読書会:『何のために「学ぶ」のか』
読書会に向けた一人読書会。今回の課題図書は、
外山滋比古ほか6名(2015)『何のために「学ぶ」のか』ちくまプリマー新書
重要だと思ったところと、気になったところをあげていく。
短くわかりやすい話が投稿される。何か起きた時にこれはこうだと(聞いたことのある)答えを投稿しまくる「成功者」をみて、仮面や本性がわかる。またこういう話をまに受けてしまう人がいると心配になってしまう。こういった言葉を知ってほしい。
その分野で成功した人でも、学問的に認められた人ではなかったりする。専門外のことまであてにできない。つまり素人の言葉と変わらないことも少なくない。それと成功者で、御意見番になっている人。それじゃ誰もものを考えなくなる。地盤沈下の一因になる。
基礎は教わるけれども、基礎を網羅したときに自分の適性が見つかる。好き嫌いがなくなった時に本当に好きなものがわかるのと同じように。基礎を身につけて適性を見つけていたら、しっかりした土台の上に、自分オリジナルの建物を建てていける。砂上の楼閣ではない。そうしていきたい。
以前、手の技術の仕事をしていた。また、木工でオブジェを作ったりもした。それで僕は、「素材さんのいうことを聞かないとだめだ」と思っていた。強引に、自分が思うように仕向けてもうまくいかない。
しかしその前に、それがわかるくらいそれに接していないと無理だ。学びであれば、自分を動かす本と出会い、それを何度も読む。そういうふうにしていれば、私は何に互換性が高いのか、わかってくる。
自分のオリジナルと基礎の土台と重なる。それとまた別で、思うことがある。自然は何も言っていない。おいしい野菜だとかは、人間が言っていて、野菜は何も言っていない。人間が付け加えたコピーなどだ。
いいものは良いのだけれど、そのコピーに夢中にさせられていては、自分が乗っ取られている。敵味方のような見方をするのなら、敵という負荷を生んでいる分人々を困らせている。後で出てくるが、知っていることではなく、それをやる能力を持っていたらいいと思う。
よく継続は力というけれども、反論したいわけではないが、僕はそこそこ飽きずにやり続ける。その割には、下手の横好きが多い。その理由が少し前にわかった。要はこの言葉と同じなのだが、マキシマイズ。
筋肉トレーニングと同じように、昨日の自分を超えるつもりでやらないと力が上がってこない。慣れてはくるのだけれど。それだったら時間を短くしてでも、とにかく集中して、頭を加熱させないといけない。これだった。
好きなことも、画面に映り好きにさせられた(影響された)ものも少なくないと思う。鏡を破壊して冷静になったら何が残るか。そう思うと、この話のように、好きなことをやれという風潮に、単純すぎると感じてしまう。何か決定的に説明が足りないと。
僕はこう思っていた。アナログであっても、最後のゴールテープを切れるものをやれと。場合によっては力を合わせるけれども、考えの段階では特に、「自分一人でやれないのなら」それは「自分(その人)のやることではない」と思っている。
ただ、力を合わせなければやれないこともあるので、まずはのところだが。しかし方向性としては、その自分一人でもやることの先に協力してなすことができるものがあるだろう。それが適性だと思う。
特に、頭を使っていくと決めた者は、知っているかどうかではなく、学問のフィルターを通して考えることができることが力だと思う。今は、啓発や啓蒙の運動がかなりされていて、ネットで知識を得ると、逆に基礎学問のフィルターを傷つけてしまう。自分で世界を測るための道具が学問だと思う。その能力を手に入れることを端折って知ったものは、自分で世界を考える学徒には無関係の話、または研究対象だ。
なぜ学ぶかと考えると、僕はこう思う。一回生き終わってみたら、自分に必要だった知識などがわかる。しかしそれではもう遅い。そのため一通り、現代の人類が使っている物差しである基礎学問を一通り通ることが重要だ。そこからが人生の本番。擬似2周目からはじめることが、人生を手に入れることを確実にする。
またそれを全体的に眺めれば、学ぶ理由は死ぬ時に実感できる。食べ物一般部門で好き嫌いがない方がいい、その方が本当に好きなものがわかるから、と同じように、基本的に何でも、一般部門で好き嫌いは無い方がいい。そうしたらこの世はデフォルトいいところと考えることができるのではと思う。そうなってみたら、色々と意識できるものも違ってくる。
人生を変えた本、オルテガ『大衆の反逆』。現代人が(自分も)どのように生きているのか知らされた。そしてどのように生きればいいのか、実存主義などから教わってきた。同時に構造にしたがっていて、とはいえそれもバランスだと構造とポスト構造から教わってきた。
世の中の考え方は、はじめが逆方向だし、行き着く先は袋小路。芯や軸、枠に当たるものを自分で設定して活力を整流していかなければ、自分の適性もわからないし、行き止まりにならない自由は手に入らないようだ。そういったものを以前は、「大人になる」といっていたと思う。
簡単にわかることが喜ばれている。簡単にわからないことには手を伸ばさない。つまり、簡単でないと能力が処理できなくなっている。難しいことにてを出すようになっていかないといけない。これまでの話に出てきた。
それと答えを急ぐ。それもだめだ。インターネットによって、「自分が知りたいこと」との時間差がなくなってしまった。概念である無限速度が、手元にきてしまった。そういう感覚の狂いに気づければいいのだけれど、どうもそうはならずに悪化の一途だ。
本当に、まとめの一言を拡散する輩が多い。彼らもまた、全体からの眺めがわかっていない人間なのだろう。本当に一つの答えが欲しいのならこう言おう。「時と場合による」 いつだってどこだってそのひと言が答えだ。
目標にたどり着くために考えていくと独裁者化してしまう。そうではなく、目の前の状況でどうするか見つけだすとか、問題はバランスだとか、そういう仮決定ができるかどうかだ。
この本はとても頷ける話が多くてよかった。全体的にすでに感じていたことが言葉になって整理されたという体験で、「それそれ」という反応が多くて上からになってしまったが、言語で捉えられて明確になった気持ちよさがあった。
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