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世間話:世間

タイトルが浮かんでいないのだけど書き始めてしまう。以前ならタイトルは最後でいいと思っていたのだが、今はそうではないパターンもある。最初の起点だけ決めて、全容はわからないまま書きはじめてしまうパターンが、最近は多い。

ただ、起点ではなく、中間地点が浮かんでいるのだ。今回はそんなパターン。支離滅裂になるかもしれないと心配なのだが、はじめちゃってみる。


ネットの時代に盛大に勘違いされていることがある。メディアで語られることで社会が変わると。そうではなく、1次的には、メディアが変わるから社会が変わるのだ。

じゃあ、ネット時代はどのような社会になったのか?というとそれまでの時代をわかっている必要があるのだけども、説明を端折ってしまう。書こうと思って浮かんでいることを忘れてしまいそうだから。

ネット時代は、「海賊放送」が解禁された、ということ。そういう時代に変わった。そういう時代に変わったということはどういうことなのか?というと10年代の動き、特に後半に表面化してきたアレやあれだ。

ポストトゥルース。それと、キャンセル・ポリコレ系。こちら側のリアルではなく向こう側のリアル。膝から下のリアルと膝から上のハイパーリアルといった感じだ。

リアルの欲、感情は、あそこにあるもの(よそ)に気が行く。ハイパーリアルの欲、感情は、ここにはないがどこかにある(と思っている)ものに気がいっている。

現物のAとBの違いがわかるという話は理解できるだろう。現物のAと想像のBの違いも、わかると言えばわかるだろう。想像のAと現物のBも、想像のAと想像のBとの違いも、二つの存在を感覚であれ想像であれ、重ねられるのなら違いを感じることができる。人間の上半身を持つ魚。


この辺り、映画マトリックスのベースになったと小耳にはさんだ、ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(法政大学出版局)を元にした世間話だ。僕は学者じゃないし、読み込んでいないので、間に受けないで世間話として扱ってほしい。


話はなんだっけ。ネット時代は「海賊放送」が解禁された、だ。それで15~19年には、あのようなハイパーリアル現象が吹き荒れたと。(意見自体はそれぞれに賛成できるものはあるし、とても有用なものが多いと思うが)

ちなみに15~19というのは特にきっちりした刻みではない。ただ00年代や10年代で時代感が変わるようだし、ある程度のムーブメントは大きくても大抵5年程度のターム。〜〜年代の前半と後半で分けて眺めると、仮設定としてはやりやすいかなと、個人的にそう思っているだけだ。

膝から下、膝から上というのも特にはっきりした理由はない。だけどこの例えを例えてみる。現在の日本はだいぶアメリカの影響が濃い社会だし、欧米色は馴染みやすい。とはいえ日本が持っている「日常み」というか下部構造(構造とかリゾーム?←追っていないけど)があり、膝から下はその回路を踏み外さずに進む。

膝から上がこっちに行こう!と思っても、実際の歩みは膝から下の現実に沿うもので、しばしばそういった感覚(敷石からはみ出せないことを忘れる的な)を無視してしまう。というのも(膝下を失った:霊化した思考)ハイパーリアルなのだろうなと。構造は必ずしも法ではない。でも明確に説明できない。


1,200字超えたな、、、

20年代になって、15年代の勘違いに気付けるようになった。具体的に書くと気を悪くさせてしまうので、世間話としては避ける。ただ、15年代の勢いからさらにというものは、多分、ミクスチャとか創作とかそういったあたりで、日本の場合の解決方法に訳すことができる(20年代にも使えると思う)。

過度の表現は数年で崩壊する。それは超コミュニケーション道具になるが、実はコミュニケーションで橋渡しされるものではなく、その演出なのだ、超部分、過度部分は。ハイパー。話聞いているとめちゃめちゃやる気になるが、離れるとどうやっても手足が動かない。こういったものだ。演出をいただいても泡と消える。

過度の表現は意味を消す。例えば(ごめん、好きなのだけど)どれもが強炭酸になればそれは全て「並」である。強の意味はないのだ。「過度」が、既存の強炭酸の意味を消失させ、盛られた意味が突如陥没する。そのため盛りをし続けなければ盛ることができない。「ブーム」は意味の消失を生産する。15年代の意味が消失した。という話。

テック企業の大量解雇は、盛りの崩壊。マスクの采配はテック企業の生き残り策の実施(成功するかは知らんけど)。

15年代の成功は、原点に行って帰る事。サヨナラパターンは原点に行ったきり。なのではないかと。昔話と同じことが現代でも起きました、と。

唐突だと思うけど、終わり。

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