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現在の生き方について

はじめに

周囲の人や世間の様子が気になる。自分の核、自分の情熱とかがわからないのだという。僕もその気持ちはわかる。そこを壊して自分を変えてきた。

そういう問題は、幼少期の環境の影響があるという話に納得している。具体的に書ける量じゃないので省くけど。世代世代で具体的なものは違うはずだし、個人個人でも違う。

そこで最近は精神療法系の話に興味が出てきた。以前にも興味はあったのだが、自分が立ち直るためだった。今回の興味は、これから書くような現実と人生と広がりの時空間がマッピングできたので、周囲の人の精神的な問題が気になるようになったのだ。

ということで、時空間のマッピングのはなし。ここが基礎になると僕は思う。




現実にいること

現実にはグッドとバッドの幅がある。そして人間は現実を超えて想像することができる。また昔の現在と将来の現在?があることも想像することはできる。

「現実の今」というフィールドは、人間の想像と比べたら小さい。そこから脱落すると盲信の世界にいってしまう。アゴタ・クリストフの小説のように、共有できる事実だけで言葉を採用するというのは、いい社会運動になるのだろう。僕の説明は概念になるけれど。

つまりその「現実の今」から頭がはみ出さないようにするといい。現実の状況がバッドなら、頭をグッド方向に向けなければ肝を冷やす。車の運転はそうでしょ。バッドぎりぎりじゃ怖くなるし、グッドがどこかわかっていないと。こういう調律が神などの想定なのだろうなと僕は考える。ただ、現代になると話が複雑になるけど。


どう生きているか1

「現実の今」に住む人生には向上と怠慢がある。「現実の今」が横幅だとすると、縦軸、上下幅の話になる。

人間という生物種は、機能を持って生まれたのではなく向上することで機能を手に入れるものだと哲学はいう。少なくともスティグレールはそういっていた。

人間を個人で見れば、赤ちゃんは一人で立ちあがろうとする。待ちの姿勢じゃない。要は人間の力は、個体のチャレンジで自分を変えていくこと。

そして人類は、空を移動する機能は持っていないが、空を移動する機能を手に入れるまでに向上した。人間社会もチャレンジだ。その機能はいうなら捨てることもできることになる。歩く力を獲得してそれが能力として失われることは通常ないけれど、今は説明ができない。なんにしてもそれを時代なりに保つことも人間社会のチャレンジに含まれてくる。伝統的な技術が失われるとまずいと言うでしょ。

機能の話からつながるのは、向上しないと退屈になるということ。しかし残念ながら、退屈の解消が自分の内部的なものではなく外部の、例えば画面にあるものになったりもする。「向上しないと退屈」という熱源が自分の中から外に逸れてしまう。

一人でやりたいことがない人が多いから集まればいいといっても、哲学がいう人間の本質や人間社会の本質と、半身ずれていってしまう。熱の外部提供が必要なことには変わりがない。


どう生きているか2

僕は自然や牧歌的な暮らしが好きで、なんならそれが正しいと思えている。心のどこかである業界を敵視していて、苦しみになっている。その業界のすることは、程度を越しているかもしれないけど、世話になっているのにだ。

つまり神の位置にあるのが自然や牧歌的な暮らしになっている。だけどそこで勘違いしてしまう。自然さんが正しいのだとしても、別に僕が正しいわけじゃない。僕のおかげで自然さんが正しいわけじゃない。自然は僕にとって基準値ではあるけれど、僕そのものではない。外部にある。

「ああ、考え方が下手くそだったな、、、」 このように自分が変わると自分の反応が変わってくる。今までその通りだと思っていたことが違うかもと思うようになったりする。多面で見ることができるようになると、世間の物事の評価が現実を離れて過大な評価をしているのに気がつけるようになる。

2010年代はSNS(仮想デジタル社会)で、世界がつながり平和になるみたく希望が語られて、そのテイで大きな話が進んだ。要は後から考えてみると、それは過度に期待しすぎでしょと思える。「いい効果もあるけど悪い効果もあるわけで、ポジティブに言い過ぎだったよね、、、」

そうしてめっちゃフラットに冷静に物事を見ていくと、「いやごめん、そう思わないや」という切り離し後に残るのは、自分の内側の基準値らしき核だ。こういう設定方法が各伝統宗教の手法なのだろうと思う。

機能に問題がない人は、情報に耳を寄せれば善悪判断マシーンになってしまいがちだ。もはや意識もせずにそうしてしまう。現代問題は自分と善悪が一体化してしまう人だらけなところだ。


どのように生きているのか

ひとまず西洋。脱宗教の時代の後、人間は考えた。ニーチェは脱宗教時代をやばいと思ってこうやれよと言ったし、フロイトは基準値にしなければならない人間内部の核を考えたのだと思う。そのベースにあるのがダーウィンの進化論だと思う。自分らと正さは別体だったのかと考えざるを得ない。

しかし、その考えが本採用にまでいっていないようだ。

現在社会はまあまあポンコツかもしれないが、一応はそれを基準として、それを疑わずにすんなり動いていたら、そこまで悩まないと思う。ひとまず時代に従えるかどうかだ。

悩む人が多いのは、これまで話に出てきた内側にあるはずの情熱源が外にいってしまったこともある。そこともう一つ、善悪の一体化問題のある人が多い状態に合わせていった社会の、作りか内容が人類の発想よりちっちゃくて入りきれないことが元になっているのだと思う。

A用になっていて、まあBくらいはあり、程度の許容になっているのだろうなと。入りきれない人も多いよと。「エリートさん、全庶民が大衆になれるわけじゃないんですよ、わかってくださいよ」という構成だ。

それで僕のように、なにかのなにかが決定的に違うと思ったり、自然がベースだしとジャッジしたり、何かにむかつきはじめる。

向上の生き物としてはそこまではよくても、そこで止まってはいけなかったのよね。向上しなくなっていた。善だ悪だの状態よりも先があった。

ともかく日常の僕に戻って。現状でさまざまな問題はあったとしても、生き物的基礎欲求には窮していない。肉体の維持はできている。その意味でいきもの僕の「現実の今」は足りているのでグッド。現実のバッドまで広がる構造を理解したら、「現実の今」の上に立てる。善悪に囚われているのは現実範囲から脱落している。こんな慎重さは釈迦っぽいと思っている。アゴタ・クリストフもそうだ。


人生を変える勇気

実存哲学は、かつての僕に、自然のよさ(基準地)と自分を混同してしまう様子を喝破した。昔のお坊さんと同じだ。そうだったのよ。

だからそんな本を読むとめちゃ厳しいしむかつくのだけど、これがパラレルに人生が移動することだと思う。

単に場所移動をすれば解決というのは、根っこが移動しないので何かおかしくなってくるかもしれない。そこに住んだって日常現実は追いかけてくるのだし。自分の核は自分の中にしかないし、それを取り戻さないと。

多分僕らの人生は時間で流れるワンウェイの道にいるのだろう。だけど、いつだったか流されて入り込んだ道を、変えなければならないと感じることは、多くの人が持つと思う。そう希望するのなら、内部破壊を起こさないと別の道に移動できない。めちゃきつい。けど出来るっちゃ出来る。あったかもしれない人生だ。それをパラレル(ワールド)という。

話はいったん概念になる。概念さんにとっての時間はらせん状で、0度地点と360度地点はそっくりだけど全然違くて、同じようでも前後がある。例えば、「そんな心得のやつは500年前でも今でも30年後でも世間から嫌われる」のは変わらない。0度でも360度でも720度でも、概念さんは同じ姿をしている。

なにも知らない0度から勉強をすれば180度にくる。いちいち考えなくても自動的にできるようになったら360度にきた。同じくなにも考えていない状態でも、0度と360度では大違いなのだ。そこがあなたとあの人との違いだ。

次の話にいくのに角度の例えで終わるとややこしいので、面にしてみる。同じ本を読んでいる人でも、最初の文字を読んでいる人と最後の文字を読んでいる人では状態が違う。それとか今その本を読んでいない状態は同じでも、読んだことがない人とすでに読んだ人とでは全然違う。でもよくよく確認してみないと違いがわからない。


熱意を取り戻した社会なら

現実の中での人生という二つの要素の関係は、横軸と縦軸のグラフのように例えられた。平面だけれど、パラレルに移動すれば違うページが現れる。そのグラフに奥行きを加えよう。

これがまた日本的な問題なのだ。端的に、協調から社交へ切り替えるという難題だからだ。

先に出てきたように、「個体のチャレンジ」があるとするのなら、ヒトは個別の存在になっていく。生命維持の基礎より上は別々の存在なので、深い理解ができない半分意味不明どうしで、ひとまず表面的に横つながりしなければならない。

人間関係は温かいもの一択というよりは、冷めたものと熱いものの両方になる。ぬるま湯ではなく、サウナに入らなければならない。ちょうどよくないから嫌だ、が難しくなったのだ。

ネットでつながってしまったからには仕方がない。どんどん人は各人で別々のいきものになっていく。そのためひとまずは、社交で表面的に横つながりする。田舎に行ったら地元のおばあちゃんたちに「こんにちは〜」といっておけばいい。どっかの西洋でエレベーターに乗ったら「hi」とかいっておけばいい。ひとまず機械的。ひとまず、接するための熱なんかいらない。

しかし同時に近しい人と接することは熱い。親友とはライバルだ、各々で向上心を燃やしあうんだ、みたいな感じになる。

自分ができていないことを書くのもなんだなと思うけれど、こう白状したのなら書ける気はする。

例えるなら漱石の悩みが、今は庶民にもやってきている。世界は一部の何かが繋がってしまったのだ。島や村的な、協調の範囲内だけで生きていける時代が壊れてしまった。これがネット時代とかデジタル時代とかの裏面に書かれている。情熱が一致しない人と話をすると細かいところまでは語れない。そういう接し方もある中で、しらっとできないと生きた心地が悪い。(だから文学をやろう)


最後に

人間の向上心はさまざまな力を手に入れてきたんですな。

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