「自助社会を終わらせる」 読んで思ったこと

自助社会の問題を考えるとき、金銭的なものと関係性的なもの(心理的なもの)とがあると思う。


自助社会は、結果的に人々を、自業自得だと切り捨ててしまうようになってしまった。必要以上に切り捨てられてしまう。自助できたらあなたは合格。その上下を作ってしまう。浮上しやすい人と沈殿しやすい人を生んでいると思う。

そこではケアの気持ちがなくなってしまう。なくても社会的に問題がないように見えてしまう。結果的にビジネスでケアがなされているし、自分の役割ではないことだし、となってしまう。ケアをしようとする心、ケアの倫理、ケアということが大事だと思ってケアされているのではない。

必要だからなどと理由がなくても、ある程度人々の自然な挙動によってケアされているのがケアの社会性だ。またケアをしあうことは人の成長に含まれているものだ。

社会のことや人との関係など参加しやすく、誰でもちょっとした成功をしやすく、多様であること。他者を制御(指導)するような成功がない社会。親機と子機のような形の、成功者とフォロワー・救われる者という構成を作らないこと。つまり主導権を離そうとしない者が問題になるような社会。

一人一人が成功をするのを成り立たせるために、みんなが力を合わせる。分業ではなく手分けの社会だ。現実的な自由とは、自分自身に法を与えたいというものではないか?

心得としては、生きる意味や目的を理解するのではなくて、生きる感覚を捉えること。生きる意味や目的を考える状態は、何か統一的な正解があるという設定になっていると思う。そうではない。人それぞれ違う感覚がある。

でもそれじゃバラバラすぎて話にならないので、大まか幾つかの世界の見方があるとして、自分がどの見方なのかということを理解することが生き心地の基本になっていると思う。内の予測可能性をつかむこと。これは倫理学を学んでそう思った。

現状がこうだからそれに合わせるしかないという発想が、トラップになっている。問題の先送りになって、反省をしていない。対策をしているだけ。リーマンショックを反省せず対策をしてしまい、グローバル資本主義経済化がさらに暴走してしまった。弱点の守りを強くして、次は失敗しないぞということで、足元を固めた。

そこが自己啓発や啓蒙活動の浸透と同時進行していると思う。それの外側に行かなければいけない。外側に行かなければ何も新しくならないし、問題の根が出てこない。

根本的な反省をしなかったから多方面から反論が噴出してきているのだろう。グレタさんも出てくれば、同時にトランプ氏もプーチン氏も出てくる。どの方角からであっても、中央の国際社会になにかしらのツッコミを入れている。

パンデミックによる失業があったので、例えば一定の権利だとかを、優先的に押し通すことは難しくなった。ある問題を切り捨てて一つの問題を強く叫べば、情報上での刺さりはよくなる。しかし違う立ち場の者を追い込んでしまう。全体を見ない舵取りになってしまう。そうすれば政治的に不安定になる。

現状の社会の価値観では、社会的に失敗だったとか犠牲を伴うことをしたとしても、経済的に成功してしまえばとにかく良い評価をされてしまう。また、パターナリズムからの脱却のために、ビジネスや発信でぶっ壊せといった新自由主義的な壊し方しか浮かんでいないと思う。価値とか意味とかに縛られてしまうのは近代的だ。実用的な選択が力を持ってしまう。パターナリズムでなければそれでいいというような安易な選択になるし、なんなら新型の権威主義を作って気が済んでしまう。

そしてグローバル社会は国の枠が薄れた。国の握力や国感が薄れた。その虚をついてロシアがウクライナに侵攻してきたし、中国の軍事的な脅威もそれなはずだ。

かつての日本であれば、中間層で慎重な人などは、国の中にいて外に出なければ安心感があったのだろう。今では日本にいても国感が薄まった。半分外に出されたような状態になり、そうすれば当然精神的な動揺も強まるだろう。

グローバルイシューも反面、ごまかしを含んでしまう。国際的なごまかしが大きくなってしまう。世界を制御する力はないからだ。グローバル企業の侵入は、国民のコントロールを奪われることも含まれてくる。

大きな理想を取るために、その結果、グローバル社会は情のなさ、合理性を先鋭化してしまった。

また防衛は、一種の排除を正当化する。グローバル社会が成立するのであれば、防衛という観点は弱めるか無くすことが条件になってしまう。

世界の理想や人類の理想は、希望としてはわかるが、そもそもの発想がおかしいような気がする。統一的なものがあるとか、統一できるとか、バラバラなものがくっついていくという考え方が、どの程度できるものなのだろうか?あり得ないとまではいわないけど、そんな言語で表しているほどきっちりできるとは思えない。例えば酸素が必要だとか栄養が必要だとかそういったものは世界中のどの人間でも同じだと思うけれども。

人生の現場から作り直さなければならないのだと思う。庶民の現場から。背広を着ていない人の、ときの、子供の、街を歩いている時の、そういったところからの現場から作り直さなければならないのだと思う。これもまた理想の話になってしまうのだろうけども。ただ一応、理想論から作っていくとか、大きく強い物を配慮して作っていくとかではない。現実をよく見てはっきりとさせていくようなやり方だし、一人一人が自分の法を持つというか、徳の社会だ。

名誉としての成功を求める心は、消費者の心と同じだ。高止まりができない心。そして専制的。つまり他者に譲らない、主導権を他者に渡す気がない。彼らは未だ、大きな物語に依存している。民主主義のシステムをクリーンにすることだけでなくて、もう一度、民主主義的な市民とは何かをとらえなおさないといけないと思う。

多様化とか多元というと、個人は自身の関心や利害に囚われれていくことになる。そして自己実現などが重視されていく。これが自助の世界を作り上げたのだ。

そもそも現代人の多くはつながりを求めているようだ。それはボランティアに一時的に参加すれば手に入るし、社会もボランティアや人の手を必要としている。しかし以前はボランティアをしなくても相互扶助的なつながりはあったと思う。とはいえ今とは違って、以前には見過ごされているものがいっぱいあったと思うが。

つながりを求めているのは安心を求めているのだろう。しかしあまりに同質なもの同士の集団であれば、それは実際の社会とは違う。人生とか日常とか生き心地とかに安心を求めるのであれば、同質な人々で得られる安心から出られないといけない。デジタルの影響を抜け出すということだ。

対話をすることで社会は変わるというよりも、対話をしてもいいよと思えている社交的な空気の社会が、その社会なのだと思う。デジタルにはない有機的な社会だ。

NPOだとかボランティアと違って、対話会や読書会などは趣味で集まれる。大きくなるには不向きかもしれないが、経済の判断が強い社会からの影響を受けにくいところが強みだと思う。このような会はあったほうがいいし、ないと決定的な欠けなのかもしれない。


でもなんで、自助社会でいいと思ったのだろう。かつてのその発想の源が気になる。ローマキリスト教文明の人生観なのかもなと思ったが、どうなのだろう。

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