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エッセイ:「したくないこと」と読む能力の話

僕は「文章」を尊敬している。つまり、耳で聞くハナシ言葉をこれといって尊敬していないし、いくつかの文字という少なさではとくに尊敬をしない。どうもそうらしいと気づいてこの話を書きはじめた。

ただし尊敬をしないといっても、それらを軽蔑しているわけではない。はぐらかしに思えるだろうか。

耳から入る物語があるから、「文章」に入りやすいのだ。必ずしもヒトはそういう傾向ではないかもしれないが、僕の場合はそのようだ。

小説など物語を読むためには、まずは誰かに物語を語ってもらってたくさん聞くことで、世界への入り口が広がると感じる。


話は逸れるが、The文系の文学小説などではなく理科社会など人文系科学の場合は、自分で疑問や不思議に思うことを先に持っていたり、その話を聞いてすぐにその現象なりに接することで、身につきやすくなるようだ(体験上)。つまりこういうことで世界への入り口が広がり、自分から手を伸ばすことができるようになる。


物語を聞くことに慣れれば、物語を読む力になる。僕は幼少期にそれを満足するほど得られないで大人になった。そしてたまたま、「音声」に出会って、物語を読むことができるように変わってきた。今は、それを意識的に利用して、読書に繋げている。それが進んでくれば「作用」を使わずに読書ができるようになるのではと思っている。

それはもしかしたら、音声で頭に入れるという手順が良いのではなく、読みの声を聞かせてもらえること、つまり読んでいる人を体験することで、「読む能力」を共有してもらえていることが効いているのかもしれない。つまり自分で読むことにつながっていくのならば効果ありだと。そういうものでなければならない。

なぜなら自分で理解をする「思考的な能力」を手に入れることと、他者に言われたように「自分を記憶的に動かす能力」で自己改ざん(意味に支配される機械になること)を進めることと、どちらに振れるかと考えると、上段のように答えられなければ危険な作用を説明していることになるからだ。


僕の場合は電子機器の読み上げ機能によって、読むための能力がついた。これはどのように証明できるのかはわからないが、これまで書いたように、体験として確信できる。

その確信を根拠にしてよいかは問題だが、その確信から言えるのは(上記の懸念も含めてで)、音声勉強は自力にはならず洗脳になってしまう危険なものだということだ(現在スター性のある活動として見られていることなので、モンスターの可能性を指摘すれば抹殺されるかもだが)。音声の恐ろしさは20世紀の世界大戦で指摘されている。さらに曖昧な事を言うが、デリダがそう指摘していたような気がする。知らんけども。

ただそもそもがただ僕一人の確信によるものなので、今回はここを広げるのはよそう。いつかその説明ができるようになったら、それを書くだろう。


具体的なやり方をいうと、要はKindleとiPhoneの読み上げ機能を使っている。車の運転中に物語を聞いたり、キッチンの作業中に物語を「かけたり」している。専用のものでもよいのだと思う。体験ではないけど。

僕の場合、耳は電子版で(というのは当然そうだが)、目は紙版の方が接しやすく(物には神性がある・フェチといわれる場合がある)、気になった物語は二つのフォーマットを購入することになる。

こういった他の作業をしながらの状態で聞いていても、実際にはさほど、聞き入っていないようだ。入ってしまうのなら特に運転は危ないので、この程度のものだ。

ただ、数ヶ月そうやってみれば、少し影響はあるのに気がつく。ぼんやりとでも聞いたことがある話は、いきなり読むよりも読みやすい。そうなると今まで読めなかった小説が読めるようになる。自分で自分に体験させてあげる、というやつだ。


世の中の物語にはおよそいくつかのパターンがあるそうで、どことなくそれを知っているから、読むことが辛くないのだろう。知っているから読めると。

例えば、ジェットコースターに乗れば、高速落下や急旋回で通常では体験できないものを体験すると、すでに知っている。知らなかったらそれに乗る意味を感じなかったり、乗りたくなさすぎると思う。知っているから(知っているけど)それでもまた乗るし、他のジェットコースターにも乗ってみたいと思うのと同じだ。それでも僕は乗りたくないが、物語の場合はこれと同じように、そうやって人間の能力も各人の世界観も人づてに横展開していく、というお話だ。

知っているからやれる。ヒトは大抵、知っているからやれるのだと思う。初めてのことであっても、知っているからやれるのだ。もうこれ、めちゃ大事だと思うので3回も書いた。「知っている」ということは、頭で理解するということではなく、「擬似的に体験」つまり「体験の体験」をしたことがあるかどうかだ。こういうのが身体性とか盛んに語られていることでしょ。

その本当の「知っている」ということが、入り口ではおよそであったり「的」とか「風」レベルで、それそのものではないけど「大体そうでしょ?」といったものなのだ。そしてそのうちに「その場・その時」などの限定度が高い(中毒度といってしまうとアレだが)体験を欲するようになっていたりと。でも中毒なら尚更、最低一度は知っていなければ始まらない。


だから僕はこのようにして、およそ幼少期に身につけることが多い物語を読むような能力を、大人になってからたまたま自分で身につけることができたのだ。こういうとナンだが、部分的にヒトは機械に育てられることもできるし(AIで英会話の練習)、たまたま(全人類レベルで)そうなっていることにほとんど気がつけないのだろう。

その中で、その作用の仕組みを知っていなければ、上記のような恐ろしい顛末に進んでしまう。ごめんだけど今の主流は、スター性のある活動は、だめなものだ。なぜなら思考の短絡を起こすからだ。私よりも仕方が先立ってしまう。またここにいる私を抜かして「したくないこと」が動きを止めるようになってくる。「ここ」よりも「どこか」が先立ってしまうと。

「したくないこと」ではなく「できないこと」がやれないのがより無心なものだし身体性ありきな発想だと思う。理想がといって私を捨ててしまうようなことは避けたい。

しかし現在の主流は思考の短絡が自分の動きを決め(制限し)ている。それでは動的にも意識も、広がっていく方向性がない。そういった「できないこと」がやれないことという判断に価値があるかというと、価値ある思考上で扱う部品ではなさそうだし、筋上関係なさそうだが、価値価値いうことがもう泥沼に沈んでいることなのではと思う。

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