見出し画像

「中庸」の誤解(アリストテレス)

今回は、(儒教ではなく)アリストテレスの「中庸」という概念によくある誤解について考えていこうと思います。
まず、中庸の意味について簡単な解説をします。

○「中庸」とは?

中庸とは、アリストテレスが提唱した倫理学上の概念であり、徳の一つです。具体的には、過度や不足といった両極端を避けたそれらの間を選び取る徳のことです。例えば、無謀と臆病の中庸が勇気、虚栄と卑屈の中庸が矜持などです。アリストテレスは、思慮によってこの中庸を選び取り、それに沿った行動が良い行いであると考えました。

ところで、世の中の議論を巻き起こすような問題は程度の問題がほとんどです。そのため、両極端を避けた選択をするのが適切と考えられ、それを中庸と表現することが多いですが、アリストテレスが言った中庸はあくまで倫理学の概念、つまり行動の基準の話です。今回はそれを前提に考えます。

○中庸を得る際の注意

具体例から帰納的に考えて分かるように、一見すると中庸はものすごく正論に見えます。というか、アリストテレスが言ったように中庸を得ることは、間違いなく適切な行動です。しかし、中庸を得る際に不足があると、中庸とはいえない陳腐な徳に成り下がってしまいます。勿体ぶるのも良くないので結論から主張します。

私は、中庸を得る前に必ず「思慮」を挟むべきだと考えます。

特に何も考えずに何となく感覚的にちょうどいいと思える判断をしても、それは中庸とは言えません。なぜなら、倫理学は主観の問題を扱うからです。

○もし「思慮」を挟まなかったら…

具体例を挙げて考えてみます。「体罰」は適切な行動と言えるでしょうか?現代社会を生きる我々なら、ほとんどは「不適切である」と答えるでしょうし、私もそう思います。さらに、教育をする上で、体罰は「過剰」であり、しかし一切叱ることをしなければ「不足」である…と考えるはずです。

では、昭和時代やそれ以前の人達に同じ質問をしたらどうでしょうか。恐らく彼らは「場合によっては適切」と答えるでしょう。さらに、無闇に体罰を行使することは「過剰」だが、全く体罰をしないのは「不足」である…と考えるでしょう。

当たり前のことですが、何が過剰で何が不足か、何が中庸といえるのかは時代や環境などによって異なります。

思慮なしでは、中庸は単なる常識的な感覚を選び取ることと同義の、思考停止に陥ってしまうのです。

そもそも中庸は徳のことであり、判断の基準にはなっても、それだけで倫理的な善悪を決めてくれるものではありません。ですから私達は、常識的な感覚のみに頼らず、思慮深く考え抜いた上で、何が本当の「中庸」足り得るのかを判断するべきだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?