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今だから見えない

出来事と心的出来事は違う。主観か客観かという問題ともかぶってくる。例えば現代的なエンタメは意外だから面白いところがある。2度目で話を知っていたら驚きは減ずる。雑誌もウェブマガジンも、SNSやYouTube、ポッドキャストなどで触れる話も、多くのコンテンツは一回でとらえられるように作られるから、受け手の感情を動かすかどうかが問題になってくる。

2周目3周目があるのならば、感情を動かすだけでなく考えさせる内容でないと飽きられる。というか呆れられる。行間を読む力は、2周目以降をする人が身につけるのだ。

逆に言えば2度3度戻って考えることなく、その感情の動揺を思い出したがるだけなら中毒症状のようなものだ。そうした人を増やしていく活動には問題がある。感情を動かされたくて情報に手を伸ばすだけなら、感情的快感のジャンキーになって抜け出せなくなってしまう。



1度目と2度目の違い

答えを受け身で手にいれる人用のコンテンツでは2周目3周目は楽しめない。もう知るべきものを知っているからだ。

文学作品やミステリー小説などは、2周目以降に隠されたものが見えてくる。1周目でも感情は動かされるから楽しめる。しかし2周目以降になると、良い印象に騙されているだとか、常識的な判断で見えなくなっているとか、そういった自分の目が見えてくる。

ミステリーを読んで犯人がわかったとする。しかし読んでいる途中では、犯人はそこにいるのにわからなかった。自分が勝手にその人を信用することにしてしまって、嘘を見落としたり、現実判断の可能性を切り捨てていたからだ。日常に例えるとデザイン性や見栄えでことを決定して、現実が見えなくなるようなことだ。

こういった読者自身の見間違いが、2周目以降を読むことによって暴かれていく。そのようにして言葉や印象の捉え方を鍛えられ、少し視界が晴れて、現実が近くなってくる。


メディアとコミニュケーション論

コミニュケーション論を逆の立場から見るとメディア論になるという捉え方もあるようだ。受信者や話を聴く側(受け取り手)から考えていくとメディア論になる。すると発信者側に立っているコミニュケーション論があることに気がつく。

今世間的に広まっているものはこういったものだろう。そもそもコミニュケーションを言葉でするものと限定していたり、伝達精度の問題と考えていたり、大勢に頷かせることを目的にしていたりする歪みに気がつけないでいる。

メディア論を通ってみると、文章であれば2回読むことであったり、その時が来たら本当にそうだったのか再確認することだったり、そういうことをする姿勢がなければまずいことになるとわかってくる。2020年代の人類危機は、感情のマニピュレーターに支配された感情の子になって、人間の大人がいなくなっていくことだ。


メディア論は文系

英文学者のマクルーハンがメディア論者としてメタファーを与え続けていたのも順目の事柄だった。彼は2周目を理解していたから、第一印象に左右される大衆がどういうことか見抜けたのだ。

10年代は世界中でスマホの普及が進んだ。世界はつながり、人々は話し合い伝え合い、平和で知的な人類になるだろうといった予言的な話が世界に影響を与えたようだ。しかし現実はそうはならなかったし、イデオロギーの戦争は終わらなかった。

人類は戦争をやめず、世界規模で意見の分断がおきていがみあい、人類も地球も存続が危ぶまれるようになった。少なくとも人が持つ社会性の活性化は、分業ではなく手分けにシフトすることだろう。先のグローバル化によって右からも左からも人間が押さえ込まれているのが現状ではないか。それを広めるシステムをただ受け入れている。

10年代の人類は、ことの利点にばかり目を向けていたからこのような、外れにも程があるようなことを信じることができたのだ。

ひとまずそのシステムはただ人々をつなげた。良いことも悪いことも伝わるのは当たり前だ。10年代は物事の一面だけで語り、感情に効き、今でもまだミステリーの謎に気づかず答えにも辿り着けないで迷っている。10年代の妄想を脱しなければ、現実はおかしいと思って心を病んでいくか、いまだにそれを信じて加速崩壊してしまう。


現代の謎解き

10年代に言われていたことは、ミステリー小説で言えばトリック的に伏せられた表のもので、そこを見抜けなければ現実と違った想像に生きることになってしまう。

デジタル社会をシンプルに疑えなくなったのは、それが全環境になったからだ。マスメディアがない時代の成熟した大人たちが、現代の大人たちのヒステリックな様子や法のギリギリを走るさまを見て、決して尊敬することはないだろう。そこを疑えなくなってしまっているのだ。


教育の懸念

この、情報の中に閉じられた状況を再考して、社会を、各人の心を再興するためには、物事の理解は2周目以降にできるという意識をデフォルトにしていくことだと考える。そういう者が一人でも増えるようにと。

一発の印象の、直撃のそれを、信じてしまっていることをこわしていくことがそもそも必要だ。その準備も無しに高等教育の無償化だけがあっても、あまり大きなことは期待できない。

誰も2周回る気がないのなら、教育時間が手にできても現在的な情報の消費と変わらない。デバイスやサブスクの無料化を志向して、情報の接続だけで知の問題を考えるのと大差がないのではと感じるのだ。

10年代に物の消費からコトの消費という言い方で逸らされてしまった、他者が仕掛ける中毒性の問題を超えられないといけない。まず我々は、現実に寄っていく力に価値を感じなくなっている。コトで完結するのであれば尚更だ。現実を食べている身体がないがしろになっている。

AI未来には期待していない。

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