進化の終わり

先日、ある新書で哲学史を読んでいた。そのとき急に大きな理解がまとまった。「そうか、、、死から逃れたくて人類は考えてきたのか、、、」と。

哲学史。子供っぽくいうと「考えの歴史」か。僕は学者じゃないのでこっちだな。それでも渋めにいうと「人類は何に向かっていたのか」「それに一貫するものが感じられた」ということ。


「死から逃れる」ために人類は考えてきて、実際企画倒れが発覚すると次の時代を作る考えが生まれ、変化していったと僕には思えた。


出来事などは人それぞれの解釈で別物にもなってしまう。歴史であれば現代人によって解釈されたものが、僕らにとっての歴史になるところがあるようだ。といっても勝手な解釈と学問界の解釈では意味が違う。まずは本流を知らないといけない。学問ファンの僕はそう言っておきたい!まぁそれはともかく。

もし中世の人に、僕らが理解している中世の話をしたらヘンな顔をされるかもしれない。中世の人は「そんなこと言われても、そうなのかもしれないけど、困るよ」と思ってしまうのではと。時代が過ぎないと言えないこともあるよ。ということは、今の時代にもあるはずだよな。

ちょっとひねりを加えていうと、いま生きている人間は、いまがたどり着いているというテイで世界を見ているのだろう。

僕は過去の哲学が考えてきたことを振り返ってみて「人類は死から逃れることを進化としてきた」と、そう考えることができた。ということは、語られていないけれど、死の問題は解決している。あれそうだっけ?


哲学や哲学史に限らないけど、勉強界隈では西洋の流れが中心になってくることが多い。なのでそこはそれでみていく。そこに反対しても無駄にややこしくなりそうだし、その後にインド東洋系を重ねてみる。そんな感じで考えたところ、人類の死の問題が着地するように思えた。

でも多分こう思うでしょ。「嘘つけよ!「死の問題が解決」してるとはとても思えない」

だろうけども実情、この辺りが人類の限界なのだろう、と思えた。つまり、擬似だけど、死の問題が着地しましたと。

これが「歴史の終わり」なのかもだ。あの有名な本は読んでいないので突っ込まれるかもだけど。ともかく、現代人にとってみたら、人類進化の(疑似)終わりだと僕はそう考えた。この先も進むのだとしたら、この疑似を外せるかの挑戦になるのだろう。


現代は、進化が頭打ちになった状態みたいだ。だからだろう、ラベルの張り替えで新しいものが流れていく。新しいものというより、「新しい印象がどんどん作られていく」時代。ただ、これをやること自体が目的になると自滅する気がするけど。

ともかくこの時代になって、この頂上でぐるぐる動き続けるのが人類の限界。というか、擬似的到達点の妥協せざるを得ない到達した生き方。上位の妥協。


「ポストモダン」時代だという。モダン:近代が終わって今はもう次の時代だそうだ。時代が変わり、人々はどうしようかと言っている図式。人間て案外、時代が次に変わるとどう振る舞ったらいいのかわからないものなんだなと。

まず、ポストモダン時代の人類には、ポストモダン後もあるはずだと予想することができる。でもそう考えるのがモダン期の人類なのかもしれない。

モダンまでの感覚では、時代はもっと進んでいくという感覚だった。一応、いい感じに進むぞというテイで。

しかし今回も進んでいくとは限らない。進んでいくという希望は保留してしまう。この時代、到着しちゃったこの地点で、なにをすればいいのか知らんけどそれをしていく時代になった、というのがポストモダンなのかもしれない。そう考えると今はまだ、ポストモダン時代人と後期モダン時代人とが混在しているのだろう。


よく聞くタイプの話になってきたかもだ。ともかく。少なくとも現状の人類にポストモダン後はどういうものなのか、遠すぎてわからない。未来思考の人からはそんなことないと思われるかもだけど。

先に出てきたように、ポストモダン期の感覚に溶け込んだ人にとって、先があるなら先の先もあるという感覚はモダン期までのものだよ、というかもしれない。想像力を未来に向けるのはもう古いのだと。ちょっとここは表現微妙な気もするが。


西洋哲学史を眺める。時が進むにつれ人類の考えも変わっていく。ある時代で一旦決着がつくのになぜ変わるのだろう。多分だけど、僕たち多くの人間は、実際と違うことに何度も何度も引っ掛けられないからではと思う。

その話はどうも違うなとか、そういう考えが始まったりして、時代は変わっていくのではないか?その結果、科学で世界を見てみようよという時代が生まれたのだろう。

でもなんでそもそも科学が必要なのか?人間はこの世界がなんなのか知りたがる生き物だからと聞いたりもする。確かにそうだろうし、それもわかるけど、実際面倒じゃない?

大枠の説が書き換えられるまで何百年もかかったりするわけだし、この世界がなんなのか知りたいけど、自分が生きているうちには無理くさいなと、なんで思わないのだろう。なにこの積極さ。ま、やりたい人がやったパターンかもだけど。


科学で世界の仕組みを理解したい情熱の謎。現代の僕からは、それができたら死の克服方法もわかるはずという考えを持っていたのではないか?と見えた。健康マニアの空飛んじゃった版かもしれない。だけどまあ死の克服だよと言われたら期待するかもだ。取り組む価値が近くに感じられる。

実際、体が滅んでも心が生き続ける世界観などはよくある。それはそうなのかもしれないけど、でもまあ、体はね。おしい。人類が永遠の体を望んでも文明状況が整わなければだし、その前に人類滅亡(地球の終わり?)の噂も解決しないといけないのかもしれない。しらんけど。

環境を考えるのならベジミートだけでなく、培養人造肉の開発だとかも準備する価値がある。ナチュラルからとても離れるけど、環境対策の筋上ではどちらも必要に思えてくる。いや培養人造肉のその先は、先客のない新しい肉体を手に入れられるようになるのか?


いったん話が外れるけど、世界の問題は正しさや間違い、正義と悪ではなく、ジレンマだ。その正義が悪と言っているものは、こっちの方が正義だと言っているんだから。よい世界になっていないことが問題なのではなく、論理と実際の状況との食い違いが問題なのだ。

正義が引っ込んだ世界になれば社会のジレンマが軽くなるのかもしれない。この筋の場合、正解よりもアルゴリズムのキーストーンを探した方がいい。無用なつっかえを解放して流した方がいい。

この世は傾向でできている。そのバランスを取ることはちょっとくらいできるようだが、それがせいぜいなのだろう。


現代社会を眺めてみて、ここまで科学が進んできたけれど、どこか過剰だ。科学を疑うのではなく、科学の使い方をよくよく考えたらいいのにという感じ。それをしないと科学が人を殺す。20世紀の反省がこれだ。

近代になって科学の発展が進んだ。でも世代が進んで、なんで科学しているのか、しはじめたのかよくわからずに、世のため人々のためというキーワードにただ従う感じになってきている。こういうのを自分がないというのではないか?

元がわからないと道具をあれもこれもと最大値まで使うようになってしまう。歴史に書かれていることはこういった人類の失敗が多い。それ以前の大昔の人からしたら「必要なことしたら終わりでいいんじゃないの?」と無意味に見えるだろう。「いる分だけやるんじゃなくて、要らなくても関係なしにとにかくやるんだ、、、ご苦労さんだね」という絵面。これでは労働時間も効率も、変えていけない。


死から逃れるためにどうしようかと考えた人類。西洋バージョンを見ると、一旦宗教の時代で着地できた。死んでも先があるし、死ねないんだし?、みたいな話に。

しかし、そんなものはないと言っちゃう科学の世界。空気読まないタイプ。じゃあ科学のせいで世界は問題復活なのか?

オランダでは自殺用の機械「サルコ」が作られたらしい。なんかこれ、科学with宗教のように思えた。天国に行く意思をかなえる?そんなにカジュアルに思えるのだろうか?自分の意思ね。スイスとかオランダとか、なにか目立つ。うーん、それもそうなのかもだけど、東洋系の思想では別のことを考えてきたようだ。


元をたどった仏教観でいいのだろうか。正直まるで詳しくなくて流し読み程度での理解でなのだけど。その世界観が今に伝わっていて、西洋でも一部の人たちが取り入れた。

そういったものがブーム化した時があったようだ。そういった思考の人、近年だとよく、スティーブ・ジョブズが挙げられる。彼、またはこういった世界観に賭けた人は何を指向していたのだろう?

これも「死から逃れるため」「死の問題を解決したくて」ではないかと考えられる。

スティーブ・ジョブズにピントを合わせると、彼がさっても彼の残したものは生き、彼の魂が残っている。今のところ広く語り継がれている。


19世紀末にニーチェは「神は死んだ」と言っちゃったのだそうだ。これは宗教が人類を救う役目を終えましたといったのではナイのかもしれない。ニーチェは、科学の限界に気づいてしまったのではないかと思う。

ま、科学というよりかは、科学による人類の問題解決は企画倒れでしたと、そう言ったのかもなあと。これはつまり、科学が人類を超えてしまったということ。道具が人間より強くなっちゃったと。そうなってみて「で??」となったと。

近代化、産業革命だとかは「死の問題」を軽くできないどころか新型の死の問題を生み出した。「人生NG、、、」を「積極的に」生み出すようじゃ人類全体としては狂っている。ただでさえ実情そうなってしまう人がいるだろうに、なんでよりによって人間が積極的にそんなことをするんだと。

それ以前にも、なにかしらの握力で仕切る人間に、暴力なども使ってどいてもらった歴史があった。また同じようなことやってるよとニーチェは(も)言ったのかもしれない。


「他は知らんけど自分達は生き残る」という考えはやめてほしいところだが、だから正義が同時に問題にもなるのだ。正義が勝ち、悪が滅びるってね。

また、だから本当の問題解決方法を語ることがタブーになってしまったのかもなと思う。正義も卒業したい項目に入っているよって言っちゃうと、正義から潰される。


「死の問題は疑似的に片付いた」という話に戻ろう。

細かいことは抜きにして、動物と人間の時間感覚は違う。人間は過去を知っているし未来を想像できる。動物もいくらか考えられるよという話はパスして、大枠で言うとそう言える。

人間の記憶力は過去を保つし、思考力は未来や将来を広げるし過去も動いて見える。でも、今現在は?と。

動物からしたら今現在がほとんどだ。ややこしくなるので動物の感覚には今しかないと言ってしまう。ただし、人間も動物だ。人間にだって「今現在」はあるはずだ。

どうやら人間は、時間幅が広がったけれどその分「今現在」が苦手になったらしい。過去←今現在→未来。頭は過去か未来に行ってしまう。20世紀あたりに西洋思想は、人間はそういう生き物だということにやっと気づいた。ちょっと、人間と動物とを分けて考えすぎたきらいがそれまであった。


西洋系と東洋系の思想が合流してみると、それぞれ別部門で得意な思想が練り上げられてきたのが見えてくる。

結果的に西洋は、人が死ににくい社会を物質的に作った。平和であればだし、余計なことを考えなければ受け取れる。

東洋系の思想では、死の問題を内面から解決しようとしてきた。時間で言うなら「今現在」を問題視していたようだ。

西洋が東洋の文化ぷりに目を止めたのが19世紀辺りのようだ。そのあと表立って取り入れてみたのが世界大戦後のようだ。お互いの得意が「よいように」ブレンドされてよい感じになればいいよね。


戻って「今現在」の話。人間にとっての時間の最小単位があるそうだ。それ以上細かくなったら、細切れなのか連続なのかもう見分けがつかない。パラパラ漫画が速くなると動きだすような話。

人間が集中したらその時間にまでいくか、近づくかするのだろう。集中しているその時、ヒトには思考している時間はない。動けるだけのギリギリ短い時間では反射するしかない。一回考え直している間がないのだ。

今現在だけにいるなら人間は考えていない。インド東洋系ではよく「悟り」とか言っているのがこれ関係だと思う。人間の身体は「今現在」をできる。「考えるな」というセリフもある。

まあ、集中して頭を消してみるのと、一回立ち止まって考えるのと、両方行き来できたら人間機能を活かしきれるよなぁと思う。人体側から考えはじめたインド東洋系の思想は、この話の筋上に乗せるとこんな風だ。

西洋的と東洋的とどちらも半々の分量で、両方にまたがって考えないと行きすぎてしまう。洋の東西にまたがれということではなく、内部と外部と両方だという話ね。

時代への互換性と考えると、今となってはもう、どちらかに偏っても半分苦しいし半分意味不明になってしまうのではないか。そして実情現代は、内面も外部環境も両方で苦しんでいて、なんだかおかしなことになっている。


一旦話は飛ぶけど、そこが理解できるようになるために一般的には、基礎学問が必要で、それを体系的に感覚できるようにならないといけない。思考で扱える世界が立体化し、頭の中にいろいろな地形が作られて、いろいろなところからこの世を眺めることができるようになる。

立ち位置を増やして知識が自動で融合していく下地を手に入れることが学生時代の勉強の目的で、世界を感覚する能力の一つを手に入れることが基礎学問を習得する目的。

目が見える人にとっては誰かから目で見る方法を教わる必要がないだろうけど、脳を使って世界を擬似自力で知覚することは、基礎学問の訓練後に手に入るのだ。

勉強は得点や知識量が目的じゃない。それやっても人生のも世界のも、大問題は解決しない。学問ファンや学問クラスタはこういう条件の傘下にいる。


それで「今現在」のどこが「死から逃れる方法」なんだってことになる。悟っても死ぬじゃないかと。擬似的というかね、生きている時の死の問題は解決すると言うふうなものだけど、それならある。

「私」は「私の身体」の中にいる。デフォルト設定はそう。だけど「私」は「私の身体」から抜け出ることがある。

手に持った道具を使いこなしたら私の感覚は道具にまで延長されている。アタッチメント込みの「私」になる。「今現在」だ。考えていない。感覚が加わった。

インスタグラムで美しい野菜の画面を見て「うわあ〇〇だ」とそれが手元にあるかのような感覚が湧く。「私」はこの時、そっちに行っている。

その状態ではなく、「私」が「私の身体」の中にまだいるとしたら、美しい野菜の画面を見て「美しい野菜が『写っているねぇ』」とか「野菜の画像見てどうしたらいいんだっけ??」とか思っているはずだ。「私」は画面に入れていない。

映画を見るときでも「座っていて体が休まるな」とか思っている時は「私」は「私の身体」の中にいる。映画がリアルに感じられている状態の時「私」は画面とくっついている。


「私」が「私の身体」から抜け出ることは、現代人は当たり前のようにやっている。いやむしろそればっかり増えちゃったとも言える。逆に身体はどうしたんだよというくらいに。

現代のアンバランスな問題の一つ、「私の身体」にも戻りましょうよと。「私」が「私の身体」と「外」と行き来できるのが、「私」の活かし方だろうし「私」の自由だと思う。


このように何か器にあたるものに「私」は乗り移ろうとする。アバターってこれか?と思い浮かぶ。「私」は器状のものから自由にはなれないので、その点では私の自由にも限度がある。だから何でもかんでも自由ということは出来ない。

「私」はあちこちに入り込もうとする。これもまた歴史の挙動に見える。それをやりすぎちゃうからいけないことになる。自由はいいけどワガママはなしと言うのはこの辺りだな。

現実さんは僕たちのいうことを聞かない。無理に押しつけたって受け取らない。現実さんとのコラボでどのくらい自由にやれるかに感覚を持っていきたい。


数年前に陶芸体験でマグカップを作った。知人数名も僕と同じで陶芸は初めて体験だった。でも知人たちは作れなかったり思ったものと違ったりしていたようだ。

それをみて、これまで持っていた感覚が言葉になった。素材さんのやれることを越えたものは作れないし、素材さんと相談しながら作らないとうまく作れないのだ。僕の担当は企画者ではない。動力担当だった。

だいたいみんな、こんなマグカップにしたいという思いを先に描きすぎていた。目標設定を設けてしまっていたようだ。設けてもいいけど、都度修正する必要がある。

それまでにも僕は、遊びでオブジェ作りをしていたが、確かに「動力担当」をやっていたと気づいた。オブジェ作りがスムースにできるようになったとき、その感覚を身につけていた。そのとき、自分と道具と素材と、一体になっている。


「私」はなにかに移動することができる。だったら人間にとって無限に近い存在(大地だとか)や、世代を受け継いて永遠に循環する存在(世間だとか)に、「私」が入り込めたらどうか?「私」は永遠になる感じが持てる。軍隊教育はこれを利用しているらしい。

ともかく、よいほうに向けてシンプルにいうと、「私」は世間になることができる。世の中に「私」が互換して一体感を感じられるようになったら、「私」は連綿と受け継がれて行く感じがして、ずっと生きていく気がしてくる、といったもの。

いやまぁツッコミはわかるけど、延長もあるんだね!というノリが加わったみたく思ってもいいんじゃないかなぁと。時間きたらそっこう帰れとうむを言わさず追い出されるよりかはよいでしょ。


でも入り込める対象は世間ばかりではない。男女が(+−)してトランスしてフュージョンする±0のときも「私」は「私の身体」専属ではなくなっている。世界平和「メイク・ラブ」の一歩目でしょ、知らんけど。

そのあたりで既存の性道徳観は、旧来の宗教道徳的な考えが強く、ポストモダン様式には馴染まないと思う。対策をすることで次の段階に進むことができるようになった。対策をしないことが問題なので、旧道徳から外れていることが問題なのではない。ともかく。

とはいえ死の問題はと考えた時に、生きている人間に入り込むだけでは対象が違うかもだ。ただ私の体から抜け出していく憑依力のトレーニングにはなる。

その点で(+−)は身体の社会性能を高めるために超重要だと思う。(+−)でなくても、ふつうにスキンシップは人間に重要だというし、同意する。ヒトの成長を考えてみると、性欲のあとに社会性という変化パターンの人が多いと思うし。

(+−)で全て解決着地でもないけど、それをしたらあかんことにしても人間は狂うでしょ。そういうしつけは苦しみを生んでいるのではと思う。スキンシップは身体の社会性の行為の一つで、人類の体が真っ直ぐ生き続けるのに欠かせないものだ。

気になることは「自分主義」の欲望が図々しくなることではないか。それが行き過ぎると犯罪ぽい。その辺の頃合いが言葉の説明やルール決めでは難しいことがジレンマではないか。

個人主義から遠く離れた教育の仕方はそこが恐ろしいの。個人主義になれない個人が個で独立しようとしても、周囲を手放さず自分主義になってしまう。ガキくさい大人を増やしてもどうしようもないでしょ。

というか子供を子供扱いするのなら、ある時になったら大人化をしなければならなくなる。でも思うほどの段差なんかない場合が多いでしょ。同窓会みてたらそう思う。「デビュー」はデビューじゃなく周囲への反撃だよ。反動。社会のヒトの扱い方がいまだに旧式なの。


人間の一般的な社会性の発揮と、身体が他の存在と互換していくのと、「私」の挙動には共通なものがある。ただ、現代に議論されている問題も加味すると、そこばかりにはまり込むのではなく、人間以外にも親和的に生きましょうよとなる。社会や他人だけでなく、人間以外の物や自然やと。マグカップ作りの話とつながってくる。

西洋の考え方は、人間社会:ポリスと、自然:その外部世界と分けて二元化するクセがあった。大昔の日本では、その傾向は強くなかったようだ。

そういう、人間の足元ではない、外部にあるようなものにも溶け込んで、「私」が「私の身体」から「出かける時を持つこと」がいいのだろうと。

それと、「私」が半分世間に溶けて生きたのなら、いまわの際に人々に見送られること(を確信できていること)で、「私」は世間に溶け込んだ感覚で終われるのかもしれないなと思う。これで死の問題は着地。着地というか実情これが限界。


ところでこの時代にはネットの影響もある。ネットの影響で私たちが苦しんでいる部分も大きいと考えられていると思う。そこで、メタバースが構想され準備されているのだろうと考えることもできる。

身体の死は逃れられなくても、憑依できる世界はあると。憑依先に身体めいたものがないのがネット。ネットに自分のアバターがいるというだけで随分違うものになるのではないかと思う。

メタバースは西洋的には未来世界なのだろうけど、インド東洋的には大乗仏教的な取り組みと思える。と言ってもメタバースにはとても大きな心配も予想されている。そこは、どうなるのかわからない。


今現在の目線で、人類が何をしてきたのか、今現在はそれでどのようになっているのか。こういったものが考えの歴史からこのように感じられましたというお話でした。

話の雰囲気からすると、この話を丸々信じちゃうのでは矛盾してしまう。なので僕は、哲学史の本を手に取ることを勧める。あとは基礎学問系の新書。それと文学・小説を読むことも。

まず文学・小説は、文をなるべく高精度に捉える力。そして言葉から空間に転換していく力。文学・小説を読むと、こういう力もつけられる。そうすると本の言葉からも世界を知ることができるようになる。

新書は学者や専門家が初学者向けに解説したものが本来だったので、世界把握の力が身に付く。自力だけで世界把握しなければいけない状況から抜けて思考が大きく速くなる。

残念ながら耳から入ったものは、脳が反応する場所が違うそうで、時空的な力は活字を読むことで鍛えられるそうだ。


「哲学史」「新書」「文学(文庫)」を薦めます。←これをセットで↑この話をどうぞ。


まとめ

・世界の問題は人類の問題なのだろう

・人類の問題は死の克服問題なのだろう

・世界の問題は私が生きれる世界の維持問題なのだろう

・「死の問題」は疑似的な解決がされてきた

・社会性のある何かに、互換するように集中するといい

・新書、文庫を読もう


おまけ

・近代時点の解決の限界を暴露したのがニーチェらだった

・実存主義者らは、それでも生きるための新型の克服方法を結果的に残した

・東洋思想とブレンドされて実践できそうな話が見えてきた


・そのための、トランスやフュージョンの理解

・先に思考で次の一歩を決定しない

・集中していると身体の反応:能動性が残したワダチが残る

・それが人それぞれの才能:道ではないか


・画面へ反応することは、反射的な挙動を他人に作られてしまうので自分が始まらない

・そうではなく、世界を直接自分の目で捉える力も育もう

・これが読める人であれば、活字から離れてはいけない


・自分一人でもやってしまうものを発見し育てよう

・これが能動性の生きる活動との出会いになるだろう


・ネット社会では「あなたはなにマニアか?」が問われている

・マニアに着地した一貫性ある発信により、あなたはネット上で周囲と繋がっていく

・これを求めるのなら、自分だけになり、マニア性を見つけよう


・社会的なものへ互換することも忘れずに

・ここが思考の身体性だ

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