービスの顧客に成り下がったのだ。/この世の中はちゃんと理由をつけてくれるようになった。

鷲田pp.190

人生を変えた本、オルテガ『大衆の反逆』。現代人が(自分も)どのように生きているのか知らされた。そしてどのように生きればいいのか、実存主義などから教わってきた。同時に構造にしたがっていて、とはいえそれもバランスだと構造とポスト構造から教わってきた。

世の中の考え方は、はじめが逆方向だし、行き着く先は袋小路。芯や軸、枠に当たるものを自分で設定して活力を整流していかなければ、自分の適性もわからないし、行き止まりにならない自由は手に入らないようだ。そういったものを以前は、「大人になる」といっていたと思う。


無力な状態から脱し、自分の問題を自分で考えて、責任を負うことができるようになるために、私たちは、「一つの問いに一つの答えがある」という考えをやめなければならない。/みんなが一方からしか考えられなくなっているときに、別の方向から見ることがたいせつだ。

鷲田pp.196-7

自分自身の問題や世の中に起こる出来事は、理由や意味がわからないものがほとんどだ。/必要なのは、わからないことでもこれは大事、としっかりと自分で受け止めて、わからないままにずっと持ち続けることなのだ。

鷲田pp.198-9

簡単にわかることが喜ばれている。簡単にわからないことには手を伸ばさない。つまり、簡単でないと能力が処理できなくなっている。難しいことにてを出すようになっていかないといけない。これまでの話に出てきた。

それと答えを急ぐ。それもだめだ。インターネットによって、「自分が知りたいこと」との時間差がなくなってしまった。概念である無限速度が、手元にきてしまった。そういう感覚の狂いに気づければいいのだけれど、どうもそうはならずに悪化の一途だ。

本当に、まとめの一言を拡散する輩が多い。彼らもまた、全体からの眺めがわかっていない人間なのだろう。本当に一つの答えが欲しいのならこう言おう。「時と場合による」 いつだってどこだってそのひと言が答えだ。

目標にたどり着くために考えていくと独裁者化してしまう。そうではなく、目の前の状況でどうするか見つけだすとか、問題はバランスだとか、そういう仮決定ができるかどうかだ。


この本はとても頷ける話が多くてよかった。全体的にすでに感じていたことが言葉になって整理されたという体験で、「それそれ」という反応が多くて上からになってしまったが、言語で捉えられて明確になった気持ちよさがあった。

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